※22000字近くあります。僕にとっては結構大事な文章ですが、僕が先日、亡くなってしまったネコのことを書いて吐き出しているだけの文章とも言えます。

1 チーズが亡くなるまでの経緯

チーズといううちのネコのことを書くのは3回めだ。そしてようやく最終回になると思う。なぜなら、チーズは、亡くなってしまったからだ。僕は、僕のなかに何か強い感情があるとき、それを文字にして吐き出すと少し落ち着く。だから僕はこの文章を書いている。

そのような目的で書く文章だから、あえて前に書いたことを読み返さずに書く。だから、同じことを書いてしまっているかもしれない。けれど、同じことを二回も思いつくなんて、それはそれでいいじゃないか。

1回め https://dialogue.135.jp/2022/05/21/cheese/

2回め https://dialogue.135.jp/2022/05/30/junkan/

チーズは5歳半で亡くなった。前には6歳と書いたはずだけど、家族で確認したら5歳半だった。なんでそんな勘違いをしていたんだろう。少しでも長生きしたことにしたいから、あえて考えないようにしていたのかもしれない。やっぱり早すぎる。

まず、簡単にチーズが亡くなるまでの経緯を記録しておく。

2022年5月16日、なんだか調子がイマイチに見えたので、念のため病院につれていったところ、原因不明(あとで考えると多分、心筋症によるもの)で暴れて吐いて、誤嚥性肺炎になった。

だんだんひどくなり、20日から23日までは入院した。一時は死んでしまうかと思ったけれど、退院できて、最初は強制給餌だったけれど徐々にご飯を食べるようになり、27日くらいからは結構よくなってきて、そこから1週間強、ちょっと活動量は低いけど以前と変わらないチーズ、くらいになって、色々とかわいい姿を見せてくれた。

ただ6月7日くらいから、なんとなく食欲が落ちてきて、機嫌はよさそうだったけれど、10日からは息がだんだん息が荒くなってきた。。もともと、14日(火)には病院に行く予定があったのだけど、それまでに胸水を抜いておけばいいのかな、と思い病院に連れていくことにした。そして、日曜日でもやっている病院をみつけ、12日(日)の夕方、僕のベッドの横で息は荒いけれどのんびり僕を見ているチーズを不意打ちで捕まえ、ケージに押し込めて午後5時45分頃に家を出て病院に連れていった。

診察の結果、胸水はなく、多分拘束型心筋症由来の肺水腫、心筋症はかなり悪いとわかった。利尿剤の連続点滴が至急必要なので24時間治療ができる病院に連れていくべきということになった。

移動するタクシーの途中で、口を開けて息をするようになり、目を見開き、吐きそうな動作をして奇声をあげた。15分くらいで病院に到着した頃には意識も朦朧で、そこから治療が始まった。それが18時45分くらい。

その病院では、利尿剤の効きが悪く、今夜を乗り切れるかはわからないと言われた。五分五分とは言われなかったが、それに近いニュアンス。2時間くらい病院にいたあと、家に帰り、午後9時頃、遅い夕食を食べた。

そして明日は仕事前に病院に面会に行こうと思ってベッドに入ってウトウトした頃、12時少し前、病院から電話があり、娘と一緒に病院に駆けつけた。それが2022年6月13日0時15分頃。だが残念ながら到着の直前、チーズは息をひきとったとのことだった。死亡時刻は0時15分とのこと。まだ温かくて、鼻や口からは液体が出ていた。聞くと、数時間は小康状態だったけれど、23時半くらいから息が荒くなり、そして亡くなったとのことだった。

僕はずっとチーズが亡くなるとき、苦しまないといいなあ、と願っていた。心筋症による肺水腫というのは水に溺れるような苦しさがあるらしい。そのような苦しみがなければいいと願っていた。チーズの場合は、少なくとも午後5時45分までは普通にしていたし、本当に苦しかったのは、多分午後6時45分から午前0時15分までの5時間半くらいだろう。とても苦しくて、とても頑張ったと思うけれど、それほど長く苦しまなかったのはよかったなあ、とも思う。

だけど、あっという間だった。直前まで、あんなに元気そうだったのに。日曜日の昼、僕と妻と娘は、ベランダでゴロゴロしたり、洗濯物にケリケリしたりしているチーズを見て、こんなかわいいチーズをもう少し見ていたいなあ、と思っていた。だけど、そのとき、皆、言葉には出さなかったけれど、今というのは、とてもかけがえのない時間だということはよくわかってはいた。

チーズはかわいくて、やさしくて、ひかえめで、かしこいネコだ。The RoostersのGirl Friendの歌詞のような女の子だ。きっとこれから、チーズを思い出すとき、BGMでこの曲が流れるのではないだろうか。歌詞と違うのは、結構、美人ネコだということくらいだ。

シルクのドレスがよく似合う あの娘がおいらのガール・フレンド そんなに美人じゃないけど とってもかわいく笑ってみせる ~ あの娘がおいらのガール・フレンド そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる ~ もしもあの娘が去ったなら おいら一日 泣き暮らす ~ G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L Oh GIRL FRIEND

あと、もうひとつ歌とは違うのは、チーズは僕のガールフレンドというより、妻のガールフレンドだという点だ。いつも妻のベッドで一緒に寝ていた。いつも妻に話しかけていた。(もう一匹、僕になついてるボーイフレンドがいるから、夫婦間の猫バランスはとれてました。)

妻はちょうどチーズを病院に連れていく直前、19日日曜日の午後4時頃、二泊三日の出張に出てしまい、チーズの最期に立ち会うことができなかった。僕が一連の判断と行動に関わるなかで、妻とチーズの関係を失わせてしまったのは心苦しい。

2 具体的な後悔

僕は、12日日曜日に病院に連れていくという判断をしたこと自体は間違いではなかったと思っている。病院に連れていくと思い至ることができた自分を褒めたいという思いもある。日曜日に開いている病院を探し、良い先生に出会い、適切な治療を試みることができた。チーズにやるべきことをやってあげられたという自負がある。

だけど、一方で、もし、この日、病院に連れていかなければ、あと数日、いや数時間は普段どおりのチーズでいられたかもしれない、という後悔がある。

病院の先生からは、このまま治療しなければ夜を越せないと言われはした。だけど、チーズは通院のストレスで容態が悪化する繊細なネコなので、通院さえしなければ、もう少しの間は大丈夫だったのではないか、とも思う。

そう思うと、どこかで妻に対して心苦しいし、妻と会えないまま別れることになってしまったチーズに対しても心苦しい。

僕は今回、本当に色々と後悔している。病院に連れて行かずに家でそっとしておけばよかったとか、いや、もっと早く病院に連れていけばよかったとか、色んな思いが交錯している。自分でも矛盾しているとわかっているし、そのときにはそうするしかなかったという慰めの言葉のほうが理屈があるというのもよくわかっている。だけどどうしても後悔してしまう。

昨年の10月、チーズの調子がおかしいと思ったとき、もっと検査をしておけばよかった。そうしたら、心筋症が早く見つかっていたかもしれない。

そこでは無理でも、4月になり、てんかんのような症状が出る頻度が多くなり、少し食欲が落ちているかな、と思ったとき、病院に連れていけばよかった。

一旦治療して落ち着いたあと、6月7日頃からまた食欲が落ちてきたとき、または6月10日、呼吸数が多くなっていると気づいたとき、病院に連れていけばよかった。

そして、6月12日は、病院に連れていかなければよかった。または、入院のためタクシーで移動するとき、そのままケージに入れずに洗濯ネットに入れてあげたら少しは落ち着けたかもしれない。調子が少し悪くなったあのとき、もう少しケージを開けてなでてあげたら、ストレスが軽減したかもしれない。

最後にチーズを抱いたのが、嫌がるチーズを病院に連れていくときだったというのもとても悲しい。僕のことを疑わずに僕のベッドに座って僕を眺めていたチーズを、不意打ちのように抱えて、ケージに詰め込んだのだ。最後のチーズとの関わり合いが、チーズの信頼を失い、チーズを苦しめるものだったというのは悲しいことだ。あれが最後になるとは思いもしなかった。(正確には、病院で治療中に動かないように少し抱いたりもした。)

加えて、僕の行動だけでなく、僕の心のあり方に対しても後悔している。

実のところ、5月下旬から6月上旬にかけて、チーズが低空飛行で頑張っていたときも、それを全力で応援することができなかった。僕はチーズの面倒をみることに少し倦んでいた。そしてそのような気持ちを言葉にしてしまったこともある。

具体的には、急変する直前、妻とチーズの面倒をみることの負担感について話し、それをチーズに聞かれていたことが、僕は心苦しい。あれが最後の日のことでなければよかったのに。あと一日、僕が言葉にしなかったら、僕はずっと、それを言葉にせずに済んだのに。

そして、以上のような諸々のことは、すべてチーズは赦してくれそうな気がする。だけどその赦し自体が僕の後悔を増幅する。

もし、病院に連れていかなければ、チーズは自宅で、もう少し長生きして、直前までそこそこ機嫌よく過ごし、そして突然、苦しまずに死ぬことができたかもしれない。だけど、もし、病院に連れて行かなければ、チーズの苦しみとは別に、どうして病院に連れて行って最善の治療を施さなかったのだろう、と僕はもっと後悔していただろう。

自分のことだけを考えたなら、僕の自己満足としては、やはり病院に連れて行ってよかったのだ。チーズは、そこまでわかっていて、あえて、僕のために連れ回されてくれたのではないか。少なくとも、僕は結果的に、チーズに助けられた。僕は最初からチーズに赦されていた。チーズのおかげで、僕は、やるべきことはやったと思うことができた。僕はチーズの手のひらの上で踊っていただけなのだ。

だけど、本当なら、僕は飼い主なのだから、その先をいって、チーズのことをもっとわかっておいてあげるべきだった。本当は、僕がチーズを助けるべきなのに、僕は、チーズが亡くなる最後の数時間まで、チーズに助けられてしまった。僕のなかにはそんな後悔もある。

後悔は色々あるけれど、やはり一番の心残りは通院のタイミングの判断だろう。チーズはもともと病院に行くこと自体が非常にストレスになるネコで、予防接種などで病院に行ったあとは、たいてい物陰に隠れていた。だから通院の判断はとても難しくて毎回悩んだ。

そして残念ながら、事実として、一連の通院の判断はほとんど裏目に出てしまった。

僕は少しでもチーズに長生きしてほしいと願って、いくつかの重要な選択をしたけれど、そのうちの多くは、結果的にチーズの寿命を短くしてしまい、そしてチーズに苦しみを与えてしまったような気がする。

3 パターナリズム的性向 

僕は思う。僕はチーズの飼い主として何点だったのだろうか、と。いくつかの選択に失敗しているのだから100点ではないだろう。だとしても70点くらいだったらいいなあ、とも思う。僕は後悔もあるけれど、そこそこ頑張ったという自負もある。僕は失敗もしたし、チーズを傷つけるようなことも言ったけれど、なかなか良い選択もしたし、チーズに優しくすることもできたではないか。そう自分を誇りたいとも思う。僕のなかには、後悔と自負が渦巻いている。

そう思えるほどには、僕はやるべきことをやった。チーズを病院に連れていき、容態が急変していく数時間、僕は意外と冷静だった。最善の選択は何か、チーズとここにいない妻のために何をすべきか、を常に考えていた。午後9時頃、病院から一旦帰宅するため、苦しむチーズとお別れをするときにも涙は出なかった。多分また会えると思っていたのもあるけれど、僕の涙は妻にもチーズにも役に立たないときちんと計算をしていたから、そういうことは差し控えたのだ。僕は自分の感情を殺して、やるべきことをやった。

だから、亡くなったチーズを連れて帰り、発泡スチロールに入れ、コンビニで氷を買ってきて、火葬の手配をした後も、最後のやるべきことをしている。

保冷剤の入れ替えという最後の作業である。14日の夜、出張から帰ってくる妻に少しでもきれいなチーズを見せてあげて、そして15日に火葬をするまで、チーズをきれいにしておく。妻とチーズの関係を少しでもよいものにするために支援をする。

チーズの魂はここにはないような気がするし、妻もそう言っていた。けれど、チーズの存在が何かを妻に伝えるだろう。そして妻が何かをチーズに伝えるだろう。そんな媒介としてのチーズの肉体を維持して妻に届けるための作業であり、そのような意味で、妻とチーズの関係に対して、僕ができる最後の貢献である。

僕は、何にせよ「やるべき」という義務ばかりを考えている。ベストのタイミングで病院に連れていく「べき」とか、妻にきれいなチーズをみせてあげる「べき」とか。

僕の態度は、極めてパターナリズム的だと思う。保護者的で、先回りして自分勝手にものごとを決めてばかりいる。チーズや妻が実際にどう思っているなんて考えず、僕は僕自身が「やるべき」と思うことばかりをしている。

特に、チーズのようなしゃべれない相手に対しては、僕のパターナリズムは暴走する。相手が人間なら、そんなことは求めてないよ、と否定してもらえるけれど、チーズはそんなことはしてくれない。だから僕は、僕の考えに基づき、チーズならばそう望むはずだと僕が考えることばかりを「やるべき」だと強く思ってしまう。

僕のパターナリズムの暴走は、僕自身の「やりたい」をも圧殺してしまう。「やるべき」の前では、すべての「やりたい」は甘えとなってしまう。僕の心が望んでいること、例えば、チーズの世話に疲れたから気分転換したいとか、チーズはこのくらいで赦してくれると思いたいとか、そういう僕の「やりたい」は、チーズのために最善を尽くしていないという点で甘えなのである。

チーズに対して僕のパターナリズム的な性向が強く出てしまうのはなぜかというと、僕はチーズのことを僕の所有物だと思っているからなのだろう。(妻の所有物でもあるというのはともかくとして。)

チーズは僕の所有物だから、僕に管理責任があり、僕には最善の管理をする義務がある。逆に、所有物なのだから好き勝手に処分する権利がある、と開き直ることもできるはずだけど、僕はどうしてもそうは思えず、所有者としての義務にばかり目がいってしまう。

思えば、僕は、チーズに限らず、ぬいぐるみや洋服や家電製品を捨てるのも苦手だ。僕という所有者だけが彼らを幸せにすることができるはずなのに、その彼らを捨てるのはよくないことだと思ってしまう。また、最近は、肉食もなるべく避けたいと思っている。これも僕の皿の上にある生命に対して僕は最善を尽くす義務を果たしていない、と思っているということなのだろう。一応、ゴミはきちんと捨てるし、普通に焼肉も食べるので、実生活と折り合いはつけている。けれど、僕にはそういうところがある。

それに比べれば、(子供を除く)人間は気楽だ。人間は自立していて、その人がその人自身に対して全責任を負っている。究極的には、僕は彼らに義務を負わない。(せいぜい、彼らに危害を加えない、という消極的な義務を負うのみである。)だから、ウクライナの人が死んでも、親が病気になっても、それは一義的には彼ら自身の問題であり、僕の問題ではない。だから僕は、チーズのことほどに苦しむことはない。

当然、そこには優しさや思いやりという別の問題がある。僕は彼らに共感し、彼らに優しくしたいと思い、そこから、やさしくする「べき」という、義務に近い感情も生まれる。だが、チーズに対して感じる義務感とは全く種類が違うものである。

チーズは自分自身では通院できないから、僕だけが病院に連れていくかどうかを判断しなければならない。だけど、人間なら、手助けはしても、最終的にはその人自身の判断である。

人間は、人間だけが理解できる精緻な人間社会をつくりあげ、そこに病院やら薬やらタクシーやらといった様々な「もの」やサービスもつくりあげた。人間ならば、そのような人間社会で好きに過ごせばいい。だがチーズやぬいぐるみや洋服や家電製品といった人間以外の存在は、人間社会における「もの」やサービスに直接アクセスすることができないから、人間が代わりに仲介してあげなければならない。そして、そのような人間社会にチーズたちを招き入れたのは僕であり、代わってあげられるのは僕だけなのである。僕は、チーズに対して、そのような、切迫した責任感がある。

もし、苦しむのが僕自身だったら、苦しむのは嫌だけれど、きっと後悔することはないだろう。また、苦しむのが僕ではない独立した存在、つまり人間であっても、きっとこれほど後悔することはないだろう。だが、僕自身ではなく、僕から完全に独立もしていない、僕が所有するチーズという存在だからこそ、僕はこのように後悔してしまうのだ。

4 具体的な内容がない「ごめんなさい」

だから僕は、自宅にチーズの亡骸を連れて帰り、妻のベッドの上に置いた後、チーズに「ごめんなさい」と言った。

実のところは、そのような言葉は発したくなかったし、発するとも思っていなかった。だけど、ふと、僕は「ごめんなさい」と言ってしまったのだ。あとから、なぜそのような言葉が出てしまったのかと考えると、ここまで書いてきたようなことがあったからなのだろう、ということになる。

僕には先ほど書いたような個別具体的な様々な後悔がある。特に通院の要否の判断は後悔ばかりだ。だけど、もし、すべての判断がうまくいっていたとしても、結局いつかチーズが亡くなってしまったなら、そのとき、きっと僕は「ごめんなさい」と言っていたはずだ。なぜなら、僕はチーズに対して原初的な所有者責任があるからである。

先ほど述べたように、チーズは人間社会の仕組みを人間ほどに理解することはできないから、僕がチーズの代わりに考えてあげなければならない。だが、それはチーズが何も望んでいないということではない。チーズには何らかの望みがあるはずであり、もし、チーズが人間社会の仕組みを理解していたら、きっとこうしたかっただろう、という望みがあるはずである。僕は、その望みを知りえないままに自分なりに答えを出すしかない。だから僕は、チーズのためにすることは常に、多かれ少なかれ間違いなのである。

だから僕は、チーズの所有者として、常にチーズに「ごめんなさい」と言うしかない。それは、僕がそのような責任を負うと決めたからには逃れることができない「ごめんなさい」である。

なお、チーズの望みの知り得なさは、チーズが人間社会を理解していないことだけではなく、チーズと言葉でのコミュニケーションができない、ということにも由来するだろう。チーズはよくしゃべるネコだけど、僕にはチーズの考えを言葉で理解することはできない。だから僕は、チーズの望みも理解できない。

だが、もしチーズの言葉を理解することができたとしても、チーズは人間社会の仕組みを知らないネコだから、チーズの言葉に従えばいいとはならない。きっと、チーズが喋れたら、日曜日の午後、病院には行きたくない、と駄々をこねただろう。だけど、僕はチーズと違って、病院は嫌なことをするところではなく、治療をするところだと知っているから、無理やり病院に連れていくだろう。だから、チーズと言葉が通じたとしても、通じなかったとしても、結局、チーズは死に、僕は、チーズの亡骸に向かって「ごめんなさい」という言葉を発することになる。言葉が通じるかどうかに関わらず、僕の「ごめんなさい」は不可避なのである。

そのことを、僕がチーズに対して発した「ごめんなさい」という言葉には具体的な内容がない、と表現することもできるだろう。具体的な反省点があってもなくても、僕は「ごめんなさい」と言うだろうし、僕がチーズを所有するということだけを理由に僕は「ごめんなさい」と言うだろうから、その言葉には内容がないのである。

この具体的な内容がない「ごめんなさい」こそが本当の「ごめんなさい」なのではないだろうか。

これが今回チーズから学んだことだ。僕は前に書いた文章で、チーズに「ありがとう」を学んだと書いた。そして、この文章で書きたいのは、チーズに「ごめんなさい」も学んだということである。

5 具体的な内容がない言葉たち

先日書いたと思うけれど、「ありがとう」にも具体的な内容はない。具体的なことは何もしてくれなくても、チーズがそこにいてくれるだけで、僕はチーズに「ありがとう」と思う。具体的な内容のなさ、という点で「ごめんなさい」と「ありがとう」はとても似ている。

そして、僕は、「ごめんなさい」や「ありがとう」は特別な言葉だと思う。

僕は、なぜ親が子に「ごめんなさい」と言うようにしつけるのかが不思議だった。「ごめんなさい」と言っても失敗はなかったことにはならないのだから、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」でいいではないか、と思っていた。または「反省しているので、そんなに怒らないで許してください。」でもいい。そのような具体的な内容がなく、ただ「ごめんなさい」と言うことに何の意味があるのだろうかと思っていた。

だが考えてみれば、「ごめんなさい」にはそのような具体的な内容がないからこそ、そこには特別な意味があるのである。

「ありがとう」も同様である。「ありがとう」という言葉がもし、「うれしかったので、次回も同じようにやってくださいね。」という具体的な意味を持っていたらさもしい。友人からの誕生日プレゼントの中身が全く欲しいものではなかったとしても、自分のことを思ってプレゼントを準備してくれたというそのことだけで、「ありがとう」と言うのである。これは具体的な内容がない「ありがとう」だろう。(このことは、以前「2種類のごちそうさま」としても書いた気がする。https://dialogue.135.jp/2018/02/18/nisyurui1/

「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉には、伝えるべき具体的な内容がないはずなのに、その言葉でしか伝えられない、言葉にできない何かがある。「ありがとう」や「ごめんなさい」には、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」のような別の言葉では言い換え不可能な、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉でしか伝えられない特有の意味がある。いや、より正確には、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉ですら伝わらないはずなのに、なぜか「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉をふと発してしまい、そして、なぜかそのことで伝わってしまう何かがそこにある。

チーズという言葉が通じない存在のことを考えることで、僕は自分のなかにある、具体的な内容がない言葉たちの存在に気づくことができた。「ありがとう」や「ごめんなさい」はチーズのような言葉が通じない存在であっても通じる言葉であり、そして、チーズのような言葉が通じない存在に対して語りかけるときにこそ、その本質が純粋なかたちで見えてくる言葉である。「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を発するとき、その言葉は通常の意味では通じなくても、いや通じないからこそ、意味を持つ言葉なのである。

そう考えてみると、世の中には、具体的な内容がある言葉と、具体的な内容がある言葉の二種類があるようだ。「お醤油を取って。」とか「明日は運動会だ。」というような具体的な内容がある言葉と、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉である。

6 内的世界の住民に向けた言葉

通常、言葉というのは、相手に通じることが前提となっている。「お醤油を取って。」や「明日は運動会だ。」という言葉を受け取った人は、その言葉の意味を言葉通りに理解することができる。つまり通常の具体的な内容がある言葉とは、相手に働きかけるための言葉であると言えるだろう。「お醤油を取って。」というのは、相手にお醤油をとるという動作をしてもらうための言葉だし、「明日は運動会だ。」というのは、親にお弁当を忘れないでね、と伝えるための言葉であったり、徒競走で転ばないかどうか不安だという気持ちを理解してもらうための言葉であったりする。それを僕は、具体的な内容がある言葉と呼んでいる。

一方の「ありがとう」や「ごめんなさい」はそうではない。僕のチーズに対する「ありがとう」や「ごめんなさい」は、チーズに何かを働きかけるための言葉ではないし、チーズに理解してもらうことも期待していない。もし、チーズが僕の感謝の気持ちを理解してくれたり、僕の謝罪を受け入れてくれたりしたら嬉しいだろうけれど、そんなことは望んでいない。そんなことは望まず、ただ僕は「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を発しているだけだ。

このことは、人間に対する場合でも同じことだろう。もし「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉が、相手に感謝の気持ちを理解してもらったり、相手に謝罪を受け入れてもらったりすることを期待する「だけ」の意図から発せられたとするなら、それは本来の「ありがとう」や「ごめんなさい」ではない。本質的には「ありがとう」や「ごめんなさい」とは、そのような意図などなく、ただ発せられる言葉なのである。

では、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉たちは、何に向かって発せられているのだろうか。目の前にいる話し相手に対してではないし、単なる独り言ということでもないだろう。

唐突だけど、僕は、「ありがとう」や「ごめんなさい」は、自分の心の内側の内的世界にいる他者に対して発せられる言葉だと考えたい。

内的世界というアイディアはいかがわしいと思われるかもしれないが、極めて日常的な感覚として、このいわゆる物質世界とは別に、心的な内的世界とでもいうべきものがあるという捉え方をすることは自然なことだろう。

自然科学的な世界観からすれば、心的な内的世界なんて幻だと思われるかもしれない。だが、僕たちは例えばシャープペンシルをプラスチックや金属の塊としてではなく、文章を作成する道具としても認識している。それはつまり、物質世界に心理的な解釈を加えているということである。その心理的な解釈も自然科学により説明できると考えることは可能だろうし、哲学的には、そこから、心的な内的世界なんて本当にあるのか、幻ではないのか、いや、物質世界のほうが幻なのかもしれない、なんていう議論が展開されることになる。

だけど、それはともかく、そのような議論の出発地点として、物質世界と重ね合わせるように、並行して心的な内的世界があるという常識的な実感があることは否定できないはずである。つまり、この常識的な世界とは、シャープペンシルをプラスチックや金属の塊として捉えるような物質的な外的世界と、シャープペンシルを文章を作成する道具として捉えるような内的世界を重ね合わせたような世界である。または、チーズを一匹の動物として捉えるような外的世界と、チーズを大切なペットとして捉えるような内的世界を重ね合わせたような世界である。

そのうえで、哲学的な議論の末、僕の内的世界は幻であり、なかったことになってしまうかもしれないけれど、その議論の手前においては、僕の内的世界はここにある。だから、僕のこの世界は、常識的に考えるならば、物質的な外的世界と心的な内的世界の混交物である。だから僕は現に、その程度はともかくとして心的な内的世界を生きている、ということになる。

そして、その内的世界とは、僕だけのプライベートな世界であり、僕にすべての権限があり、そして僕にすべての責任がある世界である。

当然、僕だけの内的世界であっても、それを好き勝手に操作することはできない。物質世界において朝がくれば、僕の内的世界においても僕は起きて仕事に行かなければいけないし、僕の内的世界においても、もうチーズの姿を僕の家の中で見つけることはできない。

それでも、僕の内的世界においては僕は自由にものごとを解釈することができる。出勤を辛いことだと位置づけることもできるし、楽しいことだと位置づけることもできる。チーズの死を永遠の別れと位置づけることもできるし、まだチーズの魂は見えないけれど、このあたりでうろうろしていると想像することもできる。僕には、物質的な制約はあるけれど、その範囲内での心的な自由がある。

考えてみれば、ものごとの具体的な内容についての記述は、物質的なものである。「お醤油を取って。」というのは、テーブルの上にある醤油ボトルという物体を移動させる動作として描写することができるだろうし、「明日は運動会だ。」というのは、明日という時点において、たくさんの人間が小学校に集まるという物質的な状況として描写可能である。もし「ごめんなさい」が、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」という具体的な内容がある記述だとするならば、それは、約束を忘れないようにスケジュールに登録してこまめに確認する、というような具体的な動作として描写できるだろう。いずれも物質的な外的世界のできごとであり、僕はそこから離れることはできない。

だが、言葉には、具体的な内容のない言葉もある。「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉である。これらの言葉は、具体的な内容がないから、物質的に描写することもできない。その証拠に、ベランダでゴロゴロするネコという物理的な状況に対して、「ごめんなさい」と言うことも言わないこともできるし、または「ありがとう」と言うことも言わないこともできる。つまり、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容のない言葉を発するかどうかには、物質的な描写から離れた、心的な自由がある。

そのように考えるならば、「ありがとう」や「ごめんなさい」とは、僕の心的な内的世界の住人に対する言葉だと言えるのではないだろうか。当然、心的な内的世界という捉え方自体がナイーブなものであり、哲学的にはいくらでも議論に付すことができるものだろう。だが、「ありがとう」や「ごめんなさい」が、単に目の前の他者に対する言葉ではなく、または、単に自分自身に対する言葉でもない、と考えるための出発地点としては、心的な内的世界という設定は、よくできているように思う。

だから、「ありがとう」や「ごめんなさい」といった具体的な内容がない言葉を発するとき、この物質的かつ心的なものとしての常識的世界は、物質性のベールを剥がされ、世界の心的な側面が顕在化する。もし物質的な世界観だけによるならば、「ありがとう」などと言わず、「次回も同じようにやってください。そうすれば私は喜びます。」と言えばいいし、「ごめんなさい」などと言わず、「怒るのをやめてください。同じことを繰り返さないように気をつけます。」と言えばいいはずだ。だが、そのような言葉ではなく、あえて「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を選ぶとき、僕はそれ以上の何かを伝えようとしている。だが、その何かを言葉で説明することはできない。だからこそ、その言葉は、具体的な内容がない心的な内的世界に向けた言葉である、ということになるのではないだろうか。

「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉を通じて、僕は自分自身の内的世界を垣間見ることができる。そこには、「ありがとう」や「ごめんなさい」と言うに値するたくさんの他者が住んでいる。そこはずいぶんと賑やかな世界である。そして、嬉しいことに、そこにはチーズも住んでいる。僕が「ありがとう」や「ごめんなさい」と語りかける限り、チーズはここにいる。そう考えることは、少しは慰めになる。

7 時間の超越と忘却

チーズはもうこの物質世界にはいないけれど、僕の心の中の内的世界にはいる。「ありがとう」や「ごめんなさい」とチーズに語りかける限り、現に僕は、チーズにアクセスすることができる。

だから、この常識的な世界が単なる物質的な外的世界ではなく、心的な内的世界との混交物だとするならば、この常識的世界においても、チーズは現に存在していることになる。僕が階段を見上げ「ありがとう」という言葉とともに、チーズの不在を確認するならば、チーズはそこにいる。僕のベッドで丸くなっているチーズを思い、「ごめんなさい」という言葉とともに、そこで撫でるように手を動かせば、チーズはそこにいる。なぜなら、僕の心はそこに向かっており、そして、そこにチーズの存在を内的に見いだしているからだ。

それを、チーズは今も「潜在的に存在している」と表現することもできるだろう。チーズは、チーズの不在として、僕に語りかけられるようにして存在している。

これを潜在的存在と呼ぼう。このような存在のあり方を認めるならば、潜在的存在は時間を超越する。僕がチーズに語りかけることで、チーズは時間を超えて潜在的に存在することができる。階段から僕たちを見下ろし、柱に頭を擦り付けて、「ニャー」とだみ声でなくチーズは、今でも潜在的に存在しているのだ。

ただし、チーズは潜在的に存在しているといっても、自由自在に存在はしていない。チーズが空を飛ぶことはないし、チーズが風呂に入っていることはない。(チーズは風呂に一度も入ったことがない。)チーズは僕が過去を思い出すようにして存在している。僕が、過去のチーズを思い出し、想像する限りでしかチーズは潜在的に存在することができない。

だから、僕がチーズのことを忘れていけば、チーズは潜在的にも存在しなくなっていくのだろう。この文章はチーズが亡くなった直後から書いているけれど、今日は25日土曜日でらり、もうすぐ2週間である。そして、チーズのことを思い出すことも少なくなってきている。だんだん、「ありがとう」とも「ごめんなさい」も思わなくなってきている。こうして徐々に、チーズは僕の内的世界からも退場していくのだろう。

僕は、こうして、チーズを忘れていくことに対しても「ごめんなさい」と思ってしまう。「ごめんなさい」とすら思わなくなることに対しての「ごめんなさい」であり、きっと、これこそが、チーズに対する最後の「ごめんなさい」である。

それは寂しくて、心苦しいことだけど、そう悪いことではないとも思う。なぜなら、僕が、僕の人生を生きるためには、チーズをある程度は忘れなければならないからだ。例えば、僕はこうして文章を書くことこそが、僕がやるべきことだと思っているけれど、今のままではチーズのことしか書くことができない。新しいことを書くためには、チーズのことを思い出してばかりはいられない。

かといって、チーズの死は無駄で、なかったことにするべきということでもない。チーズの死を経験し、そしてそれを忘却するというプロセスを経ることで、僕は何かを手に入れることができるはずだ。この成長のプロセスは、チーズを忘れ、僕が次の一歩を踏み出すことで成し遂げることができる。つまり、忘却は成長に変換されるのであり、そして今、僕はその作業を完遂するときなのである。

ここまで書いてきた僕の文章を読み直しながら思う。この文章は、僕とチーズの記録であり、僕の経験と忘却の記録であり、そして僕の成長の記録である。そして、僕は、この文章を書き終え、そしてチーズを忘却することでこそ、成長することができる。それはつまり、成長した僕の中で、チーズはいつまでも潜在的に存在し続けるということである。成長した僕をチーズに見せてあげることこそが、チーズがあのとき、確かに顕在的に生きていたという証をチーズに示してあげるということであり、そして、今もチーズが潜在的に生きているということをチーズに示してあげるということなのである。

きっと、他者と関わるとはそういうことなのだろう。僕はチーズからそのことを学んだ気がする。

8 ありがとうとごめんなさいの違い

ところで、「ありがとう」も「ごめんなさい」も具体的な内容がない言葉である。では、いずれも具体的な内容がないという点では同じなのに、どうして、「ありがとう」と「ごめんなさい」との間には違いがあるのだろうか。

チーズはネコだから、人間社会を理解できず、人間社会における正解を知ることはできない。だから僕は、チーズへの「ごめんなさい」には具体的な内容がないと考えている。「ごめんなさい」が具体的な内容を持つためには、チーズが人間社会の仕組みを理解していたら何を望むかがわかっていて、その望みを達成できなかったことに対して、「ごめんなさい」と言わなければらならない。だけど、それは叶わぬことだから、僕がチーズのためにすることは、その内容に関わらず、常に間違えてしまっている。だから僕は何をしても「ごめんなさい」と言うしかない。これが具体的な内容のない「ごめんなさい」である。

だが、考えてみれば、僕がチーズの望みを全く知らないというのは言い過ぎだろう。少なくとも、チーズが機嫌良さそうにベランダでゴロゴロしている時間が少しでも長く続くことこそが望ましい、という明確な望みは確かにあるのではないだろうか。僕と妻と娘は、チーズを病院に連れて行く直前の昼、少し息が荒いながらもベランダでゴロゴロと遊ぶチーズを見ながら、こんな時間がいつまでも続けばいいと思っていた。それはチーズも同じはずだ。ついでに言うならば、一緒にゴロゴロしていたもう一匹のタックンも同じはずだ。あのとき、確かに、その場にいた三人と二匹は、ベランダでゴロゴロすることこそが望みだ、ということを、言葉を交わさずとも共有していたはずなのだ。

そのうえで、もしチーズと言葉を交わすことができれば、「君と今後もベランダで遊べるように、今、病院に行っても体調は大丈夫?」と聞けるし、チーズに人間並みの知識があれば「タクシーで15分くらいかかるんだけど、乗り物酔いはしない?」なんて聞くこともできただろう。そのように確認しつつ、一緒に、ベランダでゴロゴロして遊ぶという明確な目標に到達するための方策を練ることもできたはずだ。

だけど、残念ながらそれができなかったから、明確な目標を目の前にしつつも、そこにたどりつくまでの具体的な道筋は僕一人で手探りで決めるしかなかった。そして僕はその判断が正しいものだったのか、最後まで知ることはできなかった。だから具体的な内容がない「ごめんなさい」なのである。

確かに「ごめんなさい」には具体的な内容がない。だが、その内容のなさは、ベランダでゴロゴロするというチーズの望みは十分に具体的に知りつつも、そこに至る道筋の具体的な内容がわからない、という点で、具体的な内容がないのである。

一方で、もうひとつの具体的な内容がない言葉である「ありがとう」は、「ごめんなさい」とよく似ているけれど、違いがある。

対比するようにして述べるならば、「ありがとう」とは、一緒にベランダでゴロゴロして遊べたことに対する感謝の言葉である。そのように考えるならば、「ありがとう」という言葉についても、一緒にベランダでゴロゴロして遊ぶ、という状況に対する言葉である、という明確な内容がある。

だが、「ありがとう」という言葉に具体的な言葉に内容がないのは、一見、一緒にベランダでゴロゴロして遊ぶという具体的な状況が大事なように見えて、実は、そこには何らこだわっていないからである。もし、チーズがベランダではなくてリビングでゴロゴロしても、または、調子が悪くてベランダでうずくまっていても、または、チーズがベランダにもリビングにも、どこにもいなかったとしても、僕のチーズに対する「ありがとう」には変わりがない。確かに、「ありがとう」という言葉は、具体的な内容があったほうが発しやすい言葉である。だけど、それはあくまでもきっかけとしてあったほうがいいだけであって、すぐに僕は、そのような具体的な内容は重要でないということに思い至ることができる。僕が「ありがとう」というとき、たまたまベランダでゴロゴロして遊ぶチーズをイメージしたとしても、それはそれだけのことであり、僕は、そのような具体的な状況とは関係なく、ただチーズに「ありがとう」と言っているのである。

そのように考えるならば、「ありがとう」と「ごめんなさい」とでは、その具体的な内容のなさに違いがあると言えるだろう。「ありがとう」では、その言葉の対象自体に具体的な内容がないが、「ごめんなさい」では、その言葉の対象は具体的だが、その対象に至る道筋に具体的な内容がないのである。「ありがとう」の内容のなさは、目的の内容のなさであり、「ごめんなさい」の内容のなさは、手段の内容のなさだと言ってもいいだろう。

だが、「ごめんなさい」の内容のなさをもう一段深めて、もし、チーズが死んでいなくても、調子が悪くてベランダでうずくまっていても、リビングでゴロゴロしても、または、チーズがベランダで幸せそうにゴロゴロしていても、チーズに対する「ごめんなさい」には変わりがない、と言うこともできるだろう。

実際、僕は、あの日曜日、幸せそうにゴロゴロしているチーズを前にして、荒く上下しているチーズのお腹を見ながら、苦しそうにしているなあ、もう少しなんとかしてあげられないかなあ、とも思っていた。僕は、自分の力不足を悔いていた。先ほど、僕たちは、幸せそうにゴロゴロしているチーズという正解を手に入れていた、と言ったけれど、それは一面的な捉え方であり、もう一面では、僕はその状況に不穏なものを感じ、そしてそれを恐れてもいた。

そこまで考慮に入れるならば、どんな状況であっても僕は「ごめんなさい」と言ってしまうという点で、このような「ごめんなさい」にはその道筋・手段として内容がないだけでなく、その対象・目的としても内容がない、と言うことができるだろう。僕は、具体的にどのような状況であれば「ごめんなさい」と言わずに済むのかわからないし、もし何らかの状況を目指すとしても、どのように目指せばいいのか、その具体的な道筋がわからない。そこには二重の具体的な内容のなさがある。

整理しよう。ベランダでチーズがゴロゴロする、という状況に対して、僕は、「ありがとう」と「ごめんなさい」という二つの態度をとることができる。その状況を肯定的に捉えるならば「ありがとう」であり、否定的に捉えるならば「ごめんなさい」である。そして、その肯定性や否定性は、具体的な状況を離れ、具体的な内容のない、肯定性や否定性へと展開されていく。

だが違いはもうひとつあり、「ありがとう」はその肯定的な状況をただ受け止めるのに対し、「ごめんなさい」は、その否定的な状況にただ注目するのではなく、その否定的な状況を避けるための道筋・手段に焦点が移っていく。だから、その否定的な状況ではなく、その否定的な状況を避ける道筋・手段が見つけられないことに対して、僕は「ごめんなさい」と言う。

9 「こんにちは」や「さようなら」

レベルの違いはあれど、「ありがとう」も「ごめんなさい」も具体的な内容がない言葉だが、そのような言葉は他にもある。例えば、「こんにちは」や「さようなら」という言葉がそうだろう。

トレッキングをしていて、人とすれ違うとき、「こんにちは」と挨拶をする。そこから、頂上はまだ先ですか、なんて具体的な話になることもあるけれど、たいていは「こんにちは」と言っておしまいだ。その相手とは、これまで一度も会ったことがない人であり、そして、きっとこれからも二度と会わない人である。登山という行為を同じタイミングで同じ場所で一瞬だけ共有している、という関係しかない。あえて言うならば、登山の「こんにちは」には、そのような具体的な内容がある、と言えなくもない。だが、僕は、この人は登山をしている人だから共通点があるなあ、なんて考えて「こんにちは」と言うのではない。あえて言えば、木や山ばかり見ているなかで、急に言葉が通じる人間が登場したから声をかけたにすぎない。その人は、もしかしたら僕と主義主張が合わないネトウヨかもしれないし、もしかしたら殺人鬼かもしれない。それでも、その人がどのような人かどうかなど関係なく、その相手が人間だということだけを理由に、僕は「こんにちは」と言う。このときの「こんにちは」は極めて具体的な内容に乏しい言葉だと言うことはできるだろう。

似たようなことが「さようなら」でも言える。仲がいい人でも、それほどでもない人でも、別れのときには「さようなら」と言う。そこには、通常、「東京でもがんばれよ。」とか、「本当は行かないでほしい。」とか、具体的な内容がない言葉がつきまとっている。しかし、そのような内容をすべて言葉にしてしまったあとでも、それでもきっと、別れのときに「さようなら」とは言うだろう。そのときの出がらしのような「さようなら」は、極めて具体的な内容に乏しいはずだ。

「こんにちは」には出会ったときに用いる言葉だ、という以上の具体的な内容はなく、そして「さようなら」は別れのときに用いる言葉だ、という以上の具体的な内容はない。

だが、もう一つ具体的な内容があるとするならば、いずれも、肯定的な言葉だ、という共通点があるとは言えるだろう。それは「ありがとう」も同じである。

「ありがとう」も「こんにちは」も「さようなら」も、ほとんど具体的な内容がない言葉だが、その言葉を発する相手は肯定的な存在であり、その肯定性だけは内容として持っているとは言える。(「こんにちは」と「さようなら」は用いられる場面が限定されているので、「ありがとう」のほうがより具体的な内容がない言葉とは言えるだろうけれど。)

だから、これらを肯定的で具体的な内容がない言葉と呼びたい。

10 否定的な言葉の肯定性

一方の否定的で具体的な内容のない言葉にも、「ごめんなさい」以外のバリエーションがありそうだ。例えば、「ばかやろう」や「死ね」のような罵りの言葉が考えられる。これらは、相手の頭が悪いと言いたいのでも、本当に死んでほしいと願っているのでもないから、具体的な内容のない言葉だと言えそうだ。

このような罵りの言葉を、どのようなときに使うのかと言えば、口喧嘩をしているときだろう。僕が喧嘩をする相手といえば、妻だ。「ばかやろう」や「死ね」とは言わないけれど、僕は何らかの罵りの言葉を妻に投げかけているような気がする。具体的に何と言っているかは思い出せないけれど。

では、このような罵りの言葉を投げつける相手が否定的な存在なのかというとそうではない。僕は妻のことが好きで結婚したのだし、それは今も変わらない。時々、喧嘩をすることはあるけれど、妻のことは肯定的な存在だと捉えている。肯定的な存在であるはずなのに、その肯定性が欠けてしまったから、僕は口喧嘩をして、妻に罵りの言葉を投げかけ、その肯定性をなんとか回復しようとしているのだ。

同様に、「ごめんなさい」を言う相手も、チーズという肯定的な存在である。病気により、その肯定性が欠けてしまったから、僕はなんとか肯定性を回復しようとし、それがうまくいかないから、僕は「ごめんなさい」と言っているのである。

つまり、否定的な言葉にも、その奥底には肯定性がある。具体的な内容のない言葉は、一見否定的なものであっても、肯定的なものであっても、いずれにせよ、肯定的な対象に対して投げかけられる言葉であり、ある意味、肯定的な関係性を認めるからこその言葉なのである。

なぜ、そんなことを考えているのかといえば、僕は、チーズに向かって、「ごめんなさい」と思うのが苦しいからである。

チーズは、存在するだけで肯定そのものである。そして「ありがとう」はチーズの肯定性をそのまま受け止める言葉だけど、「ごめんなさい」はチーズの肯定性を一旦否定したうえで、なんとか肯定性を回復しようとする、というようなまわりくどいことをしている。チーズはそのままで肯定性のかたまりなのに、あえてチーズが病気になって肯定性を失ってしまった、と考え、そのうえで、がんばって治療して肯定性を少しでも回復しようとして、それに失敗してしまったことに後悔し、そして「ごめんなさい」と言っている。

だから、「ごめんなさい」はあくまで派生的であり、本質は「ありがとう」にある。僕は本当は、チーズに謝罪する必要などなく、ただ感謝さえしていればいいのだ。

そう思うことで、僕は少し楽になる。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も「こんにちは」も「さようなら」も「ばかやろう」も、そこにはほとんど具体的な内容はない。共通してあるのは、ただ、肯定的な存在を認める、という内容だけである。「ありがとう」が最もそれを純粋なかたちで示しており、「こんにちは」と「さようなら」は、そこに出会いと別れという場面の限定を加えたものである。「ばかやろう」は、その肯定性の欠如を回復しようとする場面で発せられる言葉であり、「ごめんなさい」は、その回復の試みが失敗したときに発せられる言葉である。

いずれにせよ、それらは、肯定的な存在そのものに対して向けられた言葉であり、その存在とは、僕の心的な内的世界における存在である。また、その存在は、この物質的な外的世界と心的な内的世界が混交した常識的な世界においては、潜在的なものとして存在することとなる。

だから、僕は、チーズに対して、「ありがとう」、「ごめんなさい」、「こんにちは」、「さようなら」、「ばかやろう」といくらでも語りかけることができる。僕が忘却するまでは、そうすることが許される。だから、今のところ、僕は、チーズに「さようなら」とは言いたくない。「こんにちは、チーズ、ありがとう、チーズ、ごめんなさい、チーズ」と当分の間は言い続けることにする。(「ばかやろう、チーズ」と言ってもいいけれど、あんまりそういう気持ちにはならない。)

11 過去のなかの天国

チーズが亡くなってすぐ、家族で天国の話をした。もしチーズが天国にいったとしたら、そこは、どんな天国なのだろう、なんていうことを話したのだ。

チーズの天国はきっと、大草原のような場所ではないような気がする。なぜなら、チーズは、家のなかにいたことしかないからだ。せいぜい、チーズにとっての天国とは、窓が沢山あって、そこから色んな面白いものが見えたり、ダンボールがたくさんあって、いくらでもその中に入って遊べたりするような場所だろう。

天国というのは、いくらでも望みが叶う場所だとしたら、天国には、どれだけ望めるか、という想像力の限界があるはずだ。天国とは、想像できることしか叶わない場所なのである。

そして、想像できることは過去の経験に左右される。過去に経験したことのうち、最も望ましいことを繋ぎ合わせ、せいぜいそれを誇張するようにしてしか、天国を思い描くことはできない。天国で食べる料理は、あのときに食べた料理の10倍美味しいはずだ、とか、天国で出会う美女は、この世界の最高の美女の10倍美しい、とか、そんなふうに。

だから、天国は過去の経験のなかにある、とも言える。過去に出会ったものすべてに再会できる場所こそが天国なのである。だから、僕の天国には、きっとチーズもいるだろう。

さて、僕はこれまで、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉について考えてきた。その一方には、具体的な内容がある言葉がある。では、具体的な内容はどこにあるかというと、天国と同じように、過去の経験のなかにあるのではないだろうか。

僕の「ごめんなさい」は具体的な内容がない言葉だけど、「もう一度、あの日のようにベランダでゴロゴロすることができなくてごめんなさい。」と言ったとき、僕の言葉は、具体的な内容を獲得している。この言葉に吹き込まれているのは、過去における具体的な内容である。

そこに吹き込まれるのはあくまで過去である。だから僕は、「チーズと一緒に風呂に入れなくてごめんなさい」などと、過去に起こらなかったことについて言うことはできない。また「チーズに、来月発売予定のちゅーる(美味しいネコのおやつ)の新製品を食べさせてあげることができなくてごめんなさい」いうことはできるけれど、これは一見、過去とはかけ離れているように見えても、天国の美女が10倍美しい、というのと同じで、過去のちゅーるを加工して、誇張しただけのことであり、過去の具体性から離れることはできていない。

天国であっても、この世界であっても、具体的な内容は過去にあるのだ。

だからこそ、多くの具体的な内容がある無数の言葉のなかから、わずかに混ざっている、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉を見つけ出し、そこに着目することには意味がある。そのような具体的な内容がない言葉だけが、過去を離れる力を持っている。そして、それこそが僕が未来への一歩を踏み出す力となる。

僕はもう、チーズに対しては、具体的な内容がない言葉しか投げかけることはできない。それはとても寂しいことだけど、だからこそ、チーズは、僕に、前に進む道を示してくれているとも言える。

もう少し推敲して整えようと思ったけれど、またチーズのことで、その4を書くこともできるよう、ここで書き終えることにする。

ありがとう、チーズ。

※ この文章では、「具体的な内容がない言葉」や「潜在している存在」といった概念を用いたけれど、これらは、入不二基義が用いている、無内包や潜在性といった概念に触発されて用いたものです。