先ほど僕は、今僕は「動性」に関心があるという投稿をした。だけど実は、もうひとつ関心があることがある。それは「なぜ世界はこんなにうまく自然科学的に整合しているのか。」という問題である。この問題は、「動性」の問題よりも前から考えていて、ここ数年、頭の片隅に居座り続けている。(そういえば、すでに『自然科学について』https://dialogue.135.jp/2021/08/02/kagaku/ という文章も書いている。)

なぜ、自然科学の整合性がそれほどまでに大問題なのかというと、僕は、僕が考えている哲学のアイディアでは、二つの方向で捉え損ねてしまうものがあって、そのひとつが自然科学の整合性の問題だと考えているからだ。

(ちなみにもうひとつの問題とは、入不二の現実論や永井の独在論のような、形而上学的な存在論の問題であって、今僕が問題としている「動性」の問題は、そちらのほうに属する問題だと考えている。)

僕の哲学のアイディアとは、すでに何度か言及したかもしれないけれど、このブログのタイトルが「対話の哲学」であるとおり、「対話」という切り口から哲学ができるのではないか、というものである。

だが、この「対話」というアイディアでは自然科学の整合性をうまく説明することができない、それが大問題なのである。

自然科学の不思議さは、僕たち人間との対話などなくても、独立してうまく成立しているというところにある。人間や(人格を持った)神様のような存在などなくても、人間が解明した、または未解明の自然法則に基づき、世界はうまく成立している。ニュートンが解き明かす前から、リンゴはニュートン力学に沿って木から落ちていたし、アインシュタインが解き明かす前から、星の光は太陽の重力によって影響を受けていたはずなのである。

世界は、人間とは無関係に自然科学的に整合して存在している。それも、人間がすでに知っているあらゆる科学よりも遥かに精緻なかたちで。世界は、人間から発見されても発見されなくても、そんなことは関係なく、人間など関係なく、自然科学的に整合して存在している。人間は、そのようにすでに成立している自然から、事後的に発見するようにしてしか自然科学をやることはできない。世界は、人間との対話など無関係に、自然科学的な存在なのである。

なお、自然科学的のことを考慮にいれないならば、世界の存在を「対話」という側面から説明することはできる。

なお、僕は、今、「対話」を「問答」と言い換えたほうがいいかもしれないと考えている。(これは、入江幸男の『問答の言語哲学』の影響である。)そのうえで、世界を「問答(対話)」的に説明するならば、以下のように述べることができるだろう。

私があなたに問うのは、私が不飽和だからである。そして、私が問うから、あなたは答える。このようにして問答、つまり対話は成立する。

同様に、世界は不飽和だから、世界は私に問う。世界は、「現象する」というやりかたで問いを表現し、私はその「現象」を受け入れるから、世界からの問いを、問いとして理解することができる。そして、世界が問うから、私は世界に答える。世界から私が問われるとは、私が世界に関わるということである。

そして、私は、行為というかたちで世界に問う。そして、世界の「現象」を、私は私の問いへの答えとして受け取り、理解する。

このようにして、世界が存在し、そして世界が現象するということについては、「対話」的な説明が可能である。だが、その説明では、世界が自然科学的に存在し、そして、世界が自然科学の法則に沿って現象している、ということまでは説明できない。

だが実は、僕には、この世界の自然科学的な整合性の問題について、有望な解決策がある。(だからこの文章を書いた。)

それは、「自然科学がうまくいっているのは、私のほうが、自分とひとつながりの整合したものとして世界を受容せざるをえないからである。」というアイディアである。つまり、世界の整合性の秘密は、私のなかにこそ隠されているということである。

そのようなアイディアはありきたりなものかもしれない。だが僕は、入不二の現実論や永井の独在論を通じて、私というものをかなり拡張して考えることができると予想している。だから、このような解決の道筋は、単なるひとりよがりにはとどまらない広がりがあるだろうと思っている。

そして、僕はいつもこうなってしまうのだけど、この話は時間論に繋げられると考えている。世界の整合性の秘密とは、別の言い方をするならばこのようになるのではないだろうか。

私は、過去について、整合的にしか理解することはできない。そして、私は、未来についても、過去のような未来だと思うことしかできない。自然科学的に整合的な世界とは、そのような過去化された世界の別名である。

当然、まだまだ疑問はある。自然科学の整合性を有する理由について、もし、世界や自然科学の側にその理由があるのではなく、私や過去の側に理由があることが認められたとしても、その整合した世界が、なぜ、このような、いわゆる自然科学的な整合性を有していなければならないのだろうか。また、私と世界という二分法や、過去と未来という二分法は、この自然科学の整合性とどのような関係があるのだろうか。そして、そもそも整合性とはなんだろうか。自然科学的ではない整合性などありえるのだろうか。そんなことを考えたくなってくる。

世界の整合性が私や過去とつながる問題だと主張するということは、つまり、世界の整合性と、私の過去の記憶とは切っても切れない関係にあると主張するということである。世界の整合性とは、つまり記憶の整合性のことだと言ってもいいくらいだ。

当然、過去にも未来はあったし、現在もあった。過去にも想定外の未来はあったのだろうし、過去にも自由意志を発揮する隙間としての未来もあったはずである。だが、それが過去の出来事として理解される限り、そのような未来も現在も自然科学的な整合性から逃れることはできない。

これが自然科学的な決定論である。そのように未来や現在を過去化して捉えるということは、つまり人生を過去化して捉えるということであり、人生を、自然科学的に決定したもののして捉えるということである。

だがこれは、人生を、科学的決定の検算・検証のためだけの人生に貶めるということではないだろうか。これは極めてつまらない考え方であり、僕はもう少し抵抗を試みたい。