月別アーカイブ: 2022年11月

そばにいる

※『無目的のパーティー』の補足的な追記です。3000字くらいです。

僕は今、『氷の城壁』(https://twitter.com/agasawa_tea)というウェブマンガにはまっている。課金したし、二周してしまった。

このマンガについては、もう3つも文章を書いたのでおしまいにしようと思ったけれど、ちょっと書き足りないことがあるので、追加で書くことにする。とは言っても、さすがに多分このマンガは登場しない。この文章は、あくまで『無目的のパーティー』という僕の文章(http://dialogue.135.jp/2022/11/16/mumokuteki/)の続きになるはずである。

僕は、『無目的のパーティー』で「そばにいる」という人間関係の重要性について述べた。

この気付きの重要さは、僕にとっては結構大きいことなので、そのことを強調しておきたい。

何度も同じ話になるけれど、僕は高校2年生のとき、僕のことを理解してくれて、僕の問題に答えを出してくれそうな人を好きになった。だけど僕の願いは叶えられなかった。

そのことと僕が哲学をしていることは結構重なっている。僕は彼女に求めて叶わなかったことを一人でやろうとしているのだ。僕は仕方ないから一人で僕自身のことを理解し、僕の問題に自分で答えを出そうとしている。高校時代以降、断続的ではあるけれど、僕はそのことに必死で取り組んできて、僕の人生のかなりの部分をそのことに費やしている。だから、友人関係についても、そのような視点で捉えてしまっている。つまり僕は、僕の哲学にその友人が役に立つかどうかという視点でその友人を評価している。当然、そう簡単に役立つ人などいないから、僕は友人というもの全般に対する評価が低い。ちょっとひどい言い方だけど、誇張して言うと、僕はそのようにして生きてきたのである。

(あくまでも誇張で、僕は友人について、趣味が合うかどうかとか、話が面白いかどうか、といったことも気にしてます。だけど、そのような事情で、友人関係全般に対する優先順位が低いのは事実です。)

だけど当然、こんなやり方はどこか無理があるので、僕自身、それでいいのかずっと心のどこかで引っかかってきた。そのひっかかりが『氷の城壁』をきっかけとして言語化できた。これが僕にとっての『無目的のパーティー』という文章の重要性である。

ようやく僕は、友人とは僕の哲学に直接役立たないからといって価値を減ずるものではないと気づいたのだ。いわば、哲学至上主義であったのを、軌道修正し、世の中の人間関係と折り合いをつけることにした、というのが『無目的のパーティー』での結論だったことになる。

では折り合いをつけるとして、具体的に僕はどのように人間関係を構築すればいいのか、という問題についての回答の指針が、この「そばにいる」である。つまり、あんまりあれこれ悩まず、ただ、そばにいればいいのである。

これまで僕は、僕自身がそうだから、周囲の人も、僕に何かメリットがなければ、僕を友人としないだろうと思っていた。僕を友人として選ぶのは、話が面白かったり、趣味が合ったりという長所が僕にあるからなのだろうと思っていた。だから、なるべく、長所がある人間になろうと心がけてきた。そして、多分、ある程度までそういう人間になることができたと思う。

だけど、実はそういうことは、まあトッピング的にはあった方がいい程度のもので、本質的には、友人関係というのは、ただ「そばにいる」だけでいい関係なのだ。

「そばにいる」それだけで、友人は僕の力になるし、「そばにいる」それだけで、僕は友人の力になることができる。一緒にいれば、それだけで互いの力になり、僕はその力を借りて、僕自身の幸せを掴み、そして、僕自身が成長することもできる。それは友人のほうも同じことで、僕が具体的な役に立たなくても、僕がそばにいるだけで、友人の力になることができるのだ。

そう言い切ってしまうと、どこかきれいごとのように思えるけれど、少なくとも友人関係の一側面としては、確かにこのような面があるはずなのだ。

そして、この、ただ「そばにいる」という姿勢は、僕の対話の哲学とも大いに重なる。僕は以前、哲学カフェにおける言明の二つの特徴として、継続性と誠実性というものがあると論じた。(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

そして、更には、哲学カフェの言明にはそれしか要らないとも論じている。(http://dialogue.135.jp/2021/05/16/hairyo/

この「そばにいる」という友人関係は、まさに友人関係には、継続性と誠実性しか要らないということを示しているのではないだろうか。

友人とそばにいるということは、友人であり続ける限り、継続的に寄り添い続けるということを含意しているだろう。友人が役に立つからではなく、また、友人が善良だからでもなく、友人であるということそれだけで、僕は寄り添い続けるのである。「君がどんな人でも、どんなことがあっても、友人でいる限り、無条件にずっと寄り添い続けるよ。」というのが、「そばにいる」ということだろう。そして、そう言ったからには、嘘はつかず、実際にそばにいるという誠実性も必要である。つまり、友人関係の成立のために必要な継続性と誠実性を示す言葉が「そばにいる」なのである。

「そばにいる」とは、当たり前すぎて内容がない空っぽの言葉である。友人であるなら、物理的にはともかく精神的に「そばにいる」ことは当たり前で、もしそばにいなかったら友人ではなくなってしまうだろう。もし、友人なのに、友人でない他人よりも精神的な距離が遠かったら、それは友人ではないように思える。精神的な距離の近さを誠実に継続することだけが、友情を友情として成立させるための最低条件なのである。

だから、「そばにいる」という言葉は何か新たに重要なことを言っている訳ではない。話は逆で、「そばにいる」という言葉が重要なのは、他に何も付け加わっていないからなのである。話題の面白さや趣味の一致はあくまでオプションであり、友情の一丁目一番地は、精神的な距離の近さであり、そして、その誠実な継続なのだということを、「そばにいる」という言葉は表しているのだ。

そして、哲学カフェにおける言明、つまり対話と友情には、継続性と誠実性という共通点がある。その共通点から類推して少々踏み込むならば、友情と対話は明らかに密接に関係している。対話の成立のために友情が必要かどうかはともかく、友情の成立のためには対話が大いに役立つことは確かだろう。

もう『氷の城壁』の話は出さないつもりだったけど、『氷の城壁の魅力』(http://dialogue.135.jp/2022/11/13/korinojouheki/)のネタバレの魅力5-1として取り上げたとおり、このマンガでも対話を重視するセリフがある。(皆さんに読んでほしいから詳細は書きません。)これは文脈としては恋愛における対話の重要性についてのセリフだけど、このマンガにおける恋愛は、友情の発展形だと言っていいから、これは、友情における対話の重要性を示している一例であると言ってもいいだろう。

僕は、これまで友情については色々とこじらせてきたけれど、「そばにいる」だけでいいと思うと少し肩の荷が軽くなる。更に、僕がこれまで取り組んできた「対話」という得意分野を活用できそうだと考えると見通しも明るくなってくる。

僕は人並みのことに気づくのにかなりの時間をかけてしまったけれど、残りの人生でもう少し頑張ってみたいと思う。

無目的のパーティー

※『氷の城壁』感想文シリーズ第3弾。ちょっと哲学濃度あり。14000字以上あります。

僕は今、『氷の城壁』(https://twitter.com/agasawa_tea)というウェブマンガにはまっている。課金したし、二周してしまった。

さらに僕は、このマンガをきっかけにして、ぼくの子ども時代のことまで振り返った文章まで書いてしまった。(http://dialogue.135.jp/2022/11/13/kodomo/

この文章で僕は、僕の中にまだ解消できていない子どもの頃の問題があって、それに正面に向き合いたい、という宣言をして終わった。これを書いたときは、こんなにすぐ、続きが書けるとは思っていなかったけれど、この文章を書いた翌日、ふと思いついたことがあって、それがとても重要そうな予感があったから、続きを書いてみることにした。

1 一緒に内面を成長できるような人とのつながり

僕の中にある解消されていない問題とは、同時並行で書いたもう一つの文章(http://dialogue.135.jp/2022/11/13/korinojouheki/)に基づくなら、僕には『氷の城壁』の登場人物のように、一緒に内面を成長できるような人とのつながりがなかった、という問題である。

だけど、この「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」という言葉は、このマンガを読むことを通じて、初めて言語化できたもので、それまではきちんと捉えることができていなかった。

たしかに僕は「人とのつながり」が欲しかった。だけど、中高生の頃の語彙力によるならば、僕の願いは、「クラスの中心人物の取り巻き」になりたかった、というものだ。クラスのすみっこにいた僕はクラスの中心人物とまではいかなくても、その周囲で楽しそうにしているくらいのポジションの人になりたかった。彼らのことを、普通で、人並みでいいなあ、と憧れていた。当時の僕は、人並みで普通なかたちでの人とのつながりが欲しいと思っていた。

もしくは、もうひとつ、当時の僕が憧れていた人間関係がある。それは高校2年生の頃好きになった女の子に対する思いである。僕は彼女に僕のことを理解してほしかった。色々考えている僕のことを見つけてほしかった。この、「僕のことを理解してくれる人」というのも当時の僕の語彙力で表現できる限りでの、当時の僕が求めていた人間関係である。

それにしても、「クラスの中心人物の取り巻き」も「僕のことを理解してくれる人」も、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」とは程遠い。この程遠さが、僕の失敗の原因なのだろう。僕は僕が何を求めているのかを把握していなかったのだ。いや、ざっくりとは把握できていたのだけど、あまりにも理解の解像度が低くて、僕自身が求めていたはずのものを明確に捉えることができていなかったのだ。

僕が「クラスの中心人物の取り巻き」という表現に込めているのは、人並みになりたい、普通になりたい、という思いである。中高生の頃の僕は成長のスピードが遅くて、周囲の人についていけていなかった。だから僕より一足先に成長している、普通の人達が羨ましくて、そこを目標としていたのだ。

だけど、クラスのすみっこからクラスの中心を眺めて、その形だけを真似てもうまくいく訳がない。(今考えてみると、そもそも「クラスの中心人物の取り巻き」にいる人が僕より一歩先に成長している人かどうか怪しいけれど)彼らのように成長するためには、彼らに憧れるのではなくて僕自身が成長しなければならない。僕は形さえ真似れば内面も伴うのではないかと勘違いしていたのだ。

もうひとつの「僕のことを理解してくれる人」というのもまずい。この問題については当時、失恋して随分考察したけれど、僕のことを多少理解してくれる人はいても、完全に理解してくれる人などいる訳がない。理解してくれる人を求める限り、一部でも理解してくれていないと気づいたとたん、僕は傷つく。そして、やっぱり「僕のことを理解してくれる人」ではなかったのだ、と失望するのは必然である。

ただし、「クラスの中心人物の取り巻き」とは違って、万が一、「僕のことを理解してくれる人」がいたら、その人が僕の内面の成長にあたっては役に立つのは確かだろう。僕の内面の問題まで理解してくれれば、適切にアドバイスをしてくれたり、もしかしたら僕が導くべき答えまでおしえてくれるかもしれない。まるで学校の先生のように、または、テストの模範解答のように。

僕は、僕の内面の成長にあたっても、学校のテストと同様に、誰かが答えを用意してくれていると心のどこかで思っていた。僕のように駄目な人間より、遥かに優れた人間が世の中にはいくらでもいて、その人なら僕が知らない答えを知っているに違いないと思っていた。

このように考えてみると、僕が当時考えていたことは当たらずとも遠からずだ。「クラスの中心人物の取り巻き」も「僕のことを理解してくれる人」も、僕が実は求めていた「内面の成長」と多少は関係があるということだからだ。僕は僕なりに、内面を成長することが必要だと気づいていて、そして、そのためには人とのつながりが役に立つとも気がついていた。だけど惜しいことに、ちょっとずれていたのだ。

2 先送りのツケ

問題は、僕が中高生の頃、そのように考えてしまったことではなく、その間違いにずっと気付かず、今まで問題を先送りしてしまったことにある。僕は、大人になってからの長い間、中学高校時代の僕から目を背け続けてきてしまった。高校はともかく、僕の中学時代は明らかに黒歴史だ。だからそれを直視したくないのは当たり前とも言える。だけど、それにしても僕はその後、大学受験に成功してしまったり、哲学にハマってしまったりして、中高生の頃の問題に正面から向き合うタイミングを逸してしまった。そうこうするうちに処世術も身につけ、なんとなく、問題を上書きして、ないものにしてしまった。本当は向き合って解決しなくてはならなかった問題を、うやむやなまま先送りしてしまったのだ。

明らかに今、その弊害が出ている。僕の人間関係には、決定的に何かが欠落している。そのことには以前から心のどこかで気づいていて、僕は問題解決の方策を模索していた。だけど、うまい解決方法が見つからないどころか、何が問題なのかさえ掴みかねていた。

そんなタイミングで僕は『氷の城壁』を読んだ。このマンガは、僕の心に蓄積していたヘドロのようなものを溶かして、覆い隠されていた中高生の頃の問題を顕わにしてくれた。今の僕の問題は、目を背け続けてきた過去にこそ本当の起源があったのだ。

僕は「対話の哲学」なんていうブログをやっているくらいだから、対話的だと思う。対話とはつまり、他者を認めるということであり、そして自分を認めることでもある。自分を認めるとは、今の自分を認めるということであり、未来の自分の可能性を認めるということであり、過去の自分のことも肯定してあげるということでもある。

だけど僕は、過去の自分のことを抽象的なかたちで認めはしたけれど、きちんと、過去の自分に向き合ってこなかったのだろう。僕は、前に進むべきという未来志向を言い訳にして、過去に蓋をして生きてきてしまったように思う。僕は、前にすすむために辛かった過去など忘れてしまおうと決心し、そして実際、ある程度まで忘れてしまった。だけど、それでは本当の意味で前に進むことはできなかったのだ。

今ならば、僕の心の奥底で呟く中高生の頃の僕の声が聞こえる。「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」が欲しいとあの頃の僕が呟いている。大人になった僕は、これまで培った知見を生かして、その声に応えてあげたい。あの頃の僕に「こうすればいいんだよ。」と道を示してあげたい。なぜそうしたいかといえば、その道こそが、これから、この大人になった今の僕が、これから進むべき道に違いないからだ。これは今の僕の問題である。

3 僕が人間関係について考えていたこと

では、具体的にはどうすれば「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」などというものが手に入れられるのだろうか。

いや、そもそも、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」とはなんだろうか。『氷の城壁』を読んだ人には、その答えは、こゆんちゃんとミナトくんと美姫ちゃんとヨータくんの関係のことだよ、と言いたいところだ。だが、そうではなくて、僕が彼らの関係のなかのどこに、「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」という関係性を読み取ったのか、という問題である。

このことを考える前に、『氷の城壁』を読む前の僕が人間関係についてどのように考えていたのか整理してみたい。(自分が何を考えていたのかなんて、整理しなくてもわかりそうなものだけど、経験上、意外とわかっていない。哲学カフェでやっていることの半分くらいはこんなことだと思う。)

僕はまず、人間関係について、友人関係と、恋愛関係や血縁関係の二種類に峻別していたように思う。そのうえで、恋愛関係や血縁関係は無償のもので、友人関係は利益でつながるものだと考えていたように思う。いや、そのように明確に区分していた訳ではなく、これまで断片的に考えてきたことを組み合わせると、そのように考えていたように思える、ということである。

僕にとっての好ましい友人とは、趣味が合ったり、話が合ったりする人だ。一緒にスキーに行ったり、共通の話題で盛り上がったりする人は、いい友人だと思う。付き合いが長い友人は好ましい友人になりがちだけど、それは過去の共通の想い出があって話が合うからなのだろう。そういう広い意味も含めて、僕は友人とは利益でつながる関係だと思っている。つまり一緒にいると楽しい時間を過ごせるという利益でつながった関係である。

僕は男性の友人よりも女性の友人のほうが好きな傾向にあるのだけど、それはきっと、かわいい女の子といると楽しい、あわよくば何か性的な意味でのいいことがあるかもしれない、という利益が僕の心の中のどこかにあるからなのだろう。(そんなことを四六時中思っている訳ではないので安心してください。)子どもの頃、男子グループの中に溶け込めず、いじめられたりもしたから苦手意識があるから、という事情もあるけれど、それを割り引いても、僕は女性と一緒にいたほうが楽しい。これもひとつの利益である。

また、僕が考える利益の最たるものは、高校2年生の僕が望んだ、僕のことを理解してもらう、というものだろう。僕のことを理解してくれるというのは、多分、他者から与えられうる最大の利益である。当然、そんなものを手に入れることは不可能に近いのだけど。

だから、友人といるより独りでいたほうが楽しい時間を過ごしたりできて利益があると思えば、友人とは会わない。僕は独りで家にいて、こんな文章を書いたりすることが結構好きだから、あんまり友人とは会わないで休日を過ごしている。

一方で、恋愛関係や血縁関係はそうではない。まず血縁関係は、外的に決められたことで、そこには責任がある。親や子どもと話していても、楽しさのような利益はありえるし、実際あるけれど、もし利益が全くなくても、僕には親や子どもとつながる責任がある。また、恋愛関係のほうは血縁関係とは事情が違って、恋愛には、何らかの利益が必ずつきまとうけれど、決して、利益があるから、その人とつながりたい訳ではない。恋愛には、肉体関係という性的な利益があるからなかなか見えにくいけれど、利益があるから恋愛をする訳ではないことは確かだ。恋愛と利益は密接に結びついてはいるけれど、利益はあくまで恋愛の副産物であり、利益があるから成立する友人関係とは大きく異なる。

4 そばにいてほしい

ここまでは、なんとなく、今まで考えてきたことだ。これまで、きちんと整理し、言語化することはなかったけれど、どこかで僕が意識的に考えてきたことだ。

だけど、書いていて、ふと疑問に思った。そばにいてほしい、という思いはどうなのだろう。つらいとき、独りではなく友人がそばにいたら嬉しい。(独りになりたいときもあるから、正確には「友人がそばにいたら嬉しいときもある」かな。)スタンド・バイ・ミーという曲もあるくらいだし、このような思いは普遍的だろう。では、この「そばにいてほしい」という思いは、利益を求める願いなのだろうか。

なぜこれが疑問なのかといえば、この「そばにいてほしい」という願いは恋愛そのものであるように思えるからだ。他の人にとってどうかはよくわからないけれど、僕には「そばにいてほしい」という言葉は、恋愛のほとんどを言い表しているように思える。遠距離恋愛もあるけれど、精神的な距離も含めるならば、恋愛のときの心情を表すのは「そばにいてほしい」という言葉だろう。少なくとも、「かわいい」とか「抱きたい」よりは恋愛の本質に届いた言葉だと思う。

だから、もし「そばにいる」というのが利益なのだとしたら、恋愛関係と友人関係との違いはなくなってしまう。まあ、違いがなくてもいいのだけど、そうすると、僕のこれまでの人間関係についての考え方が間違っていたということになってしまう。これは僕にとっては大問題だ。

なお、僕が「そばにいる」ことへの思いが重要だと気づけたのは、『氷の城壁』を読んだからだろう。『氷の城壁』の主要登場人物は互いに「そばにいる」。ミナトくんが悩んでいるとき、こゆんちゃんは、その悩みに答えを与えて、直接、問題を解決してあげているのではない。まあ、いいことを言ったりもしているのだけど、ミナトくんが悩みを乗り越えられたのは、きっと、こゆんちゃんが「そばにいてくれた」からだ。(ミナトくんに感情移入すると)君がそばにいてくれたからこそ、僕は悩みを乗り越えることができたのだ。同様のことは他の登場人物との関係でも言える。彼らは4人で互いにそばにいたから、壁を乗り越え、成長することができた。この「そばにいる関係」こそが、『氷の城壁』を通じて僕が気づき、そして僕が中高生の頃に求めていたはずの「一緒に内面を成長できるような人とのつながり」なのではないだろうか。

という訳で、「そばにいてほしい」という思いは僕にとって重要すぎて、友情と恋愛をも飲み込み、両者の違いを無化してしまいそうなほどだけど、そこに更に踏み込む前に、ちょっと別の話をしてみたい。

5 無目的のパーティー

さて、僕がこの文章を書こうと思ったのは、「パーティー」という言葉を思いついたからだ。祝賀会などのパーティーではなく、ロールプレイングゲームなどでのパーティーのほうである。ふと、僕が中高生の頃に求めていた人間関係とは、「パーティー」なのではないかと思いついたのだ。

僕はクラスの中心人物やその取り巻きに憧れていた。けれど、では、そうなりたいかというと、、よく考えてみると、そうでもない。もし、中高生の僕がクラスの中心人物にメンバーに入るよう誘われたら、「無理!」と答えていただろう。オタクな僕ではドラマの話や誰かの噂話などの話題に合わせるのが技術的に無理ということもあるけれど、そもそも、そんなことに時間を使いたくないからだ。興味がない話題に付き合い、時間をかけることで、いじめられなくなったり、かわいい女の子と仲良くなれるというのはメリットだけど、別にドラマの話や噂話をしたい訳ではない。興味がない話に嫌々付き合っていても、きっとうまくいかないだろう。そのような意味で無理なのだ。

僕に合っているのは、ロールプレイングゲームでのパーティーのような人間関係だ。君は戦士で、あなたは魔法使いで、僕は盗賊で、力を合わせてダンジョンを攻略しようぜ、という感じ。ダンジョン攻略という共通目的があるから、別にドラマの話に話題を合わせなくてもいい。ダンジョンを歩いている間は、面白い話をせずに黙っていても、僕がイケメンじゃなくても、盗賊のスキルを活かして周囲を警戒していさえいれば、それで問題ない。僕は心穏やかにパーティーとしての人間関係を構築することができる。

だけど、パーティーにも問題はある。パーティーにはダンジョン攻略という目的があるけれど、そのような目的を共有した組織に所属したいかというと、それも嫌だからだ。僕は何十年も、パーティーに似たものである会社という組織に所属してきたけれど、その人間関係がいいとは思えないからだ。会社には、できるだけ金を稼ぐというような目的があり、その目的のために僕たちメンバーは働いているけれど、そもそも、会社のために金を稼ぐという目的が魅力的ではないから、その目的のために貢献する人間関係が好きにはなれない。同様に、ダンジョン攻略という目的が魅力的でなければ、冒険者のパーティーにも魅力がない。

そして、僕には、他の誰かと共有できるような魅力的な目的がないから、パーティーを組むことができない。僕にとっての魅力ある目的とは、例えば、この世界の存在の謎を解き明かしたい、といった浮世離れしたものだから、そんな目的を共有してくれる人などいない。宇宙科学などのアカデミックな分野になら対象者が居そうだけど、僕の興味は科学の枠内に収まらないから駄目だ。さすがに哲学者なら対象になるのではとも思ったけれど、今まで調べた限り、哲学にも色々と違いがあるから、僕と目的を共有できそうな人は見つけられていない。多分、僕は変人だから、そういう目的の共有が難しいのだ。

こうして僕は袋小路に陥っている。もし、僕が変人じゃなかったら、きっと、喜んでドラマの話やら隣のクラスの誰かの噂話をしてクラスの中心人物の取り巻きになれただろう。また、もし、僕が変人じゃなかったら、会社人間になって、弊社の組織目標を理解し目標達成に向けて邁進することまではできなくても、科学者としてアカデミックな人間関係のなかで、ともに力を合わせて宇宙の謎を解き明かそうとすることくらいはできたかもしれない。僕自身のコミュ力や理数系の能力はさておき、そのような可能性はあったはずだ。だけど、僕は変人だから、そのどちらもできない。

僕が心から欲しているのは、無目的のパーティーなのだろう。ダンジョン攻略も魔王討伐も目指さないパーティーなんて矛盾しているけれど、その矛盾したものを僕は欲しているのだ。

ゲゼルシャフトとゲマインシャフトという言葉がある。ゲゼルシャフトとは会社のような目的を持った組織のことで、会社や冒険者パーティーなどが該当する。ゲマインシャフトとは地縁や血縁などによって成立している無目的な組織のことで、田舎の村社会や家族関係などが該当する。僕が欲している無目的のパーティーとは、つまり無目的なゲゼルシャフトということであり、その言葉からして矛盾しているのは明らかだろう。

社会学的にどうかは知らないけれど、僕は、学校のクラスもゲマインシャフト的だと思う。なぜならクラスのメンバーに共通する目標などないからだ。理想的には皆で知識を身につけましょう、という目的があるのかもしれないけれど、実態としては、そのような集団ではない。つまり、僕が学校の中心人物の取り巻きになりたいと思ったのは、村八分ではなく、ゲマインシャフトのメンバーになりたい、ということであり、だけど、無理!と思ってしまったのは、僕は変人だからその資格がないと思ったからである。僕のような者には農村社会のようなゲマインシャフトは無理なのだ。

では、都会に出て、会社のようなゲゼルシャフトに加入すればいいかというと、僕は変人だから、その組織の目的に賛同することもできない。探しても探しても、僕が賛同したくなるような組織を見つけることができない。

僕が感じている袋小路感とは、そのような感覚である。そして、その袋小路を抜け出る道筋として僕が思いついたのが目的のないゲゼルシャフトである。単に田舎に戻ってゲマインシャフトに加入するのではなく、新たに、この都会で目的のないゲゼルシャフトを創り上げる。それが僕が進むべき道なのではないだろうか。

6 ともに幸せになること

そして、『氷の城壁』における登場人物の4人がつくりあげている組織も、目的のないゲゼルシャフトである。先程述べた通り学校のクラスというのは単なるゲマインシャフトだけど、彼ら4人の組織には、単なるクラスメイトには留まらない、秘められた目的がある。このマンガは恋愛マンガだから、恋愛に覆い隠されてわかりにくいけれど、彼らに共通する目的は、内輪で恋愛模様を繰り広げることでは、決してない。彼らのなかには、言葉にはならない、秘められた共通の目的がある。

その共通の目的を、あえて僕の言葉で表現するならば、「ともに幸せになること」である。彼らは、ともに幸せになるという目的を目指して結成された組織なのではないだろうか。当然、そんな宣言などしておらず、多分、4人揃ってはそのような目的の確認すらしていないだろう。だけど、僕には、彼らの間にそのような暗黙の共通認識があるように思えてならない。

なお、「ともに幸せになること」という表現に違和感がある方もいると思う。僕も、「幸せ」という言葉は多義的なので、僕が伝えたいことをうまく伝えきれていないとも思う。だから、言い換えるならば、「一緒に内面を成長させること」でもいい。この方が、これまでの僕の言葉遣いに近いかもしれない。全く違う言い回しだけど、同じことを伝えようとしているつもりだ。

そのような言葉にしにくい何かを目指す組織こそが、無目的なゲゼルシャフト、または無目的なパーティーという言葉で僕が表現したかったものだ。目的がないのではなく、言葉にできない目的があるのだけど、それをうまく捉えることが難しいから、無目的のように見えるだけなのである。

僕はどこかにあるかもしれない、言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーに加入するか、なければ自分で誰かと創り上げたい。

7 スタンド・バイ・ユー

では、僕が目指すものがわかったところで、僕は具体的にどうすればいいのだろうか。どうすれば僕は言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーを創り上げることができるのだろうか。

そのヒントになるのが、先ほどの「そばにいてほしい」という言葉なのではないだろうか。メンバー間で互いに「そばにいてほしい」と願ったとき、それが引力となり組織が形成される。そして、なぜ「そばにいてほしい」のかといえば、その人がそばにいることが幸せだからである。「そばにいてほしい」という願いにより形成された組織こそが、言葉にならないような目的を有する、無目的なパーティーなのではないだろうか。

だけど、それだけでは足りない。互いに「そばにいてほしい」と願うだけでは一方通行で、そばにいるという状況にはならない。ミナトくんが風邪をひいて、「そばにいてほしい」と願ったとき、こゆんちゃんが哲学の文章を書くのに一生懸命で「そばにいたい」と思わなかったら、「そばにいてほしい」という思いは叶わない。また、ミナトくんの願いを渋々聞き入れてそばにいても、それは、哲学の文章を書くのを諦めたこゆんちゃんの幸せにはならない。無目的のパーティーにおいて、暗黙の「ともに幸せになる」という目的が叶うためには、「そばにいてほしい」だけではなく「そばにいたい」も必要なのである。

というか、「そばにいてほしい」なんていうのは、風邪をひいていたり、ちょっと弱気になったり、孤独を感じたりすれば、かなり容易に思えることだから、本当に必要なのは、「そばにいたい」のほうだと行った方がいいだろう。スタンド・バイ・ミーと歌うのはとても当たり前のことで、まあ、当たり前すぎるほど普遍的なことだから、あれだけ有名な曲になったけれど、本当に必要なのは、スタンド・バイ・ユーなのではないだろうか。(と思って調べてみたら、Official髭男dismに『Stand By You』という曲があって、同名のファンクラブまであるんですね。)

ただ「そばにいたい」と願うことは難しい。一緒に趣味を楽しめるから、楽しく雑談ができるからといった具体的なメリットがなくても、ただそばにいたいと願わなければならない。あえて言えば、一緒に幸せになれて、または、一緒に内面を成長させることができるから「そばにいたい」のである。そんな漠然としたことのために、あえて自分の時間を割いて「そばにいたい」と思うことは僕には難しい。僕にはそんなふうに思える友人なんているのだろうか。そんなのはマンガの中だけの話ではないだろうか。

そんなふうに考えていて、一人だけ思いついた人がいる。恥ずかしいので一度だけ言うと、それは僕の奥さんである。僕は彼女と出会い、本気で付き合うと決めたとき、この人と一緒に色んなことを経験し、時には嫌なことがあっても一緒に乗り越えていきたいと思った。実際、そのようにできているかは甚だ怪しいけれど、あのとき僕が抱いたのは、ただ「そばにいたい」という感情だった。それは、一緒に幸せになって、一緒に内面を成長させていきたいと思った、と表現し直してもいい感情だ。だから、もし奥さんも同じように思っていたなら、僕はすでに夫婦で無目的のパーティーを結成しているのかもしれない。

8 友人問題

ここで話を終えてしまったら、単なるノロケ話になってしまう。まあ今日はちょうど結婚記念日なのでそれでもいいけれど、もう少し考えを進めてみたい。

とりあえず、僕は幸運なことに、夫婦で無目的のパーティーを結成できているとしよう。だけど、僕が更に他の人にも、無目的のパーティーを拡げていくことはできないのだろうか。これは、少数の限られた人とだけと限定的に幸せになりましょう、なんて禁欲的になるべき話ではないような気がする。

なお、ここで注意しておくと、これは、うちの奥さん以外の人と付き合いたい、という話ではない。僕には結構ハーレム願望があって、酔ってそんな話をしたことがあるかもしれないけれど、この話にはそのような性欲的なニュアンスは含まれていない。

また、この話は、決して宗教の勧誘のような話ではない。確かに、キリスト教の教会なんていうのは、キリスト教的な幸せを目指す、いわば無目的のゲゼルシャフトだと言えなくもない。だけど僕が今考えているのは、そういう組織化の話ではなく、もっと私的な、一対一の人間関係の話である。

考えてみると、決意さえすれば、誰かと「そばにいたい」と願うことは難しくない。物理的にそばにいるためには同居しないといけないけれど、ここでの「そばにいたい」とは精神的な距離のことだから、ただそう願いさえすれば、あとは、時間や労力をその誰かにかけることで、そばにいることは実現するからだ。

もしかしたら、少なくない割合の人にとって、これはさほど問題ではないのかもしれない。誰かのために時間と労力をかけることが幸せへの道であるということを本能的に知っていて、迷いなくそうできる人は結構いるのかもしれない。考えてみれば、『氷の城壁』の登場人物も、極めて自然にそうしていたような気がする。たまたま僕が、自分自身や奥さんに時間と労力をかけたいと思うタイプだから、そこに問題があるだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、これから書くことは、そうなれなかった、僕のような自己中心的なタイプの人だけに意味があるのかもしれない。

では、ここからは、僕自身と、僕に似た人だけに対象を限定して、話を続けたい。

(1)条件の問題

僕にとってまず問題となるのが、どのような人を無目的のパーティーのメンバー候補として選定すればいいのか、という問題である。あまり大人数だと、自分自身や奥さんに時間と労力をかけることができなくなってしまうから、うまく両立するためには条件を絞って対象人数を狭めたほうがいい。また、明らかに、メンバー候補には不適当な人を除くためにも条件は必要だろう。ある程度長く生きてみると、本当にやばい、明らかにサイコパスな人がいて、どんなに理想論を掲げても、そういう人とは関わってはいけない、ということを知ってしまう。

ではここで対象を絞る条件として、趣味が合うかどうか、話が合うかどうか、といった基準を持ち出すと、目的があるゲゼルシャフトの話に戻ってしまう。そうではなく、無目的のゲゼルシャフトを創り上げるにはどうすればいいかを考えなければいけない。つまり、ともに幸せになり、ともに成長できそうな人を選び出すにはどうすればいいか、という視点で考えなければならない。

では、すでに幸せで成長した人を探し出して、その人からやり方を教えてもらえばいいのかというと、そうではない。それでは、高校2年のときに頭がいい彼女を好きになったのと同じ過ちを犯してしまう。僕が探しているのは、僕の先生やカウンセラーではなく、僕とともに歩んでくれる人なのだ。

だとするならば、僕のパーティーのメンバーを選定する基準は、僕と一緒に幸せへの道を歩んでくれそうかどうか、または、僕と一緒に試行錯誤して内的成長をしてくれそうかどうか、というようなものになるだろう。

これは、人生という言葉を使って、僕より早すぎもせず、僕より遅すぎもせず、同じ歩幅で人生を歩んでくれそうかどうか、という選定基準であると言い換えることができるだろう。または、人生に対して僕と同じような熱量を持っていて、人生に対して僕と同じような真摯さや誠実さを持っているかどうか、という基準である、と言ってもいい。なぜここで人生という言葉を持ち出すかというと、つまり、幸せとは人生における幸せであるからだ。そして内的成長とは人生における成長のことだから、つまり、人生を生きることそのものの問題であるはずだからだ。

(2)方法の問題

だけど、どうやって他人の人生に対する熱量や真摯さなんてものを把握すればいいのだろう。よく観察すれば不可能ではないけれど、そこまで観察できるためには、既にかなり近い友人になっていなければならないだろう。そこまで労力と時間をかけるのは現実的ではない。

周囲を見回してみると、マンガの中だけではなく、世間にはそのような関係を築けている人がたくさんいるように思えるけれど、彼らはどうやっているのだろうか。

きっと、彼らはそれほど考えていないのだろう。いわば嗅覚のようなもので、その相手を見つけているのではないだろうか。そして、多少悲観的になるならば、その嗅覚が最もよく働くのは、子どもの頃からせいぜい中高生の頃までで、だから、多くの人にとって幼なじみが大事なものになるのではないだろうか。残念ながら僕は、中高生の頃までその嗅覚を用いる機会がなく、こうして歳をとってしまった。ギリギリセーフで20代の半ばで僕の奥さんに出会ったときにこの嗅覚が働いたのかもしれないけれど。

だから、今後、僕には、昔のように、自然と、ともに人生を歩むことができるようなパーティーのメンバーを見つけることはできないのかもしれない。本来なら自然にできることを、このように、ぐだぐだと言葉で考えているということ自体がその困難さの現れなのかもしれない。

まあ、僕は奥さんを見つけられたのだから、良しとするべきなのかもしれない。だけど、不自然ではあっても、もう少し頑張ってみたい。なぜなら、もし、大人になってからでもパーティーのメンバーを見つける方法をみつけることができたならば、それは、僕自身にとってだけでなく、この世界にとっても意義があるだろうからだ。僕は、僕自身に加え、僕に似た人にも、君だってもっと、誰かと一緒に幸せになれるんだよ、と言ってあげたい。

(3)対話

そこで役立つのが対話だろう。確かに僕はこれまで対話を重視してきた。だけど、まだまだ解像度が荒くて、きちんと、それぞれの個人に焦点をあてて対話することができていない。相手と向き合い、相手を型にはめて一般化することなく、相手を唯一のオリジナルな存在として認めることで、その人の人生に対する態度も見えてくるはずだ。その労力を惜しんではいけない。僕はもっと他者と対話しなければならない。

その動機は、僕自身の哲学のスタンスにも由来している。僕は、僕一人でやる哲学が好きだ。僕は、僕の哲学にもっと時間と労力をかけたい。だけど、僕の哲学とはつまり、対話の哲学なのだから、僕の人生においてきちんと他者と対話をしなければ本末転倒だ。他者との対話にかける時間と労力を犠牲にして、自分自身の対話の哲学に注力することはできない。理論と実践はつながっていて、僕は対話を哲学的に理論化しつつ、僕の対話を実践していかなければならない。

(4)癒着

さて僕は今、「僕の対話を実践していかなければならない。」と表現したけれど、この「ならない」は義務ではない。

話が少しずれるけれど、こゆんちゃんのミナトくんに対する「そばにいたい」という思いは「そばにいなければならない」と言い換えても全く同じ意味である。この「そばにいなければならなない」も義務ではない。なぜなら、こゆんちゃんとミナトくんは、ともに幸せを目指すゲゼルシャフトの一員なのだから、「そばにいたい」という個人の目的と「そばにいなければならない」という組織の目的は完全に重なり、癒着しているからだ。だから、こゆんちゃんはミナトくんに対して「そばにいなければならない。」とも思っているに違いない。

更にはミナトくんのこゆんちゃんに対する「そばにいてほしい」という思いすらも重なり癒着している。あえて言えば、「そばにいたい」でも、「そばにいなければならない」でも、「そばにいてほしい」でもなく、ただ「そばにいる」のであり、「そばにいる」以外にはないのである。ミナトくんはそばにいてほしい、のではないし、ましてや、そばにいてもらう、でもない。こゆんちゃんはそばにいたい、ではないし、ましてや、そばにいてあげる、でもない。ただ二人は互いに「そばにいる」だけであり、それしかないのである。

僕が無目的のパーティーであるという言葉を使ったのはそういうことである。あえて幸せになるという言葉や内面を成長するという言葉を目指すものとして使ったけれど、正確には、幸せになりたいでもなく、成長したいでもなく、幸せにしたいでもなく、成長したいでもなく、ただ二人で、幸せになり、成長するのである。そのような意味で、幸せも成長も目的ではない。

これは、國分功一郎先生が『中動態の世界』で描いた中動態の話に少し似ている。

同様に、「僕の対話を実践していかなければならない。」とは、「僕の対話を実践していきたい。」でもあり、「僕の対話を実践していってほしい。」でもあり、より正確には、僕は「僕の対話を実践していく。」しかないのである。きっと僕という人格さえも、つまりは無目的のパーティーであるということなのかもしれない。

そして、僕は、そのような人間関係のあり方、幸せのあり方、内面の成長のあり方、または人生のあり方こそが、対話的であると考えている。対話の言葉により人はつながり、無目的に前に進むことができるのではないだろうか。

いくつも書いてきたけれど、『氷の城壁』の感想文シリーズは一段落かな。普通に色々できる人は羨ましいけれど、僕もこうやって言葉を捏ねくり回して何とかついていくぞ!

子ども時代の振り返り

※1万字以上あります。あと、他の文章に比べてもかなり私的なメモです。

氷の城壁

僕は今、『氷の城壁』(https://twitter.com/agasawa_tea)というウェブマンガにはまっている。課金したし、現在二周目だ。色々と面白いところがあるので、今度、考察を書こうと思っている(同時並行で書きました http://dialogue.135.jp/2022/11/13/korinojouheki/)けれど、その魅力のひとつは、日本で子ども時代を過ごした多くの大人に、子ども時代を思い出させるというところだろう。それも、単なる甘い想い出としてではなく、生々しい内面の葛藤の記憶を呼び起こす。つまり、このマンガは、僕が忘れようとしていた子ども時代に向き合うことを強いるのだ。

僕は、子どもの頃、客観的に見てもぱっとしない子で、いじめられっ子だった時期もある。だから僕は過去のことなど早く忘れたいと思って生きてきて、その結果、かなり忘れることができた。だけど、このマンガは、そんな僕に、あの頃のことを思い出せと言う。思い出し、過去に向き合わないと先に進めないだろ、と僕の心に問いかける。

僕はその問いかけに従い、できるだけ思い出してみようと思う。思い出すだけなら、文章にしなくてもいいのだけど、僕は書かないときちんと頭が働かないので書く。また、書いてもネットに公開しなくてもいいのだけど、ここに公開しないと、どこかにいってしまいそうなので公開する。きっと僕はまた忘れてしまうから、こうして記録に残しておきたいのだ。

だから、この文章は、完全に自分のためだけの文章である。同じようなことは他の文章でも何度も書いているけれど、この文章は、よりその色彩が強い。

小学生の頃

小学生の頃から振り返ってみる。

小学校低学年の頃は、からかわれていた想い出しかない。小学校に入るタイミングで引っ越しをしたから友達がおらず、また、3月生まれで成長が遅かったから、からかいの対象だったのだろう。変なあだ名をつけられたり、替え歌を歌われたり、意味もなく追いかけられたりして、とても嫌だった。引っ越しなんてしなければよかったのに、とよく思った。

徐々にそのようなことはなくなっていったけれど、体育が苦手で不器用で忘れ物が多かったから、授業が嫌で仕方なかった。国語算数理科社会はマシだったけれど、別にすごく成績が良かった訳でもなく、ただ、静かに授業をやり過ごせるのが嬉しかった。

そうは言っても、暗黒の小学生時代だったという訳でもない。図書館に行ってSFの本を借りて読んだり、友達とプラモデルを作ったり、(釣れない)釣りに行ったり、シミュレーションゲーム(紙の箱に入ったやつ。ウォーゲームと言うのかな。)をやったり、それなりに放課後を楽しく過ごしていた気がする。

ふと思い出したけれど、5・6年生の時の担任だった若い女性の先生は苦手だった。算数の図形の授業で面と線の話になったとき、僕は、面と線の境目がどこにあるのか疑問に思った。四角形には、食パンの耳のように、面の周囲に線があるけれど、面と線は別物なのだから、そこには境目があるはずだろうと思ったのだ。そこで授業が終わったあと、先生に質問に行ったけれど、何度言われても理解できない僕に先生がイライラしてきたので、すごすご帰った覚えがある。今思い返しても、これは先生のレベルの低さが問題だし、僕のある可能性を奪ったと言えなくもない。今も僕は、心のどこかで先生という人種のことを見下しているところがある。

また、僕は家族についても問題を抱えていた。僕の父は消防士で、24時間勤務すると24時間休みという勤務体制だった。だから一日おきに家にいた。だから、授業参観には、みんなお母さんが来るのに僕だけお父さんが来ることもあった。僕はなんだかそれがすごく恥ずかしくて、普通の家だったらいいのに、と思っていた。

そう言うとないものねだりの贅沢だと思われるかもしれないけれど、僕の父はただ一日おきに家にいるだけではなく、かなりエキセントリックな人だった。社会党(今の社民党と立憲民主党があわさったみたいな党)の活動をしていて、色々立派なことを言うのに、母に対しては暴力を振るったり、僕の話も聞かなかったり、自己中心的で、言動が一致しない人だった。

子どものことは大好きで、僕に対しても色々とやってくれるのはいいけれど、過干渉で、すべて自己流で、それ以外のやり方は認めてくれなかった。例えば、夏休みにはよく海に連れて行ってくれたけれど、そこは砂浜の海水浴場ではなく、その近くの岩場だった。今ならば、僕もシュノーケリングが好きだし、磯遊びの楽しさはわかるけれど、海の家に行ったり、普通の海水浴もしてみたいなあ、と思っていた。

僕はひとりの時間が欲しかった。だから仕事が忙しいサラリーマンのお父さんがいる家庭が羨ましかった。僕は普通になりたかったのだ。

だけど、僕の側にも問題はあって、僕は星新一みたいな、突拍子もない設定が出てくるSFが好きだったから、突拍子もないことばかり考えていた。宇宙人が攻めてきたときに備えて、どんな最強の秘密基地を作ったらいいだろうか、とか、悪者に襲われたときに備えて、どんな万全の装備をすればいいだろうか、とか、そんなことばかり考えていた。今でも時々、突然30年前にタイムスリップしたらどうしたらいいだろう、悪魔に3つの願いを叶えるという取引を持ち出されたらどうしたらいいだろう、なんてことを考えるから、あまり変わっていないのかもしれない。多分、僕はそもそも変な子で、親のことはさておいても、普通にはなれない子だったのだ。

今、哲学が好きなのも、きっと、普通になれないことの延長線上にあるのだろう。あの頃、僕は、本気で、この世界は宇宙人が僕を飼うために作ったハリボテの世界かもしれないと思っていた。父や母や同級生もロボットで、僕をそれなりに育てるための巨大な装置のなかに僕は住んでいるのかもしれない、と思っていた。そのような妄想の延長線上に、今の僕はいるような気がする。

中学生の頃

僕にとっての中学生時代とは、いわゆる黒歴史だけれど、たいていの人にとって、中学生時代とは消し去りたい黒歴史なのではないだろうか。『氷の城壁』の登場人物にとってもそうだ。『氷の城壁』はオールカラーのマンガなのだけど、過去の回想シーンは白黒で表現される。色がついていない黒歴史にいかに向き合うかがこのマンガのひとつのテーマとなっている。

そして、僕にとっては、その黒が人よりも濃いような気がする。まあ、多くの人が、自分の黒歴史のほうがより黒いと主張しそうな気もするけれど、僕はそう思っている。

一般的に言って、中学生時代が黒歴史になる理由は、その発育段階にばらつきがあるからだろう。小学生の頃は皆が等しく子どもだったのに、この頃から、一部の子どもは大人になっていく。そして、個人のなかでも、まんべんなく緩やかに大人になっていくのではなく、まだらに急激に大人になっていく。だから大人になっていなかった自分のある側面を思い出すと嫌になる。

僕は成長が遅い方だったのだろう。急に周囲の人がおしゃれになっていくのに僕は乗り遅れたし、アニメやマンガから、テレビドラマや歌謡曲やバラエティ番組へという大人文化への移行にもついていけなかった。

その要因として、父が、おしゃれやテレビドラマや歌謡曲やバラエティ番組といったものを蔑んでいたという事情もあるけれど、主な要因は、僕自身の内向的な性格にあったように思う。僕は他人に興味がなかったから、周囲の繊細な状況の変化に気づかず、ついていくことができなかったのだ。周囲はどんどん変わっていくのに、相変わらず僕は、かっこいいメカが登場できるSF世界の設定を妄想するようなことばかりをしていた。

それでも小学校の延長で、中1の頃はなんとかなったけれど、中2、中3と進むにつれて、僕はだんだん周囲についていけなくなった。僕は体育も苦手で頭がすごくいい訳でもない子だったので、いわゆるどんくさい奴ポジションで、中2の頃からは特定の数人からイジメのようなことも受けるようになっていた。今でも、そのうちの一人の名前を時々思い出すことがあって、もし目の前に現れたら、絶対に意地悪をしてやろうと心に決めている。もし、そいつが目の前で倒れて、救急車を呼ばなくてはならない状況になっても絶対無視してやろうと心に決めている。そのくらいには根に持っている。

一方で、僕も潔白ではなく、僕よりも、もっと公式ないじめられっ子のことは、みんなと一緒にイジメていた。そうしないと集団から浮いてしまうし、楽しいことのような気もしていたからだ。皆が楽しんでいるなら、同じように僕も楽しいと思うのが正解だと思っていた、と言ったほうが近いかもしれない。

あと、細かいことだけど、僕は今もそうだけど、お腹の調子が悪くなりやすくて、学校のトイレで大のほうに行けないことがきつかった。多分、共感してもらえる男性は多いと思うけれど、これは男子にとっては勇気がいることだ。僕のようなポジションにいればなおさらである。僕は本当に学校に行くのが嫌だった。中学校の卒業を指折り数え、卒業式を終え、心からホッとしたことを覚えている。

ちなみに、初恋は中3の時だった。なんとなくいいなあ、と思っていた同じクラスの女の子がいたのだけど、修学旅行のとき、その子が、お風呂上がりで髪が湿ったままで、ルームウェア(パジャマ?)でいたのを見て、ああいいなあ、と思ってしまったのだ。

僕は、人間関係に疎かったから、その日の夜、一緒の部屋だった同じグループの男子と恋バナになったとき、その話をしてしまった。そういう話をすることで、友達としての距離が近づくかな、と思ってしまったのだ。だけど、当然、それはいじりのネタにしかならず、何もいいことはなかった。(イジメがあった人間関係とは別なので明確なイジメにはつながってません。)

なお、当時の僕の恋愛観は、あだち充のマンガをそのまま信じるようなレベルのもので、例えば、マンガには付き合ってからの描写はないから、付き合ったらどうするのかさえわかっていなかった。運命の相手に出会ったら、テレパシーみたいに何か信号を受信するのかな、なんてことを考えていた。そういうレベルなので、多分、成長が早い人たちからしたら、アホそのものだったのだろう。

そんなこんなで、今でも僕は、男性グループが苦手だ。男性との間で、普通の距離感で、普通の話をしようとしても、何が普通なのかがよくわからない。また、普通でなければ、いじめられたり、馬鹿にされたりするのではないかという恐怖もある。恐怖の対象でしかない人に興味を持つことなどできず、名前を覚えることもできないから、噂話のような、いわゆる普通の話もできなくなる。誇張するならば、そんな悪循環が生じている。一方で女性なら、もともと世界が違うのだからそういう問題は比較的起きにくい。今もそんな風に、どこかで感じている。

高校生の頃

そんな中学生時代だったので、高校生になったとき、今度こそうまくやろうと決心した。高校デビューだ。その試みは部分的にはうまくいって、僕は、中学よりはマシな高校時代を過ごすことができた。流石に親の干渉からも離れ、洋服にも多少は気を遣うようになったし、経験を積み、普通を演じることも少しずつできるようになっていった。当時はバンドブーム前夜で、音楽の話が盛り上がっていたけれど、そんな知識を身につけ、人と話すこともできるようになった。多分、音楽は僕の趣味に合っていたのだろう。カラオケは苦手だけど、今でも奥さんとライブに行ったりもする。

アニメやマンガも徐々に卒業し、アイドルにハマったりもした。オタクだともてないから無理をしたというのもあるけれど、絵よりもナマの経験に魅力を感じるようになっていったような気がする。アイドルは絵よりは情報量が多くて、そこにナマの存在をより感じることができる。だけど相変わらず、本物の女の子とはうまく話すことなどできず、クラスでは、せいぜい、パッとしない男子の一人に過ぎなかった。

僕は自覚的高校デビューだったので、クラスの中のポジションを常に意識していた。今の言い方ではスクールカーストだ。自己評価では、僕はせいぜい下の上か、中の下くらいで、今思い返しても、その評価は正しいものだっただろう。中学生の頃は下の中だったので成功だ、もう少し頑張ろう、そんなふうなことを考えていた。そんなことばかり考えている男子がうまくいく訳ない。

スクールカーストで問題になるのが、カースト上位に移ったときの従来の人間関係の扱いだ。下の中から下の上に移る時、さらに下の上から中の下に移る時、この問題が発生した。(たいていの中高生的問題が盛り込まれている『氷の城壁』で、焦点が当てられていないのが、この問題だ。)僕はこの問題に、従来の人間関係を切り捨てることで対処した。切り捨てられた彼らがどのように思っていたかわからないし、そこに罪悪感を感じたのは自意識過剰なのかもしれない。だけど、僕には罪悪感があった。僕は、友人関係を、僕のポジションを確認するための便宜的な道具として扱っていた。そのせいか、僕には親友と呼べるような人はいなかった。どこか僕は浮いていた。

そんな僕に大きな変化があったのは、確か高校2年生の頃だ。その頃僕は、斉藤由貴が好きで、それまであまり観なかった、映画やドラマもチェックしていた。(斉藤由貴が好きだったのは、中学生の頃の初恋の人がポニーテールだったからだと思う。あと、高井麻巳子(秋元康の奥さん)も好きだった。)

そんななかで、ふと、彼女が出演する朝ドラの総集編を観ていて、「他の人にも人生があるんだ!」とびっくりした。ロボットも超能力も出てこない人間の一生を描くドラマというものを初めて観て、そんな当たり前のことに気づいたのだ。そこからしばらくの間、電車で向かいに座っている人を見ているだけでも涙が出るくらいに世の中の見え方が変わった。ああ、この人も人生を生きているんだ、そんなふうに思って涙が出た。

だけど、やがて、その感動は寂しさに変わった。このように心境が変化したことを話せる人なんていない。話してもきっと理解してくれない。誰もこの僕を見つけてくれない。そんなふうに感じたからだ。

そして、僕はクラスで一番頭がいい女の子のことが好きになった。オタクっぽいし、別に美人な訳でもない。(けど髪は上げていることが多くて僕の好みだった。)だけど、彼女なら僕のことを見つけてくれて理解してくれるかもしれない。そんなふうに思ったのだ。だけど、残念ながら、よく観察してみると、今、その女の子には彼氏っぽい男子がいるようだ。僕はとりあえず、自分にけじめをつけるため、告白して、案の定、振られた。

この、斉藤由貴のドラマから失恋までの数ヶ月が、多分僕の最初の転機だったと思う。

そして、2つ目の転機は、高校3年だった。クラス替え直後、周囲にあまり馴染めず、そして、失恋の余韻で馴染む気もしないなか、僕は将来が不安になった。このままだと、僕は普通の人生を送ることができるのだろうか、と。僕は塾に行ったこともなく、周囲に大学に行った人なんていなかったから、進学することのイメージが沸かなかったのだ。僕は普通の大学に進学し、普通の中小企業に就職することを目指すと決めた。それが普通の人生だと僕は思ったのだ。

そして僕はクラスにも馴染もうとせず、勉強に没頭した。最初は英語のSVO文法も知らないくらいだったけど、メキメキと学力は上がっていき、段々勉強が面白くなってきた。筋トレでよく言われるけれど、学力は努力を裏切らない。そして、ついには有名私大に合格した。この成功体験が2つ目の転機だ。今の僕の自己肯定感はこのあたりが起源になっているように思う。

こうして振り返ってみるとよくわかるけれど、僕はたしかに高校時代を通じて成長した。だけどそこには友人のような他者は関与しておらず、僕がひとりで勝手に成長している。僕の成長はどこか歪んでいる。

その証拠に、高校の卒業式のあと、僕にはあえて話しかける人は誰もおらず、ひととおり挨拶して、なんとなく一人で帰った。1年間勉強に没頭し、クラスのことなんて顧みなかったのだから当然のことだ。(正確には、もう一人、あまり仲も良くないけれど、似たようなポジションの人がいて、その人のバイクに乗せてもらって帰った。)

その後

こうして大学に入ったけれど、僕が真の意味で大学生になったのは、入学して数ヶ月したサークルでの飲み会のときだったと思う。1年間だけいたオールラウンドサークルで一コ上の先輩と話していたとき、その先輩が海外旅行の話をしてくれた。確か、タイのバンコクの駅で野宿していたら、腕時計を取られそうになった、という話だった。そのとき、僕は、こんな人生があるのか、とびっくりして、是非やってみたいと思った。実際、その後、海外旅行が趣味になるのだけど、そのことを教えてくれた先輩の言葉が、僕の3つ目の転機だったと思う。ようやく僕は、僕がやりたいことを見つけたのだ。

その後も、初めて彼女ができたりと色々な出来事はあったけれど、子ども時代の振り返りということでは、このあたりを一つの区切りにしておいたほうがいいだろう。

受験と哲学

こうして子ども時代を振り返ってみると、僕には、普通になれない、人並みになれないという問題がつきまとっていたことに改めて気づく。

そして僕は、その問題に正面から向き合わないまま、受験という裏技(チート技)で乗り越えてしまった。僕は、高校三年生になるまで、ずっと人並みになりたい、普通になりたい、と願ってきて、それが叶わなかった。けれど、受験に成功し、急に人並み以上になってしまった。もともと願っていた人並みは叶わないまま、別の角度から、チート技を使って人並み以上が叶ってしまった。これは、山登りをしていて、自分より先を歩いている人を目指していたら、急に来たヘリコプターに連れて行かれて、彼らを抜き去って、頂上に到達してしまったようなものである。

ずっと僕は、クラスの中心にいる人たちが羨ましかった。足が速くてリレーの選手になったり、近所の公園で何時間もおしゃべりできる友人がいたり、それも、異性の友人がいたり、もしかしたら彼女もいたりする同級生が羨ましかった。いや、そこまでいくと人並みをはるかに超えてしまうから、そのようなヒーローと同じ空気を吸い、違和感なく同じ時間を過ごすことができている、ヒーローの取り巻きの人並みの人たちが羨ましかった。アニメではなくて、ドラマや噂話に興味を持ち、いつまでもそんな話を続けることができる彼らが羨ましかった。

だけど僕は、彼らのようにはなれず、つまり、人並みになることはできなかった。その代わりに、僕は、受験には成功し、世間的には人並み以上になってしまった。受験という裏技を使って、僕は問題に向き合わないまま、問題を乗り越えてしまったのである。

また、僕は、もうひとつ、哲学という裏技も使っている。小学生の頃から、僕には色々な問題がふりかかっていた。いじめられたり、親が変な人だったり、といった問題だ。だけど僕は、そのことに正面から向き合わず、この世界はハリボテかもしれないとか、宇宙人が攻めてきたときにどのように対応しようとか、そんなことばかり考えていた。それは単なる逃避ではなく、きっと生まれながらの性格によるものなのだろう。僕はひとりで妄想することが好きなのだ。

今の僕の哲学は、明らかに子どもの頃からの妄想の延長線上にあって、僕は、僕の哲学を練り上げ、普通になれない、人並みになれないという問題にすら対応することができるようになってしまっている。

僕の哲学によるこの人並み問題への答えはこうだ。そもそも、何が普通で、何が人並みかなんてわからない。あえて言えば、皆が特別で、誰もが人並みなんかじゃない。だから普通になれない、人並みになれない、と悩むことには意味がない。以上。

このようにして、僕の哲学は、子どもの頃からの僕の問題を無化することができる。

高校2年の頃、斉藤由貴のドラマを観ていて気づいたことも、この話を補強する材料とすることができるだろう。他の人にも人生がある。これは普遍的な事実である。だから、一人ひとりに着目する必要はない。電車で向かい合わせに座っただけの人も、クラスメイトも、等しく、尊重されるべきであり、そして愛おしい。そのような普遍的な事実を知っている僕は、目の前にいる他者に個別に向き合わなくても、他者を尊重することができる。以上。

あえて言えば、哲学とは、過度に一般化し、普遍化する作業である。親は僕に何か隠している、という疑いを過度に一般化することにより、親はロボットで、この世界はハリボテかもしれないという疑いにまで育てることができる。それぞれの人には人生があるという理解を過度に一般化することにより、それぞれの人生を生きる他者には、他者という点で大きな違いなどない、という結論を導くことができる。

このような哲学は、個別の問題から目を背ける道具ともなる。僕はその道具をうまく使って、人並みになりたい、普通になりたい、ということが本当は意味していた個別の問題に向き合わないまま、問題を乗り越えてしまったのである。

タイミング

どうして僕は、受験と哲学という二つの裏技を使って、普通になれない、人並みになれないという問題を乗り越えてしまったのかといえば、タイミングの問題だったのだろう。

こうして振り返ってみてわかったけれど、僕は根本的に人と大きく違っているのではなく、成長のスピードが人より遅かっただけなのだ。

高校2年生のとき、他の人にも人生があると気づくまで、僕にとっての世界とは、のっぺらとしたハリボテのようなものだった。僕だけが本当に生きていて、その周囲にあるものは、いわばマンガの書き割りのようなものだった。クラスメイトはクラスメイトとしてしか存在せず、先生は先生としてしか存在しない。当然、生きているからには、クラスメイトも家で朝ごはんを食べたり、寝たりしていたはずだけど、そのようなことには全く関心がなかった。僕の関心は、もっぱら、宇宙人が攻めてきた場合の対応や、テレパシーによる運命の彼女の見つけ方といったものだった。

それを一変したのが、斉藤由貴のドラマなのだけど、きっと、このようなことは、他の人なら、小学生の頃から徐々に気づいていたのではないだろうか。僕は、高校2年生になるまで、小学生のままだったのである。

では、そこから再スタートを切って遅れを取り戻せばいいのだけど、高校3年生になった僕の問題は、そこから、将来への不安の問題へと移ってしまい、受験勉強モードに入ってしまった。そして、受験が成功し、そこで得た自己肯定感により、僕の人並みになれないという問題は上書きされてしまった。

こうして僕は、ちょっと変わった高校2、3年生を過ごしたことで、本来向き合うべき、普通になれない、人並みになれない、という問題にきちんと向き合わずに済んでしまったのである。

実際、大学生以降の僕は、受験で成功したという自己肯定感により、また、徐々に築きつつあった自分なりの哲学を武器にすることにより、人並みか、それ以上の人間関係を構築することができるようになった。きっと中高生の頃の僕が、大学生以降の僕を見たら、普通で人並みになっているね、と思ってくれるだろう。

結果的に、僕は、この普通になれない問題にうまく対処できたと言えるのかもしれない。

友人

だけど、こうして振り返ってみると、僕の問題は本当には解決していないように思う。僕の普通とは、普通の人間関係を構築するということでもある。だけど、人間関係という面では僕には足りないところがあるのだ。

確かに今の僕は自分自身を人並みかそれ以上だと認めることができるし、また、周囲の人からも認められているという自信もある。周囲の人は僕を友人と思ってくれていそうな気がするし、そのような友人の輪に僕は参加できているようにも思う。だけど、それだけでは足りない。

僕は、本当の意味では周囲の人たちを求めていないのではないだろうか。僕は普通に、人並みに、他者と関係を構築しようとしていないのではないだろうか。その点では、子供の頃の僕と大人の僕とでは大差ないのではないだろうか。

確かに、僕は、哲学カフェなんていうイベントもやっている。だけど、そこで関係を構築しようとしているのは、特定の他者ではなく、不特定の他者である。あえて言うならば、哲学カフェというのは、匿名性により、特定の他者を避け、不特定の他者とつながることを目指す活動であるとすら言える。僕は、どこまでも特定の他者を避けているのだ。

僕には幼なじみはいない。中学高校時代の知人ともほとんど繋がりがない。最近、大学時代の友人とも連絡をとっていない。それよりも、こうして独りで文章を書いたり、哲学カフェをやったり、ヨガや太極拳の練習に行ったほうが楽しい。僕はコミュニケーションが下手ではないと思うけれど、僕が相手にしているのは、たいてい、自分自身か不特定の他者だ。

結婚していて、子どももいるから、家族という特別な他者はいる。また、僕はやっぱり性的な意味で女性が好きだから、下心込みで、特定の他者としての女性に注目することもよくある。(下心と言っても、実際になにかしよう、ということではないです。安心してください。)また、他の人に比べれば少ないけれど、いわゆる特定の他者との関係、つまり友人関係が全くない訳でもない。

だけど、僕は、中高生の頃憧れた、クラスの中心にいたあの人たちからは、遠く離れているように感じる。僕は心の底から友人を求めていないという点で、今も、普通で、人並みになることができていない。

問題

だけど、そのことにどのような問題があるのだろう。少なくとも大学以降、僕は、僕自身が求めさえすれば、いくらでも普通で人並みになる機会はあったように思える。そうしなかったことは自分自身の選択であり、そもそも求めていないものを手に入れなかったからといって、何の問題があるのだろうか。

また、中高生時代に憧れとともに遠くから眺めていた彼らのうちの何割かは、今の僕と同じように、そうなりたいと心から求めていた訳ではないかもしれない。彼らが、心の底から友人が欲しいと願い、その結果、友人を手に入れていたとは限らない。

僕の思いには色々と辻褄が合わないところがある。

きっとこれは、実は、僕の心の中にある問題だからなのだろう。僕は、中高生の頃のことを振り返るのを避け、目を背けて生きてきた。僕の中には、解消できていない子供の頃の僕の問題がいまだにくすぶっている。

それを、今の僕の考えにより上書きするのではなく、過去を掘り起こし、正面から向かい合うことによって、その問題自体を解決するしかないのではないだろうか。そんな気がする。

『氷の城壁』の魅力

※途中(魅力4)まで「ほぼ」具体的なネタバレなしです。5000字以上あります・・・

僕は今、『氷の城壁』(https://twitter.com/agasawa_tea)というウェブマンガにはまっている。課金したし、現在二周目だ。

本当に色々と素晴らしいので、布教したくて、この文章を書いている。この文章を読んでも読まなくてもいいので、是非、多くの方に『氷の城壁』を読んでもらって、読書会でも開いて、みんなで魅力を語り合ってみたい。(けど、僕は飽きっぽいので、1月後、そんなことを考えているかは怪しいけれど。)

『氷の城壁』は、ウェブ限定で、縦スクロールの、いわゆる「縦読み」形式の新しいタイプのマンガだ。僕はアラフィフなので、こういうのにはあまり慣れておらず、時々、ツイッターなどで流れてくる無料四コママンガを読むくらいだ。

だから、僕の考察は的外れで、『氷の城壁』特有のものではなく、広く新しいマンガに共通のものだったりするかもしれない。そのあたりは割り引いて読んでほしい。

(このマンガの主人公は高校生の女の子で、それにアラフィフのおっさんがはまっているというのは、かなり気持ち悪い状況だということはご容赦ください。)

魅力1 内面の成長:触媒

『氷の城壁』は、男女4人の高校時代の恋愛模様を描いている、いわゆる恋愛マンガだが、その最大の魅力は、単なる恋愛マンガには留まらない内面の掘り下げ具合にあるだろう。作者の意図はわからないけれど、僕の受け止めでは、恋愛はあくまで舞台設定であって、実は、彼らの内面の成長を描いたとさえ思える。

推理小説には、「ヴァン・ダインの二十則」というのがあって、そのなかに「7.長編小説には死体が絶対に必要である。殺人より軽い犯罪では読者の興味を持続できない。」という法則があるらしい。(うろ覚えだったのをネットで調べました。https://pdmagazine.jp/background/knox/)

同様に、「青春マンガには恋愛が絶対に必要である。恋愛より軽い出来事では読者の興味を持続できない。」という法則があるのではないだろうか。当然「ヴァン・ダインの二十則」を破った推理小説が存在するように、恋愛がない青春マンガがあっていい。けれど、殺人や恋愛はかなり強力な舞台設定であることは確かだろう。

そして、『氷の城壁』は、強力な、恋愛という舞台設定を全面化するのではなく、あくまでもその力を借りて、登場人物の内面の成長を描くことに成功している。

その証拠に、僕の興味は途中から、「こゆんちゃんの恋愛は成就するのかな。」ではなく、「こゆんちゃんは幸せになれるのかな。」に変わっていった。「もしかしたら恋愛は成就しないかもしれないけれど、こゆんちゃんが変わっていって幸せになれるならそれでいい。」と願いながら読んでいた。(こゆんちゃんは主人公の女の子です。気持ち悪いですね。すみません。)

そして当然、彼らの内面の成長の問題は読者自身にも降り掛かってくる。このマンガは、「では君はどうなんだい」と僕に問いかける。そのような意味で、このマンガは単なるエンタメではない。もう少し重い何かで、僕ならばそれを「触媒」と呼びたくなる。僕の心に化学反応を起こさせる触媒だ。(僕にとって、これに似た本は、フランクルの『夜と霧』だ。)

魅力2 人とのつながり:憧れ

そして重要なのは、その内面の成長が、独りではなく、主に男女4人の仲良しグループ内での共同作業として行われるという点にある。一人ひとりの登場人物は真摯に、独りで問題に対処しようとして、考え悩む。だけど、それだけでは足りなくて、そこには他者との関わりがある。独りでは乗り越えられなかった壁でも、誰かとなら乗り越えることができる。『氷の城壁』における恋愛は、そのような関係の延長線上に位置づけられている。

これはとても羨ましい状況だ。僕は心から、こういう人間関係を欲していた。子どもの頃から手に入れたくて、だけど手に入れられなくて、今も、どこかでそれを欲している。

僕は、独りで壁を乗り越えてきた。途中からは奥さんが一緒とも言えるけれど、少なくとも、青春時代と呼ばれるような期間は、独りで壁を乗り越えてきた。あの頃の僕は、一緒に壁を乗り越えられる人間関係をかなり自覚的に欲していたけれど、結局、手に入れることができなかった。

僕がずっと憧れてきたものを、こんなに解像度が高いかたちで示してくれる、『氷の城壁』は、とても稀有なマンガだと思う。

このマンガを多くの人に読んでもらい、僕が何を欲していて、何を手に入れることができなかったのかを多くの人に共有してほしい。そうしたら、きっと、自覚的に手に入れることができた人は自らの幸せを再確認できるだろうし、無自覚に手に入れた人は自らの幸せに気づくことができるだろうし、自覚的に手に入れられなかった人は僕のように憧憬に浸れるだろうし、無自覚に手に入れられなかった人は新しい世界の観方に気づくことができるだろう。

そして、まだ手に入れてなくて、これからまだチャンスがある人は、目指すものを明確に捉え、それを目指すことができるようになるだろう。僕自身がそうだと信じているし、きっと皆がそうだと信じている。

魅力3 表現形式

僕の勝手な読み込みかもしれないけれど、この『氷の城壁』は、ここまで述べた二つの魅力を最大限引き出すような表現形式を採用していると思う。

まず、「縦読み」であるということは、内面を描くことにとても適していると思う。下にスクロールするという動作が、心の内面に沈んでいく描写にとても合っていて、そして、縦にスクロールする際の微妙な間が、うまく心情の隙間を表現しているように感じられる。

また、フルカラーなウェブマンガならではの色の使い方もいい。『氷の城壁』では実際に頬を赤く着色し、頬を紅潮させる描写が多用されるのだけど、これは恋の記号であると同時に、心が通じ合っているという記号でもある。先程の僕の話に合わせるならば、これは、共同して壁を乗り越えていこうという合図でもある。こんな表情をされたら、僕だってミナトくんと恋に落ちて、一緒に頑張ろう、と思ってしまう。(ミナトくんは、主な登場人物である高校生の男の子です。気持ち悪いですね。すみません。)

以上は、ウェブマンガという表現形式であることによる魅力だけど、作者自身の表現スタイルにも、内面の成長や人とのつながりといったものを表現するうえでの相性の良さがある。

まず、『氷の城壁』ではデフォルメされたマンガ表現が多用されるけれど、この使い方もメリハリという点で素晴らしいと思う。それぞれのコマの読み方をきちんと示し、どのコマにどのように注目すればいいかをストレスなく伝えることに成功している。つまり、シリアスなコマのセリフを追えば、心の内面の描写を漏れなく把握できるということになる。

また、『氷の城壁』は余白が多く、あまり背景の書き込みがない。これは小さなスマホの画面で読むのに適しているということもあるけれど、心の内面を描く上では、外的な世界の書き込みは余計なノイズになりかねないので、とても相性がいい表現スタイルだと思う。

魅力4 匿名性・普遍性

更に、これは作者自身のスタイルなのか意図的なものなのかはわからないけれど、この『氷の城壁』は匿名性が極めて高い作品だと思う。匿名性が高いからこそ、この物語が普遍的なものとなり、読者が登場人物の内面と自らの内面と重ね合わせ、この恋と成長のストーリーを他人ごとではなく自分ごととして受け止めることができるようになる。

匿名性の高さは、例えば、このマンガの舞台がどこかわかりにくい、という点に現れている。特徴的な神社など、モデル地の目印になるところがあって、そこが聖地になってもいいような気がするけれど、『氷の城壁』に登場するのは、どこにでもありそうなチェーン店や公園ばかりだ。それは普遍的な描写であり、あえて言えば、東京の郊外の普遍的な描写である。(違うかもだけど。)その普遍性が読者を読者自身の内面世界に没入させる。

また、その普遍性はストーリーにも現れている。序盤なのでネタバレにはならないと思うけれど、僕が、「え、そんなこと普通ある?」と違和感を持ったのは、序盤、こゆんちゃんが図書館に向かうときにナンパされるシーンくらいだ。あとは、「ちょっと偶然にしてはできすぎ・・・」と思うところがいくつかあるくらいで、徹頭徹尾、どこにでもありそうな話ばかりで組み立てられている。これはつまり、もしかしたら同じことが読者自身の身に起こった世界線があったかもしれない、ということを示しており、読者が自らの物語として読むことを助けてくれる。

そして、その匿名性の最たるものは、『氷の城壁』が、高校を舞台とした高校生の物語であるというところに現れていると思う。このマンガのおおまかな流れは、黒歴史の中学校時代のトラウマを抱えた高校生が、文化祭や夏休みなどの高校生ならではのイベントを過ごしていく、というものだ。このような大まかなプロットは、日本で中学高校時代を過ごした多くの人が容易に理解できるものに違いない。そのような普遍的な物語に乗っかることで、多くの読者が自分自身に当てはめることができる、匿名性が高い内面描写が可能となるのである。

だから、『氷の城壁』が、高校を舞台とした高校生の物語であるということには本質的な意味はないはずだ。僕の感覚では、『氷の城壁』の登場人物はちょっと大人びている。このような内面の動きを経験するのは、高校生ではなく大学生や社会人になってからでも決して遅くはない。いや、もしかしたら、アラフィフの僕でも、まだ十分には追いつけていないかもしれない。だけど、問題はそこにはない。これが高校生の物語であるということは、あくまで、高校時代という普遍的な装置を用いるための方便であって、そこで展開される内面の成長とは、高校時代という普遍的な装置を経由し、世代を超えて万人が自分ごととして理解できるようなものなのである。

だから僕はこうして『氷の城壁』を世代を問わず、多くの人に勧めている。そして、誰かが、このマンガを触媒として、僕と同じようなことを感じてくれて、僕と一緒に壁を乗り越えてくれたらいいな、と思っている。

魅力5 おまけ(ここはネタバレ)

僕は『氷の城壁』の、こゆんちゃんとミナトくんが付き合ってからの最終盤が結構好きだ。

修学旅行で二人の気持ちを確認したあと、残りの話数を見て、あと何が残っているのだろうと思ったけれど、いい方向で裏切られた。このような恋愛成就後のエピソードがあえて描かれているというのは、このマンガのひとつの魅力だろう。

僕が好きなエピソードをいくつか列挙しておきます。

1 クリスマスのデートでのやりとり(111話 クリスマス)

小雪「1人で悩んだり、無言ですれ違うぐらいなら、こうやって言い合いできる仲のほうがいいです」

湊「うん、俺、こゆんちゃんの心、無視したりしないから・・・ちゃんと見て、言葉を聞いて、俺も伝えるから。もしぶつかっても、その度に仲直りしよ。」

これは、ほとんどの結婚している夫婦に刺さるのではないでしょうか。また、結婚してなくても、男女を問わず、ほとんどの人間関係に当てはまる真理のような気がします。僕が哲学カフェで目指しているのもこれだと言いたいです。ほんとに、プーチンさんに聞かせたいです。

そして、この言葉は、ここまで色々なことがあった二人が言う言葉だからこそ、心の深いところに届きます。

僕が『氷の城壁』を周囲に強く推してるのは、このあたりを皆に読んでほしいからでもあります。

2 こゆんちゃんちでお泊りしたときのやりとり(114話 暖)

湊 (小雪と一緒にベッドに倒れ)「これ以上は無理 手が出る・・・」

小雪「・・・したい?」

湊「したい・・・です・・・正直・・・ごめんなさい」

小雪「いいよ・・・正直・・・不安だし・・・怖いけど・・・好きな人なら・・・湊がしたいならいいよ・・・」

湊(ベッドから起きて)「しません。不安で怖いならしません・・・!俺だけしたくても意味ないの! というか 避妊具(ゴム)持ってきてないから・・・出来ません」

 これは、将来こういうことがあるだろう子どもが本来の読者層であることを考えると、一人の大人として、大変素晴らしい描写だと思います。

 「初めてのときにゴムを持っていくかどうか問題」については、世の多くの男性が葛藤しているはずで、こういうふうに一つの正解をきれいに出してくれたということは、ここまで述べてきた『氷の城壁』の魅力とは全く関係なく、とても意義があると思います。

 世の男の子は、このミナトくんと、全く同じことを言えばいいのです。

 そして、このような二人をあえて描写することで、「王子様とお姫様は末永く幸せに暮らしました。」ではない、もっと説得力がある幸せな未来を描き出すことに成功していると思います。

3 こゆんちゃんとお母さんの和解後のやりとり(115話 繋ぐ)

小雪「私が生まれてから・・・お母さん、幸せだった時ってある・・・?」

母「・・・今? 今、すごく幸せ」

小雪「・・・なんか・・・ズルい・・・」

母「・・・けど、本当。小雪が周りの人に恵まれて、幸せに過ごせてるんだったら、私にとっては充分」

・・・(略)・・・

小雪「・・・お母さん、産んでくれてありがとう」

 急にお母さんが登場したのが唐突とも思ったけれど、このエピソードは、こゆんちゃんの成長を描くうえでは、必要不可欠だったんだろうな、と思います。

 きちんと過去に向き合って自己肯定するというプロセスを、とりあえずはここで完遂したということなのでしょう。強くなったね、本当によかったね、という感じ。

 けど決してこれは保護者目線ではなくて、僕はここまで達することができていないなあ、理解のあるお母さんでいいなあ、ミナトくんたちのような周囲の人に恵まれていて羨ましいなあ、という色んな思いが混在しています。

 きっと、こゆんちゃんのお母さんも同じじゃないのかな。大人は子どもが思うほど大人じゃないし、子どもは大人が思うほど子どもじゃないということなのでしょう。

 そんなふうに、高校生に色々と教わった、すばらしいマンガでした。2周目読了!

 俺も頑張るぞ!

対話と組織化

※1700字くらいです。

今朝、ふと、哲学じゃなかったら、僕は組織論を勉強したいかもしれない、と思いついた。
単なる興味だけなら、語学や歴史もいいし、仕事としては、プログラミングも面白そうだ。だけど、今までの自分の仕事で培ったスキルと、自分の興味がうまく合致するものとしては、組織論がいいような気がする。そんなことを思いついた。
僕は、人が集団で働くという現象に興味がある。そこには、未だ発見されていない様々な仮説を立てる余地がありそうだし、そして、僕が思いついた仮説を科学的に明確に検証できるというのは哲学にはない面白さだろう。僕自身、そのような作業にある程度の適性があって、何らかの成果を残せそうな気がする。だから、もし僕が大学院に行ったら、哲学でなければ、組織論を勉強してみたい。分野としては、組織心理学なのかな。わからないけど。

さて、大学院の募集案内をネットで探し始める前に立ち止まって考えてみよう。このような思いと、これまでの僕の生き方、つまり僕がやってきた哲学とは、どのくらいずれているのだろうか。それは両立可能なのだろうか。両立しないならばどちらを選ぶのがよいのだろうか。
普通に考えるならば、哲学と組織論は大きく異なっている。例えば、科学に対する姿勢には大きな違いがあるだろう。哲学の面白さは、科学には収まりきらないところにあるけれど、組織論の面白さは、科学的に進められるところにこそある。哲学とは古くからある王道の学問だけど、組織論は新しくて、学際的で、ビジネスパーソン向けのいわゆる実学だ。
だけど、考えてみると、少なくとも僕の場合、両者は結構似ているようにも思える。僕が考えている哲学はブログのタイトルにあるとおり「対話の哲学」である。この対話を、常識的に人間と人間の間の対話と捉えるならば、集団としての人間の関係性を論じるもの(だろう)組織論とかなり接近する。対話とは、いわば、対話の参加者を組織化することであるとさえ言える。だから、哲学対話の世界では、「探究の共同体」などと言われることもある。対話とは、一人ひとりの対話の参加者を、共同体というひとつのものに組織化し、統合する働きであるとも言えなくもない。それならば対話とは組織化であり、組織とは対話である。組織論とは対話論であり、僕の「対話の哲学」とは、「組織の哲学」なのである、ということになる。このように考えると、僕の組織論への興味と、僕の哲学への興味はかなり重なってくる。
これで終わってもいいけれど、実は、僕は、「対話の哲学」について、あまりそちらの方向では考えていない。僕は、対話とは、単なる他者との対話であるだけでなく、自己との対話でもあり、自問自答としての対話でもあると考えている。更には、自己との対話こそがベースにあり、他者との対話は派生的なものであるとすら考えている。そのような自己への哲学的な興味と、他者との関係性としての組織化への興味とは両立しないように思える。
ただし、あえて組織という言葉を用いて僕の哲学を表現するならば、僕は、僕という主体が組織化され形成されることに哲学的な興味がある、とは言えるだろう。ここでの僕とは、永井均流に言うならば独在的な〈私〉であり、独在的な〈今〉である。「僕は今、ここで、私として存在する。」このように、僕であれ、〈私〉であれ、〈今〉であれ、何らか確定的に指示されるためには、何らかの組織化が必要であると僕は考える。少なくとも通常の意味では言葉にできない何か(例えば、原体験とも言われるもの)が、僕であれ、〈私〉であれ、〈今〉であれ、何らかかたちづくられるためには、組織化が必要なのである。僕はそのような意味での組織化には興味がある、とは言える。
この話は、通常の言葉の用法としての「組織(化)」や「対話」とはかけ離れているけれど、かけ離れたところで何らかのかたちでつながっているような気もする。このつながりと、僕の組織論への興味がつながっているかどうかは更に怪しいけれど、まったく無関係ではないような気もする。

以上のようなことは哲学的に考えることはできるし、少なくとも哲学よりは組織論のほうが儲かりそうだから、今朝、布団の中でふと抱いた組織論への興味は無駄ではないかもしれない。そんなことを思い、こんな文章を書いてみたものです。