対話と組織化

※1700字くらいです。

今朝、ふと、哲学じゃなかったら、僕は組織論を勉強したいかもしれない、と思いついた。
単なる興味だけなら、語学や歴史もいいし、仕事としては、プログラミングも面白そうだ。だけど、今までの自分の仕事で培ったスキルと、自分の興味がうまく合致するものとしては、組織論がいいような気がする。そんなことを思いついた。
僕は、人が集団で働くという現象に興味がある。そこには、未だ発見されていない様々な仮説を立てる余地がありそうだし、そして、僕が思いついた仮説を科学的に明確に検証できるというのは哲学にはない面白さだろう。僕自身、そのような作業にある程度の適性があって、何らかの成果を残せそうな気がする。だから、もし僕が大学院に行ったら、哲学でなければ、組織論を勉強してみたい。分野としては、組織心理学なのかな。わからないけど。

さて、大学院の募集案内をネットで探し始める前に立ち止まって考えてみよう。このような思いと、これまでの僕の生き方、つまり僕がやってきた哲学とは、どのくらいずれているのだろうか。それは両立可能なのだろうか。両立しないならばどちらを選ぶのがよいのだろうか。
普通に考えるならば、哲学と組織論は大きく異なっている。例えば、科学に対する姿勢には大きな違いがあるだろう。哲学の面白さは、科学には収まりきらないところにあるけれど、組織論の面白さは、科学的に進められるところにこそある。哲学とは古くからある王道の学問だけど、組織論は新しくて、学際的で、ビジネスパーソン向けのいわゆる実学だ。
だけど、考えてみると、少なくとも僕の場合、両者は結構似ているようにも思える。僕が考えている哲学はブログのタイトルにあるとおり「対話の哲学」である。この対話を、常識的に人間と人間の間の対話と捉えるならば、集団としての人間の関係性を論じるもの(だろう)組織論とかなり接近する。対話とは、いわば、対話の参加者を組織化することであるとさえ言える。だから、哲学対話の世界では、「探究の共同体」などと言われることもある。対話とは、一人ひとりの対話の参加者を、共同体というひとつのものに組織化し、統合する働きであるとも言えなくもない。それならば対話とは組織化であり、組織とは対話である。組織論とは対話論であり、僕の「対話の哲学」とは、「組織の哲学」なのである、ということになる。このように考えると、僕の組織論への興味と、僕の哲学への興味はかなり重なってくる。
これで終わってもいいけれど、実は、僕は、「対話の哲学」について、あまりそちらの方向では考えていない。僕は、対話とは、単なる他者との対話であるだけでなく、自己との対話でもあり、自問自答としての対話でもあると考えている。更には、自己との対話こそがベースにあり、他者との対話は派生的なものであるとすら考えている。そのような自己への哲学的な興味と、他者との関係性としての組織化への興味とは両立しないように思える。
ただし、あえて組織という言葉を用いて僕の哲学を表現するならば、僕は、僕という主体が組織化され形成されることに哲学的な興味がある、とは言えるだろう。ここでの僕とは、永井均流に言うならば独在的な〈私〉であり、独在的な〈今〉である。「僕は今、ここで、私として存在する。」このように、僕であれ、〈私〉であれ、〈今〉であれ、何らか確定的に指示されるためには、何らかの組織化が必要であると僕は考える。少なくとも通常の意味では言葉にできない何か(例えば、原体験とも言われるもの)が、僕であれ、〈私〉であれ、〈今〉であれ、何らかかたちづくられるためには、組織化が必要なのである。僕はそのような意味での組織化には興味がある、とは言える。
この話は、通常の言葉の用法としての「組織(化)」や「対話」とはかけ離れているけれど、かけ離れたところで何らかのかたちでつながっているような気もする。このつながりと、僕の組織論への興味がつながっているかどうかは更に怪しいけれど、まったく無関係ではないような気もする。

以上のようなことは哲学的に考えることはできるし、少なくとも哲学よりは組織論のほうが儲かりそうだから、今朝、布団の中でふと抱いた組織論への興味は無駄ではないかもしれない。そんなことを思い、こんな文章を書いてみたものです。

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