※3000字ちょっとです
僕が哲学という名前をつけてやっていることは、この世界から「信じる」ことを引き剥がそうとする作業なのかもしれない。
僕は「信じる」ことに否定的である。なぜなら、人は、「信じる」ことにより、間違いに気づけなくなり、正しさから遠ざかってしまうからだ。何かを信じる人は、それが正しいから信じるのではなく、まず信じるからそれが正しくなるのである。信仰は無条件であり、まず正しさを確認してから信じるのだとしたら、それは「信じる」ことにはならない。だから、信じることと、正しいこととは無関係であり、信じることは、偽りの正しさを生み出す。
だから僕は信じずに疑う。僕は、疑いにより信仰を引き剥がし、信仰の手前にあるはずの真偽を見極めたい。僕にとって懐疑とはニヒリスティックな態度ではなく、正しさに向かうための、唯一の道なのである。
けれど、僕は常に疑っている訳ではない。日常においては、僕は信じてばかりいる。ご飯を食べているときは、たいてい、ご飯の存在を信じ、食事を味わっている。仕事をしているときも、職場が存在し、同僚が存在することを疑わず、信じている。これは世界に対する信頼と言ってもいいだろう。僕が世界を信頼せず、疑っているのは、哲学をしている、ごく僅かな瞬間だけである。
僕は世界を信頼しているからこそ、その世界に没入することができる。僕は世界を信頼し、食事に没入し、仕事に没入している。仕事をする気が起きず、気が散っているときでも、僕は、職場に座って同僚がいるという仕事空間に没入している。
没入することこそが信じることだと言ってもいいかもしれない。少なくとも、信じることと没入することは深く関係している。僕が映画に没入しているとき、僕は映画の内容を信じている。荒唐無稽なフィクションであっても、それが現実の出来事だと信じているからこそ、その映画を心から楽しむことができる。これが没入である。だから、映画館でトイレに行きたくなったり、隣の人のスマホの光が気になったりすると、急に映画がつくりものに見えてしまい、心から楽しめなくなる。
さて、突然だけど、僕は、没入は「1」と関係していて、懐疑は「2」と関係していると考えている。と言ってもなんのことだかわからないだろうから、まず、「1」と「2」について説明しよう。
僕は、哲学において「1」を目指してきた。僕が「1」と名付けて求めてきたこととは、多少不正確な表現になるけれど、ただひとつの構造、ただひとつの原理にもとづいて世界を説明し尽くす、というような意味合いのことである。
だが、「1」というのはなかなか難しくて、どうしても「2」になってしまう。心と身体、物質と魂、時間と空間、神と人間、などなど。なお、「2」とは「多」とも言いかえてもよくて、真と善と美、一人称と二人称と三人称なんていうものも、僕にとっては「2」に含まれる。
このように、世界を説明するためには、どうしても複数の道具が必要になってしまうけれど、それをなんとか一つに統合したい、それが僕の哲学における野心である。
ちなみに、ここで比喩的に用いてきた世界という言葉も、「2」からは免れることはできない。例えば、世界と私といった「2」が生じてしまうことからも、それは明らかである。
なぜ、僕がムキになって「2」を否定し、「1」を求めるのかと言えば、「2」とは考察が足りないことの証左だからである。例えば、この世界を心と身体で捉えきることができたとする。そうすると、新たな疑問が生じる。例えば「心と身体とはどのような関係にあるのだろうか。その関係性を成立させるような共通の基盤とはなんだろうか。」といった疑問である。その疑問に答えるためには、心でも身体でもない第三の何かを提示しなければならない。そして、第三の何かを提示したならば、さらにそれら三者の関係性を成立させるための何かを提示しなければならない。当然、三者のつぎは四者となり、この作業には終わりがない。つまり、「2」とは「多」の入り口であり、無限後退の入り口なのである。
だから、なんとしてでも、僕の哲学において、僕は「1」に到達しなければならない。「1」で完結し、無限後退を起動しないことでこそ、僕はすべてを捉えきることができるからである。
今まで、これはとても困難なことだと思っていたけれど、考えてみれば、哲学を離れ、日常のことを思うならば、実は、いつも「1」に到達している。僕は、食事だけに没入し、僕は、仕事だけに没入している。そこに、他の何かが起動する余地はない。そこにあるのは「1」である。
それなのに、僕が哲学を始めたとたん、僕の手から「1」はこぼれ落ちる。なぜかといえば、僕は哲学において、没入を拒否し、懐疑しているからである。あえて言えば、哲学とは、懐疑し、「1」を拒否することそのもののことなのである。
更に話を進めるならば、ここでの哲学とは、思考のことだと言ってもいい。何かを思考するためには、どうしても、思考の中身と思考そのものという二分法から逃れることはできない。これは認識論と意味論の「2」である。
かなり説明不足のまま駆け足で話を進めてしまったが、少なくとも、哲学することと「1」とは相性が悪い。日常においては容易に手に入っていた「1」が、それを意識的に思考し始めたとたん、「1」は分裂し、「2」になってしまうのである。
まとめるならば、ここには、没入・信仰・信頼・日常の「1」と、懐疑・哲学・思考の「2」との対立があるのである。
きっとそれを意識的に調停しようとするのが瞑想なのだろう。例えば、暗い部屋に置かれたろうそくの炎にのみ意識を集中し、そこに没入することによって、「1」を回復することができる、というような道筋である。
ただし、これは瞑想のうちでもサマタ瞑想と呼ばれるものであって、瞑想には、もうひとつ、ヴィパッサナー瞑想というのもある。これは、没入するのではなく、没入を手放そうとする瞑想である。もし、ヴィパッサナー瞑想によって「1」に至ることができるならば、それは、没入により到達できる「1」ではなく、全く別のやり方で到達できる「1」があるということを意味する。それは、没入からも、信仰からも、信頼からも、日常からも、懐疑からも、哲学からも、思考からも、すべてから解き放たれた「1」である。それはきっと、「1」からも解き放たれた「1」なのだろう。
僕は、ヴィパッサナー瞑想でやっていることを哲学でやってみたい。それはかなり無理筋だとわかっているけれど、そこに肉薄している哲学者たちはいる。どの哲学者を最右翼とみなすかは、その人の哲学的な嗜好によるのだろうけれど、僕ならば、入不二基義の名前を挙げる。
彼の「現実性」概念は、かなり「1」に近い。僕が目指す「1」とはヴィパッサナー瞑想で喩えることができるとおり、無色透明の全一である。入不二が提示する現実性の力は、最もそこに近いところにある。
ただ、現時点では、入不二の「現実性」は「1」に肉薄しているが、「1」そのものではないと考えている。なぜなら、入不二の哲学においては、「現実性」ともうひとつ「潜在性」が重要な役割を果たしているからである。入不二の現実論とは、力としての現実性と、マテリアルとしての潜在性の二元論なのである。
当然、入不二に頼るのではなく、僕も、僕自身の力で「1」への道を切り開きたい。没入・信仰・信頼・日常の「1」と、懐疑・哲学・思考の「2」との対立構造が明らかになった今、その道のりの困難さもより明らかになったけれど、それでも僕は前に進みたい。
目指すところが、没入・信仰・信頼・日常の「1」なのか、それとも全く別な「1」(「1」ではなくて「0」と呼ぶべきもの)なのかも、今のところよくわからないけれど、そのあたりから考え始めてみたい。