※この文章は15000字以上あります。
『〈私〉をめぐる「対決」』(以下、『対決』)という、森岡正博と永井均の本を読んだ。惜しい本だなあ、というのが正直な感想だ。随所に思わず唸ってしまうような話が散りばめられているのだが、残念ながら、その語り方にはいくつか問題があって、そのせいで二人の哲学者の「対決」がどのように成立しているかもわかりにくくなっている。
そこで僕は、『対決』における二人の問題点を指摘し、その問題点が解消された先を勝手に想像することで、二人の対決がいかに成立し、そこにどのような意義があるのかを明らかにすることを目指してみたい。
(これは、『対決』を読んでいることを前提とした文章です。)
1 森岡の問題
(1) 「貫通型独在性」のわからなさ
森岡の議論のなかで、僕が最もわからず困ってしまったのは、第5章での「貫通型独在性」に関する議論である。
森岡のアイディアは、森岡が書いた『まんが 哲学入門』がもとになっていて、その最重要箇所となる漫画の一コマは、本書のp.150にも載っている。漫画の登場人物である「先生」(先生としか呼ばれていなくて、名前はなかったと思う。)が読者を指差しているイラストである。このイラストは、先生の指差しにより独在性が指し示されるという場面であり、僕はそれを理解できるし、とてもおもしろいアイディアだと思う。(僕はそのことについて文章も書いている。 https://dialogue.135.jp/2021/11/04/morioka/)
だが、この指差しが、貫通するレーザー光線のようなものに置き換えられ、貫通型独在性と表現されたあたりから、僕の理解が追いつかなくなる。(森岡は「レーザー光線」とは言っていないけれど、そのように表現しても問題はないと思う。)
森岡によれば、「この独在的貫通は指差し線の動きの背後と手前の時空に果てしなく延びていると考えられる。」とされ、「二人称確定指示が貫通型独在性なのではなく、二人称確定指示によって貫かれることで気づきに至ることのできる独在性のあり方が、貫通型独在性なのである。」とされる。(p.287)
ここで僕は困ってしまったのだが、普通に読めば、指差し線とは、前後に無限に続く光線のようなものであり、このイラストで言えば、先生と読者をともに貫くはずである。だが、森岡はそうではないと言う。この光線は前方にいる読者のみを貫き、読者を貫通型独在者として指示し、一方で、後方の先生はいないものとされる。これではイラストで描いたことと文章で述べていることが乖離してしまう。イラストは、あくまで先生から読者への指差しであったのに、貫通型独在性においては、先生はどこにもいない。そこにあるのは指差し線と読者だけである。
もしかしたら、『まんが 哲学入門』のイラストを導入として用いつつも、現在の森岡の考えは違うのかもしれない。近くに警察官がいなくても、無人の「止まれ」という看板があれば従うように、先生が指差すのではなく、ただ無人の矢印が宙に浮かんでいるような状況を想像したほうがいいのかもしれない。指差しとは、より正確に述べるならば、非人称的な矢印のことであり、人間の指ではなくて非人間的な矢印に貫かれる状況を想像したほうがいいのかもしれない。
だが、森岡自身が「二人称確定指示」という言葉を用いていることを踏まえると、このアイディアは却下すべきだろう。あくまで森岡は、指し示す主体としての一人称と、指し示される客体としての二人称という言葉遣いをしている。それならば、ここには、先生と読者という二人の登場人物がいなければならないはずである。
また、森岡の言葉遣いを離れたとしても、森岡のアイディアは、二人称性から免れることはできないように思える。先ほど僕は、近くに警察官がいない無人の「止まれ」の看板という例を出したけれど、少なくとも僕の実感としては、「止まれ」の看板に従うのは、そこに、きちんと一時停止してほしいと望む人間の存在を想像するからであり、警察官ではないにしても、何らかの他者を思い浮かべずにはいられないからである。そこには、例えば、うっかり僕が見通しの悪い交差点で止まらなかったら車にはねられてしまう危険がある下校中の小学生のような他者がいるはずなのである。
※森岡は、『独在今在此在的存在者』で、漫画により、その登場人物が指差す姿を描くことで、人間の指差しとは異なり、指差した「先生」こそが独在的存在者であるというような誤解は生じないとしている。だが、僕には、どうしてそんな区別ができるのかわからない。漫画を理解し、楽しむためには、漫画の登場人物をあたかも実際に存在する人間のように理解する必要があり、それが、森岡自身が述べているとおり、漫画にはストーリーを通じて引き込む力がある、ということである。ストーリーに引き込まれた読者には、漫画の登場人物と実際の人間とを分けることはできないはずである。
以上のように考えるならば、光線のようなものが読者だけを指し示し、そこから独在性が生じるという森岡の主張は受け入れることはできない。少なくともそこには、光線と、先生と、読者という三者がなければならない。つまり森岡が描く構造は、独在ではなく「三在」である。
※森岡は、「独在性は貫通していく」(p.142)という言葉を別の文脈で用いているが、ここでの貫通とは、私の唯一の原点性は、その原点性を否定するような想像にまで侵食していく、という独在性がどこまでも侵食する力を指している。よって、先生ではなく読者だけを貫通する、というような選択的な貫通の力とは相性が悪いように思われる。
※どうして森岡がこのような考え方をとるのか、『独在今在此在的存在者』を読んで少しわかった気がする。森岡は、公共的世界からどのようにして独在的存在者が生まれるのかを解明しようとしているのではないか。だが永井は公共的世界と独在性は全く別の問題だと考えていると思われる。また僕の場合は、公共的世界などという前置きなしに独在性そのものを捉えたいと考えており、そのあたりに違いがあるように思える。(森岡は、自明性を理由に、公共的世界を前提とすることを擁護するけれど、そのような心理的、偶然的事実を出発点にすることの哲学的意味が僕にはわからない。僕のように公共的世界を無視するか、せめて永井のように、順番を逆にして、独在性を出発地点として公共的世界の自明性を論証することこそが、哲学のあるべき道筋であるように思う。)
(2) 貫通する光線(対話)の独在性
それでも、森岡のアイディアに何らかの意義を見出そうとするならば、僕ならば、この光線のようなものこそが唯一の存在という意味で、独在していると言いたくなる。なぜなら、森岡の議論を踏まえるならば、指し示される読者(や先生)より前に、まず光線があるはずだからである。
まず光線が独在し、そのうえで、読者や先生は、その光線に貫かれることにより、反射的に、二次的に、独在性(のようなもの)を獲得する。そのように考えれば、森岡の議論はもう少し見通しがよくなる。
だが、そこには問題がある。それでは、この光線のようなものとは、そもそも何なのだろうか、という問題である。ここにも『対決』における森岡の議論の問題がある。森岡は、この光線が何なのか、全く説明してくれないのである。
それでも、僕がこのような文章を書いているのは、僕は、森岡が言うはずだったのに言わなかったことを掴み取ったと感じたからである。
僕にとって森岡は不思議な哲学者である。実は、僕は、森岡の議論の内容自体にはあまり惹かれていないのだけど、森岡の姿勢には妙なシンパシーを感じている。そんな僕だからこそ気づいたことがある。そう感じたから、僕はこの文章を書いている。
僕は、森岡が書いてはいないけれど、勝手に「対話」という言葉を思い浮かべた。森岡がこのレーザー光線のようなものに込めようとしたのは「対話」なのではないだろうか。
僕が森岡にシンパシーを感じるのは、きっと、僕と森岡には、「対話」の重視という共通点があるからである。僕にとっては、このブログのタイトルが「対話の哲学」であるとおり、対話はキーワードである。そして、きっと森岡も同様である。『対決』でも、森岡が対話を重視していることが伺える箇所がある。まず自らのテーマが「対話とは何か。」であると述べる箇所がある。(p.74)また、より具体的には、対話という言葉は用いていないが、「私がこの世界に生まれ落ちたときにはすでに人々が二人称で指したり指されたりするコミュニケーションを行っており、私は二人称の網の中へと生まれ落ちる。」(p.296)と述べている箇所がある。これはまさに対話的な世界の描写だろう。
僕の理解では、この世界に生まれたときの初発の問題意識こそが森岡の原点であり、それを表現したものが貫通する光線なのではないだろうか。森岡の哲学においては、まず二人称のコミュニケーションの網があるのである。森岡はそれを対話と呼んでおり、この対話こそが、貫通する光線であり、これこそが森岡にとっての初発の独在性なのではないだろうか。
このように考えるならば、森岡の独在性の議論は俄然面白くなってくる。正直、『対決』の中では森岡は永井に押されっぱなし、という印象があるけれど、「対話」を読み込んだ森岡の独在性ならば、永井の独在性といい勝負ができるだろう。〈私〉の一人称的な独在性vs〈対話〉の二人称的な独在性の戦いである。これなら観戦の価値がある戦いになると思う。
※ただし、森岡の対話は、僕が考える対話とでは、少なくともアプローチの仕方が全く異なっている。僕は、森岡と、初発の問題意識を共有していない。だから僕は森岡に対して感じているのはシンパシーに留まっている。
(3) 敬意の欠如
ここには、もうひとつの森岡の問題が関係している。森岡は、永井が指摘しているとおり、21世紀の現在の永井ではなく、20世紀まで遡り永井の古い議論を材料に用いているという問題がある。(p.217、238)もし、20世紀の永井は倫理学で、21世紀の永井は存在論、というように時代により違う分野の議論を行っているならば、あえて20世紀の永井の議論を持ち出すことには意味があるだろう。だが、永井は常に彼独自の独在論をやっていて、いわば一点集中で議論を深めるタイプの哲学者だから、20世紀の永井の議論は、21世紀の永井の議論に完全に上書きされており、そこに独自の意義はない。それなのに、森岡があえて20世紀の永井の議論を持ち出すというのは、読者に遠回りを強いているように思える。実際、僕はそのように感じた。これは、『対決』における森岡の議論の大きな問題だろう。
だが、森岡は、永井の指摘に従い、20世紀の永井の議論を無視することはできないはずだ。なぜなら、森岡の対決の相手は、21世紀の今の永井ではなく、20世紀の永井なのだから。
森岡にとっての永井とは、きっと、『〈魂〉に対する態度』までの永井なのである。読んでいないので推測だけど、21世紀の永井的な言葉遣いをするならば、森岡はきっと、〈私〉と《私》が十分に分化していない〈魂〉という捉え方に魅力を感じているのである。
その証拠に、森岡が「魂」と同一視して重視している「他者」(p.129)について、永井は、「東京太郎が〈私〉である」というあり方に対応していると指摘しており(pp.232-233)、これは、つまり、森岡の「魂」の議論は、いわば《私》の次元に留まっていることを示している。
また、森岡は、あえて20世紀の永井の「他の〈私〉は・・・ただ非主題的にのみかいま見られる。」(p.129)という言葉を引用している。しかし、21世紀の現在の永井ならば、それをかいま見るのではなく、正面から独在性として論じることを何年も追求してきて、それに(少なくとも一定程度は)成功した、と答えるだろう。
さらに、森岡は、20世紀の永井の態度を、矛盾に満ちた予想の成立が先行していることに対する驚きとおののきに満ちた態度とも表現しており、そのことを重視している。(p.132)だが、永井は、驚き立ち尽くすのではなく、その矛盾を解きほぐすことを選び、21世紀となった現在、永井は、それを多少なりとも達成したのである。
つまり森岡は、21世紀の永井が達成したことをあえて無視し、自分の議論の道具として20世紀の永井を用いている。それは、森岡の〈魂〉の議論または生命の哲学において必然であったとはいえ、森岡の永井に対する敬意の欠如であり、そして、読者に、そのことを十分に説明していないという点で、読者に対する敬意の欠如であるとも言えると思う。
※ 実は、僕は森岡のことを、僕の哲学とは遠いように見えるのに、僕が好きな永井均に妙にこだわりがある人だなあ、と思っていた。僕は自分の哲学が永井の哲学に近いと思っているし、森岡もきっとそうだ。それなのに、僕の哲学と森岡の哲学はぜんぜん違う。それが不思議だったのだ。
『対決』を読み、その理由がわかった。僕と森岡は、永井の異なる側面に魅力を感じていたのだ。簡単に言えば、森岡は20世紀の永井の議論が好きで、僕は、21世紀になってからの永井の議論に魅力を感じている。実は僕は、21世紀からの永井の本しか読んだことがないから気づかなかったけれど、そういうズレがあるということなのだ。
(4)累進構造
何が20世紀の永井と、21世紀の永井とを分けるのかといえば、永井によれば、累進構造の有無である。(累進構造の図はp.253)
『対決』における永井の説明によれば、累進構造の「現実の最上段」を指すのが〈 〉のはたらきで、最上段性という形式(あるいは最上段という概念)を意味するのが《 》のはたらきである(p.276)、とされる。森岡が、矛盾、かいま見る、驚きなどと文学的な言葉を使ってしか表現できないと考えた〈 〉と《 》が混在したような「魂」が、このように明確に〈 〉と《 》に分けて捉えられてしまっているのである。
森岡はその永井の成果を拒否し、矛盾に満ちた〈 〉と《 》が混在した魂の領域に留まることで、別の道を進もうとしている。
その道とは、つまり貫通型独在性の道であり、僕の解釈によれば、それは、〈対話〉の独在性の道である。
このことについての僕の考えの詳細は後ほど述べるが、少なくとも言えることは、貫通するレーザー光線であれ、対話であれ、そこには、「動き」や「力」と表現したくなるものがある。その「動き」や「力」の源となるものとして、森岡は、〈 〉と《 》が混在した混沌とした独在を想定しているはずである。それはきっと、〈魂〉と呼ばれるものであり、そして森岡の言葉によるならば生命とも呼ばれるものなのだろう。
だから、その魂や生命を、永井の累進構造により腑分けし、「現実の最上段」としての〈 〉と最上段性という形式としての《 》というかたちで明確に切り分けて描き出すことは、その力の源を奪うことにつながり、森岡にとっては都合が悪い話であることになる。
(5) 思想と哲学
だから、永井の立場からするならば、森岡の議論は、更なる高階の〈私〉を拒否し、累進構造の起動を拒否し、固定的に最上段の〈私〉を〈私〉と捉えることができる、という考えに過ぎず、永井の近年の成果を全く無視したものであり、いわば、劣化版の《私》の独在論にしか見えないだろう。そして確かにそのとおりなのである。
さらに、永井は、森岡がそのような議論を行う動機まで看破している。永井は言う。
おそらくは森岡は独在性という不思議な現象が存在していること自体は捉えているのではあろうが、事実としてそういう現象が存在しているのだと単純に受け入れており、なぜかその不思議さということにあまり心を動かされておらず、したがってそれが存在している(といえる)ことの内にある捉えがたい種類の哲学的な謎にほとんど感度を持っていないように見える。彼の記述においては~まるで独在性という現象が本当(リアリー)にただ存在していて、それをこちらが自在に利用できるかのようなのである。(p.261)
この永井の言葉に従うならば、森岡は、独在性を確たるものとして前提に置いたうえで、そこから、どのような世界が描かれるべきなのか、ということを考えていることになる。
そして、哲学とは、謎に驚き、謎について問い続けることなのだとしたら、森岡がやっていることは哲学ではないことになる。
僕は謎を問う活動としての「哲学」と、誰かに見解を表明して世界に働きかけようとする活動としての「思想」を明確に区分している。僕の言葉を使うなら、森岡は、独在性について哲学をしているのではなく、独在性を出発点として思想を組み立てようとしているのである。その証拠に、森岡は「人生の意味を担う主体は独在的存在者である」という意味での「独在主義」(p.156)という言葉を使っている。この「主義」という言葉遣いが問題である。これは、独在性という問題領域があることに着目する、という意味での哲学上の学説の区分としての「主義」ではなく、独在的存在者という主体を前提として、それを「自在に利用」して何らかの主義主張をする思想を組み立てようとする意図を示している。そして、独在的存在者とは森岡の言葉では生命のことだとするならば、森岡が構想する「生命の哲学」とは、要は生命に着目した思想であり、哲学という名の思想なのである。
森岡にとっての独在性とは、独在的存在者という生命の思想の確固たる担い手を描き出すための手段であり、前提に過ぎない。永井にとっては独在性を明確なかたちで描き出すことが究極の哲学上の目的であるのに対し、森岡は、すでに明確である独在性を前提として思想を始めている。この違いは大きい。
そして、独在性を明確な前提とした生命の思想により他者を説得し、世界に働きかけるためには、独在性とは、他者と共有できない〈私〉ではなく、他者と共有し、議論の道具として用いることができる《私》でなければならない。その点でも森岡は、永井の累進構造を拒否しなければならないのである。
永井の立場から捉えるならば、森岡は、独在性を前提として自らの生命の思想を始めるために、独在性に限界を設けてしまったのである。
2 永井の問題
(1) 今私・私今
だが、議論のスタート地点として確たる前提を置くために、独在性に限界を設けるという点では、永井も同様のことをやっているようにも思う。
永井は、『対決』において会場からの質問に答えるかたちで次のように述べる。
〈私〉と〈今〉が結合したものこそが最終的なアクチュアリティで、それしかないと言ってしまうのが一番すっきりしますよね。あえて分けるのは何か思考って言うか、哲学の議論のためにあえて分けてやっているわけで~〈私〉と〈今〉を最初から分けているというのはある意味不自然ですよね。~最終的には〈今私〉、〈私今〉になると思いますよ。(p.107)
僕はそのとおりだと思っていて、『対決』でこのような発言があったことは重要なことだと思う。
ではなぜ、永井が〈今私〉、〈私今〉(以下、まとめて〈今私〉とします。)ではなく、〈私〉や〈今〉について論じるのかといえば、それは根拠のない前提である。あえて言うならば、うまく思考して議論するための方便である。
永井はこの〈私〉の方便性について自覚的であるように見えるが、時折、その自覚を失い、永井の独在論が、〈私〉の独在性を前提とした思想となってしまっているように見えるときがある。例えば、森岡に対して、ピン止めできる剥き出しの〈私〉という素朴すぎる考えをとっていると批判する場面である。
永井は、他の時点の〈私〉との連続性を、記憶や身体的連続性といったものを使って確保できるかを様々なかたちで検討している。その立場からすれば、そのような議論を飛ばして、いきなりピン止めするように〈私〉の連続性を確保してしまう森岡の議論は粗雑すぎるということになるのだろう。
だが、僕のように、〈私〉や〈今〉よりも〈今私〉の問題にとらわれている者からすれば、いきなり、〈私〉の連続性のようなものを前提とし、それをいかに確保するかという議論を始めてしまうという点で、永井も森岡も五十歩百歩のように見えてしまう。
あえて言うならば、方便としてであっても、〈今私〉ではなく、〈私〉という捉え方を選んだ時点で、〈私〉の時間的連続性も当然に受け入れたことになるのだから、森岡のように、いきなりピン止めするように〈私〉の連続性を確保することは当然であるとも言える。つまり、方便として、時間的にピン止めされる〈私〉を選択したということである。その意味では、永井よりも森岡のほうが、よほど素直だとも言えるだろう。
それなのに、ピン止めを批判し、記憶や身体的連続性といった議論の優位性を主張することは、方便として、〈今私〉ではなくて〈私〉を選んだことを忘れてしまったとしか思えない。そんなとき僕には、永井の独在論が、哲学ではなく、思想になってしまっているように見える。永井は自らのこだわりから、あえて人称としての〈私〉に踏みとどまるという前提を設けるだけでなく、その前提から、記憶や身体的連続性の議論が重要であるという、主張まで導いてしまっている。この主張とは、僕の言葉遣いによるならば、思想である。
森岡が、ピン止めされる〈私〉というものを持ち出すことによって、永井のなかに含まれる思想性を明確化できたと読むならば、これも、『対決』のひとつの意義であると言えるだろう。
※永井は「もし、〈私〉が持続しうるとすれば、何に拠ってであるか、は議論すべく課せられた最重要の課題である。」(p.240)とも述べており、「持続しうるとすれば」という言葉遣いから、僕が指摘したような問題には十分に意識的であるように思える。だが、時々、永井は「〈私〉が持続しているのは、何に拠ってであるか。」を議論しているように見えてしまうのだ。
(2) 独在性がない世界
ところで僕は『対決』を読み驚いたことがある。ラフな言い方をするならば、僕はこれまで、独在性とは世界の根本的な性質であり、独在性なしの世界などあり得ないと思っていた。確かに永井は独在性について読者に伝え、理解してもらうために、独在性がない世界と独在性がある世界とを比較するような説明もするけれど、それは方便だと思っていた。しかし、どうも、永井は本気で独在性は操作でき、この世界に付け加えたり、取り除いたりできると考えているらしいのである。
例えば永井は、様々な記号のなかに私を示す白抜きの記号がある図と、それがない図を並べて載せ(p.215)、私を示す記号がない図を理解できると言う。きっと、私を示す記号がない図とは、僕が生まれる前か、僕が死んでからの世界のことなのだろう。鎌倉時代に僕はいなかったけれど、多くの人間がいたし、また、数百年後の未来に僕はいないけれど、アンドロイドと戦ったり、宇宙で海賊をやっている多くの人間がいる、ということなのだろう。
ゾンビのように〈私〉がない登場人物たちが繰り広げる何万年もの人間ドラマのうち、ある数十年の期間だけ、奇跡のように〈私〉の独在性が付与された唯一の登場人物がいる。そのようにして、独在性とは、独在性のないゾンビに対して付け加えたり、取り除いたりできる、操作可能な性質のことなのである。
永井は、〈私〉は、直接的・実質的に理解することも、形式的・概念的に理解することもできる(pp.272-273)とも述べる。
これまで僕は、形式的・概念的な理解とはいわば劣った理解で、本当の独在性とは、直接的・実質的な理解こそが、真の独在性を捉えうる理解であり、永井もそのように考えているのだろうだと思っていた。僕の言葉を用いるならば、外在的な理解ではなく、内在的な理解こそが、真の独在性に届く理解の仕方だと思っていたのである。きっとこの、内在的な理解とは、森岡が現実性アプローチ(p.158)と呼んでいるものと同じことだろう。
だが、永井は本気で、二つの捉え方は対等だと考えており、どうも、形式的、概念的で操作可能な独在性という捉え方が成立すると考えているらしい。永井は、僕の内在的理解も、森岡の現実性アプローチもそれ自体に優位性はないと考えているのである。
これが、僕が『対決』から読み取った最重要事項である。
しかし、永井の考えは端的に間違えていると思う。なぜなら、鎌倉時代や数百年後の未来をいくら思い浮かべても、独在性がない世界など思い浮かべることはできないからだ。確かに鎌倉時代には〈私〉はいない。だけど、鎌倉時代を思い浮かべる主体としての〈私〉はここにいる。永井の議論を成立させるためには、過去としての鎌倉時代と、その過去を思い浮かべる現在とは完全に切り離すことができるという主張が成立していないければならない。だがこれは独在論とは別の、もうひとつの独立した哲学的な主張であり、その主張の正しさを検証せずに勝手に用いることは不適切である。だが、永井は、現在と過去・未来は分断できるという新たな主張を密輸入することにより、独在性のない世界を描き出してしまっている。
このことは『対決』における永井の議論の大きな問題だと思う。そして、現実性アプローチといった言葉を用いてその問題を指摘した森岡は正しいと思う。
だが、後述する動性の問題を考えるならば、永井がそのように考える動機はわかるような気がするような気もするのだけど。
3 動性
さて、ここまで『対決』における二人の議論の問題点を指摘することで、二人の議論のあり方を整理したが、ここからは、永井の一人称的な独在性 vs 森岡の二人称的な独在性 の対決を始めることとしたい。
だが、多くの人はすでに勝負があったと考えるのではないだろうか。なぜなら、「独在性」なのだから、存在は一つであり、そこには当然、一人称性が読み込まれるべきだと考えるのが自然だからである。だからあえて二人称性と対決する必要などない。そう考えるのではないだろうか。確かに、独在性が二人称的という表現からして、明らかな矛盾があり、既に勝負は決まっているように思える。
だが一方で、独在性に一人称性を読み込むことにも大きな問題がある。なぜなら、もし、独在性が一人称である「だけ」だとしたら、そこから二人称も三人称も生まれず、それで話が終わってしまうからである。独在性を出発地点として世界を描き出すためには、一人称的な独在性から話を展開させるための何らかの動性が必要なのである。
確かに、永井の独在論には動性が組み込まれている。永井の累進構造は動的な構造であって、どこまでも独在性を捉えようとしても、どこまでも独在性が突出してしまうような動的な構造を描写している。これはとても正しい描写だと僕は思う。
だが、この累進構造の動性は、一人称的な独在性、それ自体からは生じない。累進構造の動性を駆動するためには、一人称的な独在性とは別に、動性の何らかの動力源を外部から導入するか、それとも、本来の独在性とは一人称性的ではないと捉え、本来は一人称的でない独在性を無理やり一人称的な枠組みにはめることの矛盾から動性が生じる、と考えるしかない。いずれにせよ、一人称的な独在性という捉え方は、動性をうまく説明することができない。
一方で、二人称的な独在性を採用すれば問題は簡単に解決する。僕の言葉遣いによれば、二人称的な独在性とは、つまり〈対話〉の独在性であり、話し手が聞き手に発話するという意味での動性がある。言葉の動性である。または、森岡的に語るならば、その動性とは、マンガの登場人物である先生からまんまるくんに向けた指差しの動性である。いずれにせよ、二人称には二人の間での動的な関係性が含意されており、そこから動性を説明することができる。
以上のように考えるならば、 一人称的な独在性 vs 二人称的な独在性 の対決は、そう一方的な展開にはならないように思える。
4 対決の行方
では、対決の舞台を整えたところで、永井の一人称的な独在性 vs 森岡の二人称的な独在性 の対決の行方はどうなるのか。
述べたとおり、勝負のポイントは、まず、動性をどのように確保するのか、そして、独在性の「独」つまり「一」をどのように処理するのか、という二点に絞られるだろう。
(1) 永井のターン
まず、永井の一人称的な独在性のほうから考えてみよう。永井の独在論において、動性はどのように確保されるのだろうか。
永井のオリジナルの議論における最も特徴的な動性とは、時間の動性のことだろう。記憶による自己同一性に基づく〈私〉の時間的連続体としての時間的な動性である。
だが、先ほどの準備作業のとおり、永井のオリジナルの議論から離れるべきであり、つまり、ここで議論されるべき独在性とは、〈私〉の独在性ではなく、〈今私〉という、時間的な幅がない独在性であり、時間的連続性すら確保されていない次元での独在性のことでなければならない。だから、時間の動性を導入することはできない。永井が避けていた〈今私〉の独在性にまで議論を進め、時間という幅さえ奪ってしまったら、点でしかない独在性について、動性が働くような幅をみつけることはできないのである。
では、永井の議論のどこに動性を見出すことができるのかといえば、僕は、永井の議論の遂行自体においてであると考えたい。
先ほど指摘したとおり、永井によれば、独在性とは、直接的・実質的に理解することも、形式的・概念的に理解することもできるものである。また、永井は、独在性とは付け加えたり、取り除いたり、といった操作ができる概念であるとまで述べている。
だが、これらは、いずれもが正しいとしても、両立はしない。なぜなら、独在性に関して、実質的な理解と、概念的な理解の両方ができるためには、独在性とは実質的かつ概念的なものでなければならならないが、独在性の付加や除去といった操作ができるほどに独在性の概念化を推し進めるならば、独在性概念とは、実質的な理解を拒絶するものになるはずだからである。
実質的理解とは、僕自身の直接的な体験を通じて理解することであり、僕の体験を経由しない実質的理解などありえない。だから実質的理解において、独在性が付加される前の状況など想定することはできないし、独在性が除去された後の状況を想定することもできない。なぜなら、僕は独在性が付加される前も、除去された後も決して体験することはできないからである。僕は常に独在性があることしか実質的に理解することはできない。そのようなものである独在性の実質的理解と、独在性の付加や除去といった操作ができるとする独在性の概念的理解とは両立しない。
だが、両立しないからと言って、永井が述べていることが間違えているという訳でない。永井によれば、一見して矛盾するような、異なる道筋でアプローチができるという点にこそ独在性の面白さがあるのである。例えば、永井は、まず、直接的・実質的なかたちで独在性を説明する。そして、そのような語り方で独在性を理解したならば、その独在性を形式的・概念的なものとしても理解できるようになるはずである、と論ずる。このような、矛盾した道筋をつなげるような議論を永井は遂行するのである。
僕は、このような永井の議論の遂行の仕方にこそ、永井の独在性の動性があるのではないかと考える。永井の議論とは、直接的・実質的な理解に基づく議論と、形式的・概念的な理解に基づく議論を同時並行的に行うものであり、そこには議論の幅がある。この幅こそが、永井の議論における動性が働くスペース(余地)であり、その幅のある議論を動的につなげることこそが、永井の議論の動性なのである。つまり、一見、矛盾するような二つの議論を並行的に遂行すること自体が、永井の独在性の動性なのである。
それを最もきれいにまとめているのが、永井の累進構造の図式である。永井の累進構造は議論の遂行の動性をきれいに捉えている。だから累進構造は正しいのである。
このように動性が確保されてしまえば、もう一つの問題、つまり独在性の「独」つまり「一」をいかに処理するかという問題は、永井の一人称的な独在性にとっては問題とならない。なぜなら、一人称的独在性とは、永井ならば「私」であり、僕ならば「今私」または今私とも示せない最狭の点であり、それが数として「一」であることは当然だからだ。
(2) 森岡のターン
ここまで、永井の一人称的な独在性が、動性の問題と「一(独)」の問題をいかに処理するのかを見てきた。ここからは、森岡の二人称的な独在性がこれらの問題をいかに処理できるのかを見てみたい。
まず、動性の問題については、先ほど述べたとおり、二人称的な独在性を採用すれば簡単に解決する。森岡の独在性は、人物Aが人物Bに対して行う指差しの場面において象徴的に示される。ただし、その独在性を僕なりに再解釈するならば、人物Aや人物Bではなく、まず、指差しそのものに対して二人称的な独在性が付与されていなければならない。この指差しとは、当然動的であるから、動性の問題はきれいに解決できる。
また、森岡の議論を離れ、僕自身の哲学に引き寄せるならば、この二人称的な独在性とは、〈対話〉の独在性である。つまり人物Aが人物Bに対して行う発話にこそ初発の二人称的な独在性があると僕は考えている。僕の提案がよいものかどうかはともかくとして、もし僕のアイディアを採用したとしても、発話とは動的なものであるから、やはり動性の問題は解決できる。
いずれにせよ重要なのは、森岡の指差しにせよ、僕の発話にせよ、その動的な行為自体が二人称的な独在性の担い手であり、決して、そこに関わっている人物Aや人物Bが担い手ではない、ということである。あくまで人物Aや人物Bという静的なモノは、指差しや発話という動的な行為に宿っている根源的な独在性から、二次的に波及した独在性を有しているにすぎないのである。
では、二人称的な独在性は、もうひとつの「一(独)」の問題をいかに処理できるのだろうか。普通に考えれば、二人称なのだから、すでに「二」であり、「一(独)」に収めることはできない。また、僕の議論によるならば、森岡の指差しを採用しても、僕の発話を採用しても、そこには動的な行為と、人物Aと、人物Bという三者が関わることになってしまう。つまり、独在ではなく三在である。「三」は「一(独)」に収まらない。いずれにせよ、二人称的な独在性と「一(独)」は、あきらかに相性が悪い。
だが、この問題は、指差しや発話といった動的な行為こそが根源的な独在性であり、人物Aや人物Bの独在性は二次的な独在性であると考えることで一応はクリアできる。では人物に付与される二次的な独在性とは何なのか、という問題は残るけれど、二人称的な独在性を「一(独)」に収めるという当初の目的は達成できる。
そして、このような捉え方は、独在性は無内包(無内容)である、という永井の考えとも相性がいいように思う。永井の独在性に「私」のような内包がつきまとっているように見えるのは、先程指摘したとおり、永井が時には意識的に、また、時には無意識的に、本来の〈今私〉の独在性の問題を、〈私〉の独在性の問題に、議論をずらしているからである。
本来の〈今私〉の独在性の問題に立ち返るならば、全くの無内包である「一(独)」に何を代入してもいいし、別の言い方をするならば、何を代入しても誤りである、ということになる。それならば、独在性とは、私であると考えても、指差しや発話という行為であると考えても、同程度に正しいし、同程度に誤りである、ということになる。
つまり、少なくとも、「一(独)」の扱いにおいて、一人称的な捉え方と、二人称的な捉え方に優劣はなく、、二人称的な独在性を「一(独)」に収めることを、それほど問題視しなくていいということになる。
(3) 僕のジャッジ
さて、僕の判定だが、きっと、この対決は簡単には決着がつかない。なぜなら、独在性は無内包であるため、独在性に代入される内容によって、独在性がどのようなものかを判断することはできないからだ。つまり、独在性が一人称的か、それとも二人称的か、という問題は、形而上学的に、存在論的に、決着がつけられなければならないのである。
なお、僕自身は、独在性は二人称的であるという考えに傾いている。なぜなら、永井的な議論により、一人称的な独在性の動性を確保することには無理があると思うからだ。
先ほど僕は、永井的な独在性の動性は、独在性について、直接的・実質的な議論と、形式的・概念的な議論とを並行して進めることができる、という点にこそ求められるとした。そのような幅のある永井の議論を遂行するという点にこそ、永井の一人称的な独在性の動性があると論じた。
だが、ここでの永井の議論の遂行とは、つまり、永井という人物Aが、僕という人物Bに対して行う発話行為である。実はこれは、僕が二人称的な独在性として指摘した、〈対話〉のことなのである。一見、一人称的な独在性の動性と思われたものは、実は、二人称的な独在性の動性なのである。
それ以外に、永井的な議論のなかに、議論の遂行以外の動性を見出すことができるかというと、僕には見当たらない。例えば、永井の累進構造にも動性はあるけれど、あくまで累進構造自体には、構造と名前がついているとおり、動性はない。累進構造が動性を持つのは、永井が累進構造を用いて議論を行い、紙芝居のように、そこに動きを付与するからである。
やはり一人称的な独在性に動性を持ち込むことは難しく、動的な独在性を想定するためには、何らかの二人称性が必要なのではないだろうか、というのが当面の僕の判定である。