サピオセクシャルと触覚優位

※8000字弱あります。あと、ちょっとエロめです。

1 サピオセクシャル

最近、サピオセクシャルという言葉を知った。

ネット情報によれば「相手の知性に魅力を感じる性的指向」(https://www.cosmopolitan.com/jp/love/relationships/a33640725/sapiosexual-meaning-problem/)

とのことだ。

僕は、明らかにこれに該当していると思う。ネットにはサピオセクシャル度チェックもあるけれど、かなり高スコアだった。僕は、高校生の頃から、好きな女の子のタイプは「頭がいい人」と答えていたし、筋金入りのサピオセクシャルのようだ。

なお、サピオセクシャルという言葉はLGBT的な文脈で使われるらしいのだけど、そもそも知性に魅力を感じることをLGBTと同列に語るべきなのか、という疑問はある。知性に魅力を感じるのも、外見に魅力を感じるのも、性格に魅力を感じるのも、どれも同じ程度に当たり前なことのような気もする。

だから、あえてサピオセクシャルという言葉を使うかはともかく、僕が、他の人よりも外見や性格よりも、知性をトリガーにして人を好きになりやすいのは事実だと思う。より正確には、僕は、知的な外見や、知的な性格も含めて知的な感じが好きだとも言える。実際の頭の良さはともかく、ふくよかで母性を感じるような外見や、かわいい小動物のような外見より、シュッと自立した感じの外見の人が好きだし、大人しくて従属的な性格や、ギャルっぽくて軽い性格より、自分を持っていて芯が強そうな性格の人のほうが好きだ。

だけど、それらはあくまで、僕が誰かを好きになるまでの理由付けであって、僕が誰かを好きになってからのことまでは定めてくれない。

確かに僕は知性に魅力を感じるけれど、僕は別に、キスの合間に、「君は本当にここに存在しているのかい。」なんて問いかけたい訳ではないし、彼女に体を愛撫されながら、人間の身体性についての講義を受けたい訳でもない。僕の好きは、もっと肉感的で、ただキスをしたいし、ただ愛撫されたい。

この「好きになるまで」と「好きになってから」のギャップは大きい。好きになるまでは「知的な思考」が僕の行動を導き、好きになってからは「肉体」が僕の行動を導いていく。

僕は、このギャップは誰もが感じるものだと思っていた。実際、多かれ少なかれ、多くの人が感じることなのだろう。特に、性欲にあふれる男子高校生などは、知的な思考と肉体的な欲求のギャップに悩んでしまいそうだ。だけど、よく考えてみると、サピオセクシャルである僕は、知的な思考に特にこだわりがある分、そのギャップが大きいのかもしれない。

2 触覚優位

更に僕は、肉体的な欲求についても、普通以上に肉体的な欲求を求める傾向にあるのかもしれない。僕は恋愛において、知的な思考を普通以上に重視するサピオセクシャルであると同時に、肉体的な欲求も普通以上に重視するタイプだから、普通よりもギャップが大きいのではないだろうか。

ここからは、僕が、肉体的な欲求を重視するタイプであることを裏付けしてみたい。

ここで持ち出すのは、NLPという心理学的な技法の話だ。NLPによれば、人は、視覚優位の人、聴覚優位の人、触覚優位の人、という3種類に区分ができるそうだ。NLPは学術的には裏付けがないようで、まあ、眉唾なのだけど、実感に即しており、面白い話だと思う。https://www.nlpjapan.co.jp/visual.html

この区分によると、僕は触覚優位のようなのだ。僕は、着心地の悪い服が苦手で、砂浜で足に砂が付くのが嫌で、蚊に刺されるのが極度に嫌いな子どもだった。今もそういうところがある。だとしたら、セックスでの皮膚感覚を通常よりも重視する傾向にあるのかもしれない。(ちなみに僕は明らかに視覚が弱くて、聴覚はそこそこ強いと思う。)

視覚優位の人なら、ただ相手を見るだけで満足できるし、聴覚優位の人なら相手の声を聴くだけで満足できるのかもしれない。彼らは、カフェで向かいの席に座って相手を眺め、声を聴くだけでも満足できるのかもしれない。だけど、触覚優位の人はそうはいかない。相手にもっと近づき、その肌に触れなければ満足できない。

そのような意味で、触覚優位の僕は、他のタイプの人よりも、肉体的な接触を求めがちになり、つまり、普通よりも肉体的な欲求が前面化することになるのではないだろうか。

きっと、サピオセクシャルと触覚優位は相性が悪い。好きになるまでは、相手の「頭脳」を好きになりながら、好きになってからは、相手の「肌」を求める。ここには大きなギャップがある。

例えば、もし僕が外見重視で視覚優位ならば、好きになるまでも、好きになってからも、ただ相手を眺めていれば幸せだろう。もし僕が性格重視で触覚優位ならば、最初から最後まで優しく頭をなでてくれるだけで幸せなのかもしれない。だけど、知性重視で触覚優位の僕は、どこかで距離感が豹変せざるをえない。当初、カフェで向かいの席に座り、饒舌に知的な会話を楽しんでいた僕は、恋に落ちた途端、無口になり、急に体をすり寄せることになる。

このギャップは、気持ち悪いだけでなく、相手の信頼を裏切りかねないし、また、相手の知性を踏みにじるものにもなりかねない。「口では知性とか言いつつ、結局身体目当てなんでしょ。」ということになってしまう。そう言われたら僕は反論できない。

僕は恋愛を始めるまでは知的な思考を重視するサピオセクシャルでありながら、恋愛を始めてからは、肉体的な接触を重視する触覚優位タイプであり、普通よりも大きなギャップを抱えている。以上が僕の自己分析である。

3 対話的

ここで話を終えたら、なんとなく男子高校生の悩みの打ち明け話っぽくなってしまうので、もう少し話を展開させてみたい。それは、実は、サピオセクシャルと触覚優位は相性がいいのではないだろうか、という方向の話である。この話がうまくいけば、世の男子高校生の一部には役に立つ話になるし、僕自身がうまく女性と付き合うための指針となるだろう。(結婚している僕が、いつ、その指針を活用するんだ、というツッコミは無視します。)

結論から述べると、サピオセクシャルと触覚優位とは、ともに「対話的」であるという点で共通点があり、相性がいい、というのが僕のアイディアである。

まず、サピオセクシャルが求める知性は対話的であることは明らかだろう。なぜなら、僕が考える知性とは哲学的知性であり、そして、哲学とは対話的だからだ。なぜそうなのかは何度も書いてきたので、ここでは詳細は述べない。ただ、僕が「頭がいい人が好きだ」と言うとき、そこには、僕の話を理解してくれるほどに頭がいい、という意味と、僕が知らなかったことを話してくれるほどに頭がいい、という二つの意味があって、その双方向性と、対話性とは重なるという点は指摘しておいたほうがいいだろう。僕は、頭がいい女性に、僕の話を理解してもらい、そして、僕も、その頭がいい女性から、価値のある話を聴きたいのだ。僕のサピオセクシャルとは、そのような理想的な対話の希求である、とも言える。

そして、もうひとつの僕の特徴である「触覚優位」のほうも、双方向性があるという意味で対話的であると言える。なぜなら、人間の五感は、双方向的なものと、一方向的なものとに分けることができるけれど、双方向的な感覚の代表が触覚だからだ。僕が彼女の手に触れたとき、彼女も僕に触れている。それが双方向的ということである。一方で、五感のなかでも、味覚や嗅覚はかなり一方向的だろう。僕が彼女の肌を舐めて、汗のしょっぱさを感じたとしても、彼女の口には味覚は生じないし、僕が彼女の風呂上がりのシャンプーの匂いを嗅いだとしても、それによって彼女が僕の体臭を嗅ぎ取ることにはならないからだ。

残りの五感、つまり視覚と聴覚は、そこに言語が関わってくるから多少ややこしい。もし言語がなければ、視覚も聴覚も明らかに一方向的である。なぜなら、僕が彼女を見ても、自動的に彼女が僕を見ることにはならないし、僕が彼女が出した物音を聞いても、僕が出した物音を彼女が聞くことにはならないからだ。

だけど、僕たちは言語を用いるから、手紙を書き、彼女に読んでもらい、そして、僕も彼女からの返信を読むというかたちで、視覚を用いた双方向のコミュニケーションが成立する。聴覚の場合はもっと直接的で、互いに、言語を口で発声して、それを耳で聴くことで、双方向のコミュニケーションが成立する。視覚の場合は目と手、聴覚の場合は耳と口を使うことで双方向のやりとりが可能になる。(話を単純化しているけれど、手話、手旗信号、モールス信号といった他のやり方でも、用いる器官に違いはあっても、本質的に変わりはない。)

だけど、触覚の双方向性と、視覚・聴覚の言語を使った双方向性とでは大きな違いがある。触覚は同時的な双方向性である一方で、視覚・聴覚の場合は、交互的で、タイムラグがある双方向性だからだ。

触覚が有するこの特別な同時的双方向性とは、対話的な双方向性と言えるのではないか、それならば、サピオセクシャルの対話性と、触覚優位の対話性とは相性がいいのではないか、というのが僕の考えである。

※ 同時的双方向性とは触覚に特有のものではあるが、例外的に他の五感でも生じることはある。例えば、互いに目を合わせて見つめ合うような場面や、二人で声を揃えてハモるような場面である。また、ディープキスでは味覚も同時的双方向性を有するかもしれない。だから正確には、触覚なら常に同時性が伴うにも関わらず、他の感覚では、この同時性は特別な場面でしか生じないという点に違いがあると言ったほうがよいだろう。

4 同時的双方向性

ここで重要となるのが触覚の同時的双方向性と対話の関係である。普通に考えるならば、対話とは言語を用いるものだから、視覚や聴覚における文字や音声言語を使った交互的双方向性とつながるはずである。なぜ、あえて僕は、対話と同時的双方向性をつなげようとしているのか。

それは、言語の理解の場面を、一段細かいところで考えようとしているからである。

例えば、

A 「サッカー日本代表は結構がんばったよね。」

B 「そうだね。」

という会話があったとして、BはAの発言をいつ理解するか、という問題である。

Bが「そうだね。」と発話する時点で理解したのでは遅すぎる。なぜなら、まず理解していなければ「そうだね。」と発話することはできないからだ。

では、Aの発話が終わった後、Bの発話が始まるまでの間の隙間の時間でBは理解すると考えるのはどうだろう。確かに、複雑な話であれば、聞き手は、相手の話が終わったあと、咀嚼し、再構成するように理解するように思える。「この前、ワールドカップをやってたから、Aは、あの話をしていたんだよな。」なんて。ただ、咀嚼し、再構成して理解を深めるためにも、まずはある程度はAとの発言を理解し、Aが言っていることを把握しなければならない。理解を深める前に、まず理解をしていなければならない。

そのように考えると、Aの発言と同時に、Bは理解する、と考えるのが適当である、と言えるだろう。Aの「サッカー日本代表は結構がんばったよね。」という発話を聞くと同時に、Bは「サッカー日本代表は結構がんばったよね。」と理解するのである。その後、いつのサッカーの話だっけ、などと疑問は生じるかもしれないが、とにかく、そのような疑問が生じるためにも、聞き手は、まずは発話を聴くと同時に理解するのである。

この、発話と同時の理解こそが同時的双方向性である。つまりAからBに対する発話と、BからAに対する理解とが、同時に、双方向的に行われるから同時的双方向性なのである。

そして、この同時的双方向性は、Aの手がBの手に触れる場面に似ている。AはBの手の感触を感じ、BはAの手の感触を感じる。なぜそう感じられるかと言えば、AがBに触れるとき、BもAに触れているからである。

同様に、Aは自らの言葉がBに(表層的であれ、何らか)理解されたと確信する。なぜなら、Bに多少なりとも理解されなければAが発話したことにはならないからである。そしてBもAの発話を受け取ったと確信する。なぜなら、Aの発話を受け取ったのでなければ、BがAを理解したことにはならないからである。このように、Aの発話は既にBの理解を巻き込んでおり、Bの理解はAの発話を既に巻き込んでいるという点で、Aの発話とBの理解は直接的に接触している。この直接性は、触覚における直接性と同じものである。

この直接性を理解するためには、皮膚の接触よりも、視覚における接触とも言える、目と目が合う場面を想像したほうがいいかもしれない。確かに二人の間には空間的な距離があり、厳密には、相手の目の像が到達するためには光の速度に応じた時間差がある。だが、僕の瞳を見つめる恋人の瞳を見つめるとき、実感としてそこには時間差はない。そこには「僕が見る」と「恋人が見る」という二つの独立した行為はなく、渾然一体となった、「互いに見る」という一つの行為が成立している。僕はこれを目で直接的に相手に触れていると表現したくなるし、これこそが同時的双方向性である、と言いたくなる。(ある程度真剣に見ることが必要なので、恋人同士の場面を想定しましたが、当然、恋愛に限った話ではありません。)

では、対話、つまり言語使用の場面で、このような直接性、つまり発話と理解の同時的双方向性が生じるのかと言えば、それは話し手Aと聞き手Bとがともに同じ言葉を理解する人間だからである。人間としての同質性により、話し手と聞き手は渾然一体となり、そこで触れ合い直接性を獲得し、そして、同時的双方向性が生じるのである。僕はこの人間としての同質性は奇跡だと思っている。

いや、互いに言葉を理解する人間であることなど当たり前ではないか、という考えはあるかもしれない。常識的にはそうである。だが、なぜ相手を同じ言葉を理解する人間だと思えるのかを、よくよく考えてみれば、そこに奇跡が含まれていることに気付くはずである。

相手を同じ言葉を理解する人間だと見做すことができる理由は、きっと、お醤油を取って、と言えば取ってくれる、というような実例が積み上げられているからだろう。だが、理解していなくても、偶然、お醤油を取ってくれたということはありうる。実際、ぼんやりしていて聞き逃し、刺し身を食べようとしてるからこれかな、と適当に対応することはありうる。または、お醤油とは調味料全般のことである、と誤って覚えていて、たまたま、テーブルの上に醤油のボトルしかないからうまくいった、という場合もありうる。思考実験的な状況を想定すれば、いくらでも言語理解の危うさ、奇跡に気付くことができる。

僕はこういう思考実験が好きだけど、好みでない方ならば、言語学習の場面を思い浮かべたほうがいいかもしれない。全く言語を知らない赤ちゃんが言語を学ぶ過程は奇跡である。全く言語を知らない存在から、僕たちと同質の人間になる奇跡である。その奇跡を説明するために、人間には生来、基礎的な言語能力が埋め込まれているなどと考えることもできるけれど、個人の言語学習においてであれ、人間という種の進化の場面であれ、何らかの奇跡がそこにあったことに変わりはない。

この奇跡とは、言語使用における直接性獲得の奇跡であり、同時的双方向性獲得の奇跡なのである。

5 距離ゼロの共鳴

相手を同種の人間と認めることこそが鍵である。相手を同種の人間と認めるからこそ、僕は相手に触れたくなる。そもそも手触りがいいものに触ること自体が気持ちよいことだけど、自分と同じものに触れることができるというのはワクワクすることだし、とても安心することでもある。

また、相手を同種の人間と認めるからこそ、僕は相手に話しかけたくなり、また、相手の話を聞きたくなる。僕の言葉が同種の人間に理解されることが喜びであり、そして、同種の人間の言葉を理解できることが喜びでもある。

これは対話の喜びであり、直接性の喜びであり、同時的双方向性の喜びであり、サピオセクシャルの喜びであり、触覚優位の喜びである。確かに、多少変わった喜びかもしれないけれど、長々とここまで書いてきたことを踏まえると、僕のようなサピオセクシャル&接触優位ではない人にも理解できる喜びなのではないだろうか。これは共鳴の喜びと言ってもいいだろう。

共鳴するためには、僕とあなたという、同種の存在が二つなければならない。恋愛において接触が重要なのは、僕があなたを触るとき、あなたも僕を触るからであり、そして、僕はあなたが僕に触られていることに気づいていることを知っているからであり、そしてあなたは、僕がそれを知っていることすらも知っているからである。そう言えるのは、僕とあなたは同種の存在であると知っているからであり、僕がすることは当然あなたもしていることを知っているからである。それは身体接触によらなくても、向かい合ってあなたの目を見つめていても同じことだ。僕が見ているとき、あなたも、目をそらさない限りは、僕を見ている。または、言葉でも同じことで、僕が言葉をあなたに投げかけるのは、同種のあなたが僕の言葉を理解してくれることを知っているからであり、あなたが僕の言葉に耳を傾けるのは、僕が聞くに値する言葉を発することをあなたが知っているからである。

僕とあなたという同種の二つの存在は、手と手を触れることにより、または、視線を重ねることにより、または、言葉を発することにより、共鳴する。

そのとき、二人の距離はゼロとなる。手と手の接触の場合は当然として、数メートル先のあなたと目を合わせたときも、数十キロ先のあなたと電話で話したときも、二人は共鳴するひとつの構成体となるから、そのような意味で、物理的な距離を飛び越え、二人は距離ゼロとなる。僕たちはつながっていると言ってもいい。

ただし、ひとつの構成体になったからと言って、僕とあなたの区別がつかなくなった訳ではない。靴下の右と左のように、二つでありながらひとつになったのである。これは、先日書いた文章の「そばにいる」ということである。距離ゼロで僕と君はそばにいるのだ。

このように恋愛を用いた比喩的な表現を重ねたうえであれば、恋愛において僕がサピオセクシャルであることと、僕が触覚優位であることは、相性が悪いとばかりは言えないだろう。恋愛について、同時的双方向性を強調するような、特定の捉え方をする限りは、サピオセクシャルで触覚優位になることは、ある意味、必然でさえあるのだ。

僕にとっては、好きな人と知的な対話を楽しむことは、まるで愛撫をするようなものであり、そして、好きな人を愛撫することは、まるで肉体との対話を楽しむようなものなのである。だから僕は、サピオセクシャルと触覚優位の間にあるギャップに悩む必要はない。

こう書ききってしまうとかっこよすぎるかもしれないけれど、ちょっとモテるかもしれないので、そういうことにしておく。

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