※1500字くらいです。
なんとなく、俵万智さんの密着取材のテレビを途中まで見ていたら、短歌というのは、言葉になる前の「ホントウに思ったこと」を捉えようとするような営みだ、というようなことを言っていた。そんな言葉ではなかった気もするけれど、僕はそのように理解して、確かにそうだと思ったのだ。
僕も、「ホントウに思っていること」を捉えたくて、哲学をしているのかもしれない。だから、実は、哲学と詩や短歌は結構似ているということになる。短歌は、そのときの一瞬の思いを捉えがちで、哲学は、人生を通じて思っていることを捉えがちだ、というような時間的な長短の違いはありそうだけど、言葉になる前の何かを捉えようとする営みだという点ではかなり似ている。
その、言葉になる前の何かを示す言葉としては、「ホントウに思っていること」ではなくて、「ホントウに感じていること」や「ホントウに考えていること」でもいいかもしれない。ただ、「感じている」や「考えている」よりも「思っている」のほうが限定がなく、広がりがありそうなので「ホントウに思っていること」にしておく。なるべく限定がなく、広がりがある「全て」を指し示す言葉が望ましいと思われるからだ。
だから、「ホントウに思っていること」だと心の内側に限定されすぎるならば、「ホントウの世界」などと言い換えてもいいかもしれない。確かに、僕は「ホントウの世界」を捉えたくて哲学をしているとも言えるし、俵万智さんも「ホントウの世界」を捉えたくて歌を詠んでいるとも言えるだろう。
心の内側か、心の外側かというのは大きな問題のように思えるかもしれないけれど、実は大きな問題ではない。とりあえずは、心の内側と外側はつながっていて、心の内側と外側は鏡のような関係だと考えてもいいかもしれない。だけど、それはあくまでも方便であって、心の内側か外側か、という区別にはそれほどの意味はない、と言ったほうがより正確だろう。だけど、「意味がない」という表現も実は方便であって、もっと大きな問題が他にある、と言ったほうがより正確だと僕は思っている。
「ホントウに思っていること」でも「ホントウの世界」でもどっちでもいい。その言葉になる前の何か、「全て」と言ってもいい何かを捉えるために、哲学をして、歌を詠んでいるのだ。これこそが哲学者と歌人にとっての大問題なのだ。
ここに科学者を加えてもいいだろう。科学者は科学者なりのやり方で、「ホントウに思っていること」または「ホントウの世界」または「全て」を捉えようとしている。歌を詠むように、科学者は実験をしたり、論文を書いたりしているのである。
そして、歌人は、その「ホントウに思ったこと」を歌に詠み、「ホントウに思ったこと」に歌という名前をつけることに成功する。同様に、科学者や哲学者も、論文を書いたりして、相対性理論や功利主義といった名前をつけることに成功する。
当然、いずれも、完全な成功ではないけれど、ここでは、その不十分さに目を向けるのではなく、そこで彼らが成し遂げたことのほうに目を向けたい。言葉がぴったりハマったときに感じる心地よさは、明らかにひとつの成果であり、そこには歌人と科学者と哲学者との間の違いはないように思える。そこにあるのは、言葉で捉える前の何かを言葉で捉えるという快感である。
だから、実は、歌人も科学者も哲学者も、やっていることには大差がなく、いわば地続きだと言ってもいいのかもしれない。そこには、短歌の文法、科学の文法、哲学の文法という違いがあるに過ぎないのである。