※3,700字くらいです。wordpressのテーマを変えたから見た目が違うかも。
1 スランプ
最近、僕は、スランプ気味だ。自信を喪失している感じ。僕のことを誰も気に留めてくれない、僕は誰にも尊重されていない、そんな気分がしている。
それは当たり前だとも思う。なぜなら、僕は自分のことばかり考えているからだ。僕は自己中心的すぎる。
2 4つのルート
(1)自己中心的・独我論的
僕に会ったことがある人は僕のことを自己中心的とは思わないかもしれない。僕も、周囲の人からはそう思われていないような気もする。なぜなら、僕は自己中心的になることを突き詰めているから、逆にそれほど自己中心的ではなくなっているとも言えるからだ。
独我論的なひとつの考えに基づくならば、この世界は、僕の心の中の内的な世界に等しいとも言える。そのような立場に立つならば、自分のことを考えるということは、つまり、この他者も含めた僕の世界全てのことを考えることとイコールだとも言えることになる。自分自身のことばかり考えることは、つまり、この世界の他者のことを等しく考慮することでもあるのだ。
僕は、およそ、このような方向で高校生の頃から考えていたから、その後の哲学的な深まりはともかくとして、きっと、いわゆる自己中心的な人間というよりは、どちらかというと博愛的とも言っていい人間として長く生きてきたと思う。(それほど徹底してはいないから、いわゆる自己中心的な人間でもあるのだけど。)
(2)博愛的
だけど、僕の心にはひっかかるものがある。僕が進む道は、本当にこのルートでよかったのだろうか。少なくとも、自分自身とこの世界とをつなぐ道筋は、僕が歩んだ自己中心的で独我論的な道筋以外にもうひとつあるはずだ。
それは、最初から世界の幸せを目指すという博愛的な姿勢を突き詰めていくうちに、それこそが、自分自身の幸せでもあると気づくようなルートである。例えば、自分を犠牲にして他者に尽くしているうちに、やがて、自分自身も含めて誰かと支え合い、助け合うことこそが、自分自身も含めたすべての人達の幸せにつながっている、と気づくこともあるだろう。
このような道筋を辿ったとしても、到着地点は僕が辿ったルートと同じであり、外からは見分けがつかないかもしれない。だけど、自己中心的な考えを究極的に推し進めることと、博愛的な考えを究極的に推し進めることとでは、品の有無とでもいうべき違いがあるように感じる。成金の金持ちと、生まれながらの金持ちでは、同じことをしていてもどこか違いがあるのと同じである。
(3)自然体的
更にもうひとつ、自分自身と世界とをつなぐ、などということをそもそも考えないという道筋もあるだろう。この状況をただ受け入れる、それも、受け入れるということすら意識せずにただ受け入れるという態度である。自然体で生きる、と言ってもいい。
つまり、自分自身と世界に対する態度としては、①自己中心ルート、②博愛ルート、③自然体ルートという3つがあるのである。
(4)解脱的
実は、この文章を書くまでは、以上の3つのルートがあると考えていた。だけど、書いているうちに、もうひとつ、④解脱ルートとでも言うべきものもあることに気づいた。仏教の修行者のように、自分自身と世界のつながりを捨て去るのだ。③自然体ルートが先天的な解脱だとするならば、④解脱ルートとは後天的な解脱であり、後天的な自然体の獲得であると言ってもいい。自己中心的にせよ、博愛的にせよ、自分自身と世界のつながりを考えざるを得なかった人たちが、あえて自然体に戻ろうとするならば、そのような考えから解脱するしかない。
以上、4つのルートを図にすると、上記のようになるだろうか。
なお、僕は、この4つのルートのいずれを通っても、最終的には同じ境地にたどり着くことができると考えている。成金か生来の金持ちかといった違いはあっても、結果としては、およそ、自己と他者といった違いに囚われない同じ境地に到達することとなるのだ。
3 良いと悪い
(1)良い自己中心・博愛と悪い自己中心・博愛
だから、良く自己中心的であることと、良く博愛的であることと、良く自然体的であることと、良く解脱的であることは、ほぼ同じ境地だと言っていいだろう。ただそこに至る道筋に違いがあるだけなのである。
一方で、悪く自己中心的であることと、悪く博愛的であることと、悪く自然体的であることと、悪く解脱的であることでは、大きな違いがある。
このうち、悪く自己中心的であることと、悪く博愛的であることの違いについては、それほど説明は要らないだろう。悪く自己中心的であるとは、僕自身のように、結局は自分だけがうまくいくことばかり考えることであり、それに対して、悪く博愛的であるとは、周囲にばかり尽くそうと考えるあまり、自分のことだけを粗末に扱い、傷つけてしまうことである。
(2)良い自然体と悪い自然体
わかりにくいのは、悪く自然体的であることと、悪く解脱的であることのほうである。
まず自然体のほうだけど、僕は、自然体にも、良い自然体と悪い自然体があると思う。その違いは、センスの有無にある。自然体である人のなかには、センスがあっていいなあ、と思える人と、センスがなくて、自然体というより、何も考えてないだけ、としか思えない人がいる。例えば、タモリのような人は肩の力が抜けていて自然体でいいなあ、と思う。(本当のタモリがどうだかは知らないけれど。)一方で、ヤフコメ欄を眺めると、この人は、自分と他者の違いなど考えることもできなかったのだろうなあ、としか思えないような書き込みを時々みかける。生来から駄目で、自然体で駄目なのである。うまく言葉で説明できないので、これで察してもらうしかないのだけど、とにかく、センスの有無により、良い自然体と悪い自然体という違いがあると、僕は思うのだ。
(3)良い解脱と悪い解脱
もうひとつの、良い解脱的と悪い解脱的の違いだけど、これも、センスの有無と言っていいと思う。
僕はきっとセンスがない。センスがないから、言葉で考えて、ようやく、自己中心的であることと、博愛的であることとは実は同じであると気づくことができた。また、センスがなくて、言葉でしか考えられないから、僕は不徹底で、頭ではわかっていても、どこか自分ばかり大事にしてしまう。これは手間がかかるし不完全だから、悪い解脱である。
一方で、センスがある人ならば、少し言葉で考えるだけで、それをきっかけに、スムーズに、自然なかたちで、自己中心的と博愛的とを重ね合わせ、そのような違いを超越した境地に到達することができるだろう。そして、頭だけでなく心と体も含めた全体でそのことを理解するから、決してそこから揺らぐことはないだろう。これは円滑で完全な良い解脱である。
3 センス
(1)センス
つまり、①自己中心的と②博愛的における良い悪いの違いは、いわば、どれだけうまく頭を使えるかどうか、という問題であるのに対して、③自然体的と④解脱的における良い悪いの違いは、頭だけではなく、心と体も含めた全体として、どれだけうまくできるか、という問題なのである。
そして、頭を使うことに関しては、言葉で表現できるのに対して、心と体を含めた全体をうまく使うことに関しては、言葉ではうまく表現できず、センスとしか言いようがない。悪しく自己中心的である人に対しては、もっと自己中心的であることを突き詰めれば、いずれ、それは博愛にもつながるよ、と言葉で助言することができる。悪しく博愛的である人に対してならば、それでは自分を傷つけてしまい、自分に対する博愛を徹底できないよ、と言葉で指摘することもできる。だけど、センスがなくて自然体になれない人や、センスがなくて解脱できない人に対してかける言葉はない。だから、言語以前の違いという意味で、そこには差別的なニュアンスさえ含まれてしまう。
(2)羨望
僕は、4つのルートのうち、自己中心的ルートを用いて、自他を超えた境地にとりあえずは到達できた。(または到達に向かっている。)
だけど、それは最も危うい道筋で、少しでも気を抜けば、単なる自己中心的な人間に転落してしまう。これは、明らかに博愛的ルートで自他を超えた境地に到達した人たちよりも劣っている。彼らならば、転落しても、自己犠牲的な英雄になれるけれど、僕は単なる俗物にしかなれない。
そして、僕はセンスがないから、自然体で生まれながらに自他を超えた境地に到達している人たちや、一を聞いて十を知るようにして解脱できた人たちには敵わない。僕はそういう人たちが羨ましい。彼らのように、生まれながらの基礎体力さえあればよかったのに、と思う。
(3)得意技
僕はこれからどうすればいいのだろうか。今からでも、センスを磨くべきなのかなあ、と思う。できれば、頭だけではなく、心と身体もふくめた全体で真実を掴み取ることができる人間になりたいと僕は思う。
だけど、何十年もの間、僕は、自己中心的ルートで技を磨き上げてきたのだから、これを極めるしかないのかもしれない、とも思ってしまう。
そんなふうに揺れ動いているのは、スランプなのだろうな、と僕は感じる。