※ 2500字くらいです。長文を書いてるときに気分転換で行ったイベントでまた考えさせられた、という話です。

先日、哲学道場(http://tetsugakudojo.web.fc2.com/)というのに参加した。

そこでは、永井的な「私」の議論と空集合を結びつける発表がされていた。永井を擁護するのではなく、永井を批判する議論としてである。その話が良かったのでメモにしておく。

僕は数学は全く詳しくないのだけど、次の式は空集合を表すらしい。

∅={x|x≠x}

そして、それを使って、というか、その式の本来の姿として、「私」についての次のような式があると発表者は考える。

私={私|私≠私}

ただ、発表に対して、∅とxとを同じ「私」で置き換えるのはおかしい、と指摘があったので、より正確には、次の式のようになるだろう。

現実性={私|私≠私}

世界には、まず、この私に関する式があり、そこから派生して、∅={x|x≠x} という空集合を表す式が生まれた、というのが発表者の主張である。

僕は数学は詳しくないので文にすると、この式は、「「私は私ではない」という私を要素に持つ集合が現実性である。」ことを表す式らしい。

そして、発表者は、これが永井の「私」の議論を否定する力を持っていると考える。どうしてかというと、永井は、「私」を〈私〉の独在性として高階化し、とんでもない次元に議論を持っていくけれど、この式はそのような議論の高階化を不要とするからである。「私≠私」という矛盾したあり方こそが私の本質であり、その矛盾したあり方をそのまま受け入れることで「私」の問題は片付いてしまうと考えるのである。

僕は、このような方向での対応策は有効だと思う。そこで思い浮かべるのは、『あるようにあり、なるようになる』での入不二基義の〈中間〉についての議論だ。〈中間〉とは、例えば、「運命は全くの必然ではないし全くの偶然でもないという意味での〈中間〉である。」と述べるときの〈中間〉である。

運命は全くの必然であるとするのは極端だし、運命は全くの偶然とするのも極端である。それならば、その中間にこそ、運命があるという主張には説得力がある。同様に、永井の〈私〉は極端に高階化しすぎであり、そのような極端に振れず、「私≠私」という中間的な矛盾を受け入れることこそが〈中間〉としての真理である、ということになる。

これは、入不二本来の〈中間〉の使い方とは違うけれど、このような方向の議論は、哲学を病気と捉えるならば、それを治癒するための処方箋として、かなり有効だと思う。

更にこの議論が面白いのは、空集合についての式から私についての式が生まれたのではなく、逆に、まず、「私」についての式があり、そこから一般的な空集合についての式が生まれたと考える点である。

これはつまり、Xに私が代入されたのではなく、私にXが代入されたということを意味する。私の存在から、Xの存在が生まれたのである。

それならば、このXとは任意のXではなく、「私」から「私」性を消去したものの記号であろう。Xとは、「私」の抜け殻なのである。

抜け殻のままではこの式を使えないから、この式を成立させるためには、Xには私の代わりに何かを代入しなければならない。よって、空集合とは、ただのXについての空集合であることはありえず、具体的な何かについての空集合であり、空間のどこかにその位置を占めることからは逃れられない。

このようなものである空集合は、空間上の広がりはないけれど、具体的な位置を占めるという意味で、〈中間〉的なあり方をしている。

それが「点」と呼ばれることと、「私」がいわば「特異点」であることとは無関係ではないだろう。「私」についての式から空集合についての式が導かれるという主張は、私という「特異点」から空集合という「点」が導かれるという主張なのである。

ところで、この「現実性={私|私≠私}」という式は、「私」が3度も登場するという点も興味深い。

発表者は、この3つの「私」が完全に同じものを指していると考えているようだけど、僕は違うものを指していると考えたほうが面白いと思う。また、完全に同じものを指していたら、そもそも、3度も登場させることは不可能であるようにも思われる。もし3つが同じ「私」だとしたら、それらは溶け合って一つの私になってしまうのではないか。

僕は、この式のうち「私≠私」で登場する私は、それぞれ、「私である」と主張するときの、主体としての私と、そう主張される客体としての私を指していると考えたい。「私≠私」を「私1≠私2」とするならば、私1が私2に向かって「私である」と主張している状況である。

もしそうだとしたら、「私1≠私2」は当たり前だろう。なぜなら、私1と私2は別人だからである。

そのうえで、「{私|私≠私}」のうち一番左の私は、「どの私も、「私1≠私2」というあり方をしている。」と述べるときの「私」だと言えるだろう。

つまり、この式は、「私である」と主張するときの話し手と聞き手のずれと、そのようなずれを伴うあり方をした一般的な「私」のあり方を表しているのである。

ここで終わりにして、発表者を擁護するというのがこの文章の目的なのだけど、どうも、余計な蛇足を付け足したくなってしまう。

もし、この式が「どの私も、「私1≠私2」というあり方をしている。」を意味しているとしても、僕には、〈私は〉「どの私も、「私1≠私2」というあり方をしている。」〈と主張する。〉という言葉が隠されているように思えてしまうのだ。

つまり、ここで終わりにはできず、永井的な無限連鎖が立ち上げられてしまうのである。僕は永井の独在性に毒されているのか、なんとか、この話を永井の議論につなげたくなる。

だが、このように蛇足を付け足すことは真摯な態度ではないとも言える。なぜなら、このようなことは、この空集合の話に限らず何にでも言え、要は、すべての任意の「主張X」について、〈私は〉「主張X」〈と主張する。〉となってしまうからだ。僕は、この空集合の話に正面から向き合うことを避け、単に論点をずらして逃げたにすぎない。これは真摯な態度とは言えないだろう。せっかく目の前に提示された話の面白さを味わわないのは哲学者失格だ。

もし、この反論に乗っかることができたなら、それは、ある種の哲学の病の治療に成功したことになるのかもしれない。