※2600字くらいです。イロトリドリノセカイはジュディ・アンド・マリーの曲だと思ってたけど、ギターのTAKUYAのソロ曲でもあるんだな。25年ぶりに知った。

先日の文章(https://dialogue.135.jp/2023/06/11/update/)で、僕は、僕なりの言葉で形而上学と自然学という区分を捉えることができた、と思う。そのうえで僕は、形而上学が好きだから、そっちの方向で考えようとしている。僕には、形而上学は、入不二の現実論と、永井の独在論とを組み合わせることで、かなりのところまで進められそうな予感がある。

その方向性を簡単に述べておくと、入不二の現実論は現実性と潜在性の二元論だから、現実性と潜在性が重要な役割を果たす。そして永井の独在論では当然独在性が重要な役割を果たす。そのうえで僕は、現実性と潜在性と独在性という三つを組み合わせることで、魅力的な形而上学的な構造を描き出すことができると考えている。僕の頭の中では完全には描けていないけれど、描けそうな予感がある。

だけど、その先にどうも問題がありそうなのだ。僕が形而上学を描ききったとして、その後に、その形而上学を自然学に関係づけようとすると、途端にうまくいかない気がしてくるのである。そのことをちょっと書いておきたい。

このうまくいかなさは、 内容(内包)の問題である。

入不二と永井に共通のキーワードとして、無内包の現実という言葉がある。それが何を指しているかはともかく、彼らが重要視している現実性も潜在性も独在性も「無内包」だということが重要である。だから形而上学は「無内包」だと言ってもいい。

なお、無内包とは特定の内容がないということである。入不二は、無内包と無限内包という言葉を使い分けるけれど、いずれにせよ、特定の内容がないということには変わりがない。

では、特定の内容がないとはどういうことかというと、それは個物が登場する余地がないということだとも言える。

形而上学の領域(厳密には、自然学と形而上学の境界の領域)では、例えば、物質や生命といった用語を用いることはできても、ビニール袋やヒキガエルといった個物に特有の意味を持たせることはできない。あくまで、そのような個物は一例に過ぎず、そこには、一例であることを超えた特有の意味はない。(もし形而上学において個物であることに意味があるなら、それは個物の内容ではなく、個物であること自体に特別な意味があるだけである。)

または、特定の内容がないとは、つまり、認識が前面化して積極的な働きができないということだとも言える。そして、それこそが、形而上学と自然学の区別であるとも言える。認識が前面化し、個物が活躍できる自然学の領域と、認識が背景に退き、個物はあくまで概念の例示のひとつに過ぎなくなる形而上学という区別である。

常識的には、視覚や聴覚を用いた認識により個物を捉えることができる。ビニール袋が見えるからビニール袋はあるのだし、ヒキガエルの鳴き声が聞こえるから、ヒキガエルはいるのである。そう言えるのは、これが自然学に拠って立つ主張だからである。

一方の形而上学はそうではない。海に漂うビニール袋だと思ったのはクラゲの見間違いかもしれないから、見え方に左右されない物質の存在の本質が知りたい。ヒキガエルと人間に共通の生命のあり方を知りたい。そんな動機から、具体例から離れ、抽象化して考える先に形而上学はある。

形而上学とは、それがどのような種類のものであっても、無内包に向かう性質を持っているのである。だから、無内包(無内容)の形而上学から始め、自然学に接続しようとする試みとは、つまり、一度は手放した内容・具体性を回復しようとする試みであると言える。それは、そもそも、かなり無理筋なのである。これが今、僕が直面しようとしている問題である。

僕が描く形而上学的世界には、現実性や潜在性や独在性はあっても、それは、いわば、のっぺりとした現実性・潜在性・独在性であり、どう組み合わせても、そこから具体性を導き出すことはできない。まだ、きちんとは突き詰めて考えきれていないが、せいぜい、生命一般、物質一般、存在一般といったものを導き出すのがやっとだろう。

だけど、この世界は、内容・具体性で満ちている。確かにビニール袋とクラゲを見間違えることはあるかもしれないけれど、ここには具体的な世界が広がっていることに間違いはないだろう。僕はこの情景をとても美しいと思うし、この美しい具体的な世界を哲学的に捉えることができないまま終わりたくもない。約25年前のジュディ・アンド・マリーの曲のタイトルだけ使うならば、僕が捉えたいのは、僕の形而上学には居場所がない、このイロトリドリノセカイだ。

だけど、僕に勝算がない訳ではない。僕は、その糸口は、時制(と人称)にあると考えている。

(人称のほうは複雑なので時制のほうに着目すると、)僕は、認識は、過去と結びつけることができると考えている。ビニール袋やヒキガエルの認識は、いずれも過去のものだ。未来のビニール袋を見たり、未来のヒキガエルの鳴き声を聞いたりすることはできない。この未来と過去との違いは形而上学と自然学の違いに相当し、そして、時間においては未来と過去がなぜか繋がっているように、形而上学と自然学を接続させることもできるのではないか、と考えている。※

つまり、僕は、イロトリドリノセカイは過去にあると予想している。

広大な形而上学領域の一部に、過去というかたちで自然学的領域が確保され、そこで、箱庭のようにイロトリドリノセカイが広がっている。これが、今のところの僕のイメージである。広大な灰色の宇宙のなかに、ちっぽけな青い惑星が浮かび、そこにイロトリドリノセカイの世界が広がっている。そんな比喩をしておいてもいいかもしれない。

※ なお、未来の認識はともかく、現在の認識はある、という指摘もあるに違いない。過去の認識などよりも、今、この目の前でありありと広がっているこの世界の認識こそが真の認識である、というのが常識的な捉え方だからだ。

だが、僕の考えでは、これは自然学的現在であり、いわば過去化した現在である。本当の現在は、その一瞬手前にある。形而上学的現在とでも言うべき、まだ具体的な認識となる前の、この世界そのものが顕在化する時点としての現在があるはずなのである。(永井における、無内包の独在性を有する「現在」とはそのようなものであるはずである。)

僕の意見に完全に賛同できるかどうかはともかく、このような二重の意味を持つ「現在」については当面、考慮から外したほうがいいと思う。

だから。未来と過去の対比なのである。