※続きの文章です。5200字くらいです。多分、まだ続きます。

先日書いた文章の続きが書きたくなったので書いてみる。

https://dialogue.135.jp/2023/07/02/irotoridorinosekai/

何万字の長文を書くとどっと疲れるので、夏バテ対策のために、当面は短文の連作にしてみようかな。

先日の文章では、形而上学と自然学を区分し、形而上学の視点からでは、この、僕の眼前に広がる内容豊かなイロトリドリノセカイを描くのは難しいと述べた。

では自然学の視点からならばイロトリドリノセカイを描けるのかというと、実はそれも難しい、というような話を、この文章ではしていきたい。(書いているうちにズレてしまいました。)

まず、形而上学と自然学の違いについては前の文章を読んでいただくとして、とりあえず、自然学の代表選手は自然科学だろう。僕は素人だから、とりあえず、自然科学について、ビッグバンから原子により構成される世界が生まれた、というような素人理解で話を進める。そのうえで僕は、自然学、ここでは自然科学がイロトリドリノセカイを描けていないと考えるのである。

常識的に考えて、自然科学はイロトリドリノセカイと深く結びついている。様々な種類の原子が構造化され、分子として結合したりもして、金属やプラスチックや花びらや誰かの睫毛になる。そのようなモノたちが集まり、このイロトリドリノセカイを作り上げている。このようなかたちで、自然科学は、このイロトリドリノセカイをうまく説明することに成功している。

だけど僕は、それは、自然科学がイロトリドリノセカイを描くこととは違うと思うのだ。自然学は、まず、このイロトリドリノセカイがあるところから始まる。前提として、水が入ったヤカンをコンロの火にかけるとヤカンの口から湯気が出るという、イロトリドリノセカイがあって、それに対して、水を熱すると水蒸気になる、というような自然科学的な説明がなされるのである。自然科学がイロトリドリノセカイを描くのではなく、イロトリドリノセカイという前提から自然科学が描かれるのである。つまり、自然科学の成果物としてイロトリドリノセカイがあるのではなく、自然科学の前提としてイロトリドリノセカイがあるのだ。要は、順序が逆なのである。僕はこれを問題としたいのだ。

僕が何を問題としているかわからない方もいると思うので、このような考察をする動機について述べておきたい。僕には、僕自身が確かだと思えたものしか受け入れたくない、という強いこだわりがある。だから、このイロトリドリノセカイも、そう簡単には受け入れたくない。僕にはそのような、多くの人と共有していないだろう動機があるのである。

もう少しきちんと述べると、普通に考えるならば、僕がこのイロトリドリノセカイを受け入れるということは、つまり、僕が認識する、このイロトリドリノセカイが真であることを受け入れるということであり、つまり、僕に偶然にも備わっている、この認識能力が、なぜか偶然にも、真実に到達する能力を持っていることを受け入れることである。多くの人はここに何の問題も感じていないように見えるけれど、僕には、このような話は、極めて疑わしいもののように思えるのである。この疑わしさをなんとかしたいというのが僕の動機である。

そこで僕は、イロトリドリノセカイを受け入れるためには、イロトリドリノセカイではない、もっと根源的な何かから、イロトリドリノセカイを導き出す必要があると、考える。そのような意味で、イロトリドリノセカイは僕の哲学の前提ではなく、成果でなければならない。このような問題意識から、僕は、自然学の代表選手である自然科学は、イロトリドリノセカイを成果ではなく前提として使っているという点で不満なのである。確かに形而上学にはイロトリドリノセカイに到達することが難しいという問題があるけれど、自然学だって、イロトリドリノセカイを前提として使っているだけじゃないか、という不満である。僕はこの不満を解消しようとして、こんなことを論じているのである。

この問題を、別の角度から述べることもできるだろう。それは、自然科学だって、ある種の形而上学じゃないか、という述べ方である。

自然科学は少なくとも二つのことを前提としている。

ひとつは、「僕に偶然にも備わっている、この認識能力が、なぜか偶然にも、真実に到達する能力を持っている。」という前提である。これは先ほど僕が疑わしいとして拒否した前提だが、この前提を受け入れるのが自然科学であるとも言える。

そして、もうひとつが、「僕も含めた人間はすべて、同種の存在であり、同様の認識能力を持ち、言語を通じて共通認識を持つことができる。」という前提である。

この二つの前提を受け入れるからこそ、自然科学は、実験や観察を通じて新たな自然科学的知見を獲得することができるし、その自然科学的知見を論文などで共有することができるのである。

そして、この二つの前提を受け入れることは、自然学的に無根拠であるという点で、明らかに、ある種の形而上学である。例えば、僕が好きな入不二基義の形而上学が、現実性や潜在性をいわば無根拠に導入している(※)のと同様に、自然科学という形而上学は、「私」の認識能力や、言語の機能や、人間の同種性を無根拠に導入しているに過ぎない。

(※僕は入不二の形而上学が、現実性のような概念装置を無根拠に導入しているとは思わないし、その根拠付けの鮮やかさが入不二の魅力なのだけど、自然学の立場からしたら無根拠に見えるのだろうと思う。)

いや、自然科学は、これほど見事に、この世界のあり方を説明できているのだから、そこには、哲学者が思いつきでひねり出した世界観とは異なる正しさがある、という反論があるかもしれない。確かに、相対性理論が日食の際の星の見え方のずれを予言し、GPSの位置補正に役立っているように、自然科学には、この世界における出来事を正確に予測し、それを実生活に役立てることもできるという優れた特徴があり、その見事さは、類を見ないものだ。

だが、そう言えるのも、「理論と観測の整合性が真実を表している。」という前提を受け入れるからであり、これもひとつの形而上学に過ぎない、とも言える。

このような僕の反論に対して、そんなことを言ったら、すべてが形而上学になってしまうではないか、という不満が出るのが目に浮かぶ。そう、そのとおりなのである。そのようにして、形而上学から抜け出ようとする試みがことごとく失敗してしまうということが大問題なのである。

僕は自然科学を否定しているのではない。ただ、イロトリドリノセカイとの関係性が、形而上学とは全く異なるのである。

簡単に図にするとこうなる。

前提:形而上学 → イロトリドリノセカイ → 成果:自然科学

僕はこのように考え、イロトリドリの世界の手前にある形而上学をやろうとしている。

ただし、自然科学だって無根拠な形而上学を前提に使っていると考えるならば、厳密には次のように書き換えるべきだろう。

前提:形而上学(自然科学のなかに含まれる形而上学性) → イロトリドリノセカイ → 成果:自然学(自然科学のなかに含まれる自然学性)

自然科学には、形而上学性と自然学性の二面性があり、それを丁寧に腑分けするべきなのである。念のため、ここでそれをやってみよう。

ここまでの考察で、自然科学には次の二つの前提があることを見出した。

1 「僕に偶然にも備わっている、この認識能力が、なぜか偶然にも、真実に到達する能   力を持っている。」という前提

2 「僕も含めた人間はすべて、同種の存在であり、同様の認識能力を持ち、言語を通じ  て共通認識を持つことができる。」という前提

(「理論と観測の整合性が真実を表している。」という前提については、1と2に含まれると考えられる。)

この二つの前提が自然科学のなかに含まれる形而上学性である。このような形而上学に基づき、僕を含めた全ての人間が、世界のあり方に直接アクセスできる認識能力を持ち、また、得られた知見を言語を通じて共有できるという世界観が描かれる。そして、そのような世界観に基づき、実際に知見が積み重ねられる。この具体的な知見の積み重ねこそが自然学としての自然科学である。

そして、きっと、この二つの前提、つまり形而上学としての自然科学が上出来だから、自然学としての自然科学は成功しているのだろう。

多分、自然科学の二つの前提は、多くの人の常識と整合している。おそらく、ホモ・サピエンスが氷河期にマンモスを追っていた頃からの常識だろう。そのうえで、形而上学としての自然科学が素晴らしいのは、それ以外の前提を混入させていないという点にある。例えば、神様が起こす奇跡とか、魔法とかといったものを混入させず、ただ自らの認識だけを信じ、そして、それを他者と言葉で伝え合い、または文字で記録し、共同体が知を共有する力だけを信じたから、自然学としての自然科学は成功できたのである。

また、だからこそ、自然学としての自然科学は完全に成功できないとも言える。自然科学における成功とは、このイロトリドリノセカイを完全に捉えることだとするならば、自然学としての自然科学は完全に成功することはできない。なぜなら、自然学としての自然科学とは、どこまでも、このイロトリドリノセカイから導かれる成果でしかなく、常に、イロトリドリノセカイが自然学としての自然科学に先行せざるを得ないからである。自然学としての自然科学はいつまでもイロトリドリノセカイを追い続けなければならない。

一方の、形而上学としての自然科学は、このイロトリドリノセカイを完全に捉えているとも言える。なぜなら、形而上学としての自然科学とは、揺らぐことのない前提であり、その定義上、このイロトリドリノセカイを完全に捉えるものでなければならないからである。(そのような立場を徹底したのが物理主義であるとも言える。)

なお、ここまで、自然科学を例にして論じたが、これは自然科学に特有の特徴ではない。どのようなものであっても、それが自然学である限り、このイロトリドリノセカイとの関係では、常に不完全でなければならず、そして、それが形而上学である限り、このイロトリドリノセカイとの関係では、常に完全でなければならないのである。

だから、自然学の優劣は、いずれもが不完全な自然学を並べ、どちらがよりマシかを比較することで決めることができる。例えば、自然学としての自然科学は、アミニズムのような他の自然学に比べて、より上手にこのイロトリドリノセカイを説明できることから、より優れていると評価することができる。

一方で、定義上完全なものでしかありえない形而上学の優劣を形而上学間で比較して決めることはできない。形而上学は、その完全とされる形而上学が本当に完全なのかどうかを、形而上学の内部で検討し、破綻がないかどうかを検証することしかできないのである。人はある特定の形而上学を無根拠に選び取ってしまったら、その内部から思考することしかできず、形而上学の外部に脱出するためには、その形而上学が抱える問題を形而上学の内部から見出すしかないのである。

僕には、形而上学としての自然科学を選び取った大多数の人たちが不思議なカルト集団のように見える。そして、この世界をうまく生きていくためには、このカルト集団に早く入信したいと願う。だけど僕は、僕の形而上学を抜け出ることができないから、それは叶わない願いである。

僕は、自らを形而上学者だと思っているけれど、僕がやっていることは、僕から遠く離れたところにある、真新しい形而上学的立場を発見しようとすることではない。僕は、僕が既にその内部に取り込まれてしまっている、僕の形而上学を明らかにしようとしているだけなのである。

そして、僕の形而上学とは、

前提:形而上学 → イロトリドリノセカイ → 成果:自然学

という図式すら、形而上学のなかに取り込んでしまうような、つまり、このイロトリドリノセカイすら形而上学のなかに取り込んでしまうような形而上学でなければならないと考えている。なぜなら、僕は、この問題を発見してしまったからである。

つまり、ある哲学的問題の発見とは、ある、新たな形而上学の内部への取り込まれでもあることになる。

僕は、形而上学の中で、そこから抜け出ようともがいているうちに、ある哲学的問題の発見、つまりタウマゼインにより、結局は別の新たな形而上学のなかに取り込まれてしまう、というようなことばかりしているのである。これが形而上学者の生き方であり、形而上学者の人生の味わい方なのではないか、と思う。

とりあえず、この文章はここまでとして、多分、イロトリドリノセカイ3に続きます。