※4200字くらいです。冒頭でも書いたけど、きっと問題の所在からして皆さんの賛同を得られなさそうな気がします。もし、ご理解いただける方がいらっしゃったら、ビールをおごりたい気分です。

ものごとをどうやったら知ることができるのかということが、長らく、僕にとっての大問題だった。どうしたら確実な知識を獲得できるかという問題と言ってもいい。

だけど、どうも他の人達は、これをあまり問題とは思っていないようで、既存の哲学書にも、参考になりそうなことはほとんど書かれていなかった。似たようなことは問題として捉えられていても、僕からしたら、その捉え方は浅くて、あまり役に立たなかった。

こんなことを書いたのは、だから僕は凄い、というような話をしたいからではない。この「知る」にまつわる文章を読む必要がある読者はほとんどいないだろうから、読む必要はない、ということを最初に書いておきたいだけだ。僕は、僕だけのために、この文章を書く。

こんなふうに書いていると、陽の光が届かないほどの深い海の底に独りで潜ったような気分になる。

「ものごとをどうやったら知ることができるのか。」

そんなことを高校生の頃から、ずっと考えてきた。当然、そういうことに思考が向かわない時期もあったし、意図的に考えないようにしていた時期もあった。だけど、心の奥底では、この問題が、ずっと引っかかっていた。

そうしたところ、ふと、この問題に対する答えを思いついた。だからこの文章を書いている。

その答えは、こういうものだ。

ものごとを知ることなどできない。ものごとは語ることしかできない。

僕の高校生の頃の問題設定は、中間・期末試験や受験の際のテストを雛形にしたものだった。テストには答えがあるように、ものごとにはすべて答えがあるはずだ。その答えをどうやったら知ることができるのだろうか。という問題設定である。

この高校生の僕の捉え方は、それほどおかしいものではないだろう。

例えば自然科学ならば、自然のなかに答えが隠されていると考える。ある仮説が正しいかどうかの答えは、実験結果のなかにあり、仮説に整合した実験結果となれば、それが答えとなる。そのような意味で、自然科学においては、自然という先生が隠し持っている答えを探し出そうとして科学者が四苦八苦している。

(僕は、このような帰納法的な作業により真実を知ることができるとは思えなかったけれど、)このような捉え方をする人は一定数いるように思える。

そのうえで、僕は自然科学的(帰納法的)な「知り方」に満足できなかったから、どうやったら知ることができるのかを、長年、色々と考えてきた、ということになる。

だが、僕はふと気づいた。

そもそも、学校のテストだって、学校の先生が持っている答えを、答えだと知ることなどできないではないか。

と言ってもどういうことかわからないと思うので、簡単なテストを例として用いて説明しよう。

「問:日本で一番高い山は?」というテストが出題されて、答えることができなかった人が、ドリルの別冊に書かれている「答:富士山」というような答えを見て、その答えが富士山であることを知る。これが、僕がイメージしてきた、理想的な「知り方」である。つまり僕はドリルの別冊を探し続けてきたのである。

だが考えてみれば、「富士山」という答えを見るだけでは、それが答えにはならない。それが答えとして成立するためには、「日本で一番高い山は富士山である」と僕が納得しなければならない。僕が抱く世界観のなかに、「日本で一番高い山は富士山である」ということを取り込まなければならない。

これは、「知る」というような受動的な作業ではなく、かなり能動的(もしくは中動的)な作業である。そのような意味で、僕は、学校のテストの答えを「知る」のではない。その能動性を強調するならば、僕は、テストの答えを「語る」のだと言いたい。ドリルの別冊を広げ、「富士山」という答えを見て、納得して閉じるとき、僕は、「日本で一番高い山は富士山である」と語り直しているのである。

僕は、学校のテストにおいて、答えを知ることはできず、答えを語ることしかできない。

そして、受動的に「知る」のではなく、能動的に「語る」のだ、ということは、テストの場面に限らず、知覚全般について言えるだろう。僕が、無数のヒマワリが咲く、ヒマワリ畑を眺めるとき、僕は、そこにヒマワリ畑があるのを知るのではない。僕は、そこにヒマワリ畑があると語っているのである。

自然科学の範囲で考えても、僕がヒマワリ畑の前に立つとき、僕の視覚に飛び込んでくるのは、無数の黄色と緑の(波長の)光である。受動的な意味では、僕はそれをヒマワリ畑だと知ることはできない。それをヒマワリ畑であると解釈するのは僕自身の脳であり、脳が能動的に、それをヒマワリ畑であると語るのである。(この受動的な一定の波長の光の知覚と、能動的なヒマワリ畑としての理解が双方向的に行われると考えるのが、平井のMTSである。)

(僕は自然科学の範疇にとどまることはできないけれど、)このような自然科学の場合を例とするならば、すべての知覚について、実は、能動的に語っているという側面があることは確かだろう。

このように、ものごとについては、知ることなどできず、語ることしかできない、ということは僕にとっては重要な発見である。

特に重要なのは「知る」と「語る」とでは、その答えの所在に違いがある、という点である。知る場合には、その答えは知られる客体の側にあるが、一方で、語る場合には、その答えは語る主体の側にあるのである。

だから、知ることは間違いがありうるが、語ることに間違いはありえない。僕がヒマワリ畑があると語るならば、それは絶対的にヒマワリ畑があると語っているのである。それが実はヒメヒマワリ(という似た花があるみたいです)だったと後で判明したとしても、僕がそれをヒマワリ畑であると語ったことは揺らぐことがない。

当然、これはヒマワリ畑に限るものではなく、この世界の捉え方全般に及ぶ。そして、この世界の捉え方全般のことを哲学と呼んでよいのならば、僕はすでに哲学上の答えを手中に収めており、決して誤ることができないかたちで、哲学を語ることしかできない。

僕は、決して誤りのないかたちで世界を把握したいと高校生の頃から願ってきたけれど、それは最初から、ある意味、容易に到達していたのである。僕が願っていたのとは全く向きが逆ではあるけれど。

ここまで僕が述べてきたことは、ある哲学的立場に依拠したものではない。僕は、哲学を述べ始める手前の話として、この話をしたいと考えている。

だが、残念ながら、それはかなり困難な作業となるだろう。なぜなら、今ここでやっていることは、「語る」ことについて「語る」ということだから、すでに哲学が始まってしまっているからである。

ただ、複数の哲学的立場を列挙することで、ある哲学的立場に依拠したものではないことを示せるかもしれない。

例えば、永井哲学的には、「語る」僕自身の特権性と、〈私〉の独在性とを重ね合わせることができるだろう。「語る」僕自身に世界のあり方の答えがあるということと、〈私〉において世界が開闢しているということは重なる。だから、僕自身ではなく、他者がヒマワリ畑があると「語る」場合、もし僕が実はヒメヒマワリだと知っていたならば、それは端的にに誤りとなる。「語る」ことが誤りとなりえないのは、僕自身、つまり〈私〉にそれがヒマワリ畑であるという信念があるからである。

また、入不二哲学的に述べるならば、現実性のなかに含まれる根源的な肯定性は、この、僕の語りの肯定性と重なるはずだ。

入不二によれば「「現に」ソクラテスは哲学者である」ように、「現に」というかたちで現実性を示すことができる。どのような文であっても、たとえそれが「「現に」ソクラテスはユーチューバーである」という文であっても同様である。なぜなら、その文が現に発話されてしまえば、「現に」という現実性が「ソクラテスはユーチューバーである」という文章には付与されるからである。

もし、「ソクラテスはユーチューバーである」という文には現実性が付与されないと感じるならば、それは、この文を僕が現に語っていないからだろう。僕が「語る」ならば、それが現実であり、それは決して誤ることがないという意味で、根源的な肯定性を有しているのである。

更に、自然科学においても、僕の「語り」を自然科学上の仮説と捉えるならば、僕の語りは、実験等により反証が示されるまでは正しいものと見做される。「同じ高さの塔から、二つの物を同時に落としたならば、(空気抵抗を考慮しなければ)重いものは、より早く地面に落ちる。」という仮説を僕が語ったならば、反証が示されるまでは僕の語りは正しい。

また、仮にピサの斜塔から鉄球とリンゴを並べて落とすことで、僕の仮説の誤りが判明したとしても、そのような実験を促したという意味で、僕の仮説の肯定的な価値は永遠に残り続ける。

永井、入不二、自然科学という3つの例は全く同じことを述べてはいないけれど、類似性がある。この類似性により、僕がこの文章で本当に語りたいこと、つまり、哲学を始める手前の話について、何らか指し示すことに成功している、と僕は考えたい。

なぜ、この指し示しが難しいのかといえば、「語る」ことについて「語る」という問題があるのに加えて、僕が語りたいことが、動的なものだからだ、ということもあるだろう。

僕が「語り」を重視することで描写したいのは、すべての人のすべての「語り」が根源的な肯定性を持っているような世界のあり方である。この世界には、人間の数だけ、いや発話の数だけ、世界のあり方の描写がある。その無数の世界観が肯定的に並立し、そして、対話というネットワークで全体として緩やかにつながっている。僕がイメージしているのはそのような世界である。

だが、このイメージには、複数性が無根拠に混入されてしまっている。だから複数性を排除し、唯一のこの僕のこの今のこの言説だけが根源的な肯定性を持っているという世界を重ね書きしておく必要もある。だがそのような側面を強調すると、それは絶対的な揺るぎない肯定性となってしまう。複数性を避け、唯一性を強調すると、逆にその唯一無二の絶対性が無根拠に混入されてしまうのである。

この問題を解決するためには、少なくとも、僕が描こうとしている世界は、複数性と唯一性を動的に包摂するようなあり方をしていなければならない。

今後は、こんな世界のあり方を、もう少し解像度を上げて描写したいと考えている。