※ブログが壊れたので作成し直しました。多分これは8月6日に書いた文章です。2300字くらいあります。

最近、僕は、形而上学と自然学についていくつか文章を書いてきた。この文章はその続きである。(なお、この文章では、自然学のなかで最も成功した自然科学を、自然学の代表例として扱う。)

ふと思ったけれど、自然(科)学が何をしているのかといえば、自然を解像度を上げて捉え直す作業をしているとも言えるのではないだろうか。

どういうことかというと、僕たちは、自然科学を学ぶことで、温度計を使って水の温度を測ったり、顕微鏡を使って細胞の構造を覗いたりできるし、水上置換して調べたい物質だけを取り出すこともできる。夜空の星のなかから、惑星と恒星を見分けることもできる。このようにして、僕たちは、自然科学を知らなかったときよりも、より精緻にこの自然を捉えることができる。

僕は、自然科学の意義とは、ここにこそあるのではないかと考えるのである。

だが、このような僕の捉え方は、自然科学の一面しか捉えていないと考える方が多いだろう。一般的には、自然科学がやっていることはそれだけにとどまらない。自然科学は、例えば、普遍的な法則性を発見する。やかんの水がコンロで熱せられるという現象を観察して、ちょうど100度になると水が沸騰することを発見する。この発見が、単なる自然の精緻な把握に留まらないのは、それが、眼前に広がる自然の一部としてのやかんの水についての発見ではなく、未来のまだ見ぬ沸騰現象にも適用される、普遍的な法則性の発見だからである。

また、自然科学は、そこから倫理的な主張を引き出したりもする。「生物とは遺伝子の乗り物であり、人間を含めた生物は、究極的には子孫を残すために生きている。」とか「生命が住むことができる惑星は太陽系内にはないから大切にしましょう。」というような主張である。

僕は、これらの自然科学の営みは全然成功していないと考える。普遍的な法則性を無根拠に導入するのは極めて不適切だし、自然科学からひねり出された倫理的主張は、凡庸でつまらないからだ。

だからこそ僕は、自然科学の意義は、自然を精緻に捉えることだけに絞ったほうがいいように思うのである。

同じことが、僕が自然学と対になる(と僕が考えている)、形而上学についても言えるように思う。自然学とは、自然を解像度を上げて捉え直す作業であるとするならば、形而上学とは、思考を解像度を上げて捉え直す作業であるとも言えるのではないか。つまり、自然学と自然、形而上学と思考という対比ができるのではないか。

僕たちは、形而上学を学ぶことで、哲学書に書かれた形而上学的議論の思考の流れを精緻に追えるようになるし、自らの思考の流れについても精緻に捉え直すことができるようになる。僕は、形而上学がやっているのは、こういうことだと考えるのである。

だが、このような僕の捉え方は、形而上学の一面しか捉えていないと考える方が多いだろう。一般的には、形而上学がやっていることはそれだけにとどまらない。形而上学は、例えば、デカルトがやったように、夢の懐疑のような思考実験を通じて、疑うことができない私の存在を発見する。または、発見にまで至らなくても、時間は流れるか、流れないか、というような議論を展開することもできる。この発見や議論が、単なる思考の精緻な把握に留まらないのは、それが、思考を超えた世界における事実についての発見や議論であるからである。

僕は、このような形而上学の営みは全然成功していないと考える。なぜなら、発見にせよ、議論にせよ、それが観察された事象に基づくものである限り、それは形而上学ではないからである。いわば、形而上学に自然学が混入されてしまっているのである。

僕は、形而上学を純粋なかたちで捉える限りは、形而上学の意義は、思考を精緻に捉えることだけに絞ったほうがいいように思うのである。

このように自然(科)学と形而上学を並列に述べることで明確になったと思うけれど、僕が問題にしているのは、形而上学への自然学の混入であり、そして、自然(科)学への形而上学の混入である。100度で水が沸騰するという発見を未来の沸騰現象にも適用される普遍的な法則として扱うことは、ひとつの形而上学であり、それが自然科学に混入されていることを僕は問題視している。また、時間が流れる感じという観察可能な事実を前提として、実は時間が流れるか、流れないかを議論することは、観察により把握された自然学的成果が形而上学に混入されているということであり、僕はそれを問題視している。

この僕の指摘に対して、普遍的な法則がなければ自然科学は成り立たないし、観察可能な事実を何らかのかたちで用いなければ形而上学はできないという反論があるだろう。つまり、自然(科)学への形而上学の混入は不可避であり、形而上学への自然学の混入は不可避だという指摘である。

僕は自然(科)学や形而上学の構築の場面では、その指摘を認めるけれど、それでも、自然(科)学や形而上学の活用の場面では、両者を完全に切り分けることができるのは明らかだと考える。ここまでの議論で明らかになったとおり、僕たちは、自然(科)学だけを使って、自然を解像度を上げて捉え直すことができるし、形而上学だけを使って、思考を解像度を上げて捉え直すことができるのである。これが、この文章で述べたかったことだ。

この文章において、自然学と形而上学、自然と思考、過去と未来(このことは別の文章で書きました)といった対比がヨコの対比だとするならば、それを貫くように、構築と活用というタテの対比があることを発見した。今後は、このタテの対比が何なのか更に考える必要がある。きっと、対話における話し手と聞き手の対比と似たものではないかと予想している。