※この文章を載せようとしたら、ブログが壊れたので色々苦労しました。3000字ちょっとあります。

僕の文章に、何度か登場している曽我部恵一というミュージシャンが「瞬間と永遠」というアルバムを出していて、同名の曲もも収録されている。

「瞬間と永遠」という言葉は、時間論が好きな僕にとって、懐かしいほどに馴染みがあって、それでも僕を引き寄せ続けるような魅力がある。

瞬間と永遠について想像してみよう。なるべく具体的に。

このうち、瞬間について、具体的なイメージを掴むのは比較的容易だろう。僕は今、パソコンで文章を書いているけれど、そのような営みをしている、この瞬間のことである。この文章を読んでいるあなたなら、そのような営みをしている、この瞬間のことである。

数時間前、布団から出るときにも瞬間はあったはずだし、数時間後、布団に入る瞬間もあるはずだけど、瞬間とは、その瞬間ではない。いや、布団から出るときや、布団に入るときの瞬間を瞬間と呼んでもいいのだけど、本当に切実な瞬間とは、そのような過ぎ去った瞬間や、まだ到来していない瞬間ではなく、この眼の前の瞬間である。

だけど、一方で、数時間前や数時間後にも瞬間があるというのも重要なことで、そのような過去や未来の瞬間があるからこそ、この瞬間は切実で愛おしいものとなる。瞬間には、やがて別の瞬間により上書きされていくという、切なさがつきまとっている。

きっと、瞬間にとっては、時間の長短よりも、この切実さや、愛おしさや、切なさが重要なのだろう。だから、人間の人生なんて一瞬である、なんていう言い方もできる。ビッグバンにより宇宙が誕生してからの138億年と言われる膨大な時間経過からすれば、数十年というのは一瞬でしかない。だけど、重要なのは、「138億年:80年」という比率で表現できるような客観的な事実から人生の瞬間性が導かれるのではない、という点にある。10億分の1なら瞬間で、1億分の1だと瞬間ではない、とはならない。人間の人生なんて一瞬である、という言葉は、そのような客観的事実についての表現ではなく、ちっぽけな人間の存在に対する、愛おしさや、切なさのような感情に由来するものなのである。

僕は時間論が好きで、時間論マニアと言ってもいいと思うけれど、そうではない大多数の人と、以上のような瞬間についての描写をイメージとして共有できていると思う。瞬間には、切実で愛おしく、どこか切ないイメージがつきまとっている。それは確かだろう。

一方の永遠については、具体的なイメージを思い浮かべるのが難しい。なぜなら、人間は、瞬間を(飽きるほどに)経験することはできても、永遠を経験することはできないからである。

その問題をある程度まで解決したのが、ニーチェが発明した、永遠回帰という概念であろう。永遠というと、僕が死に、人間も絶滅した後の遠い未来をイメージするような、手の届かなさがあるけれど、ニーチェの永遠回帰がすばらしいのは、それを、手が届いてイメージがしやすい、この瞬間の無限の反復であると捉え直したところにあると思う。

確かに、無限の反復だってイメージは難しいけれど、人類絶滅後の遠い未来に比べれば扱いやすい。人類絶滅後の遠い未来を想像するためには、無限の遠さに加えて、その未来に至るまでの無限の瞬間を具体的なイメージで埋める必要があるけれど、永遠回帰によるならば、無限の遠さだけを扱えばよく、その未来に至るまでの無限の時間は、この瞬間の無限の反復という具体的なイメージで埋めることができる。ニーチェは永遠回帰という概念を発明することにより、永遠につきまとう、無限と具体的内容の欠如という二つの問題のうちの一つを片付け、無限の問題に注力することを可能にしたのである。

この文章において僕が取り扱うのは、上記のような意味での瞬間と永遠である。つまり、この瞬間と、この瞬間の無限の反復としての永遠である。

さて、そのうえで、この文章で僕が何を書きたいかというと、僕がいかに生きるべきか、という問題についてである。僕は、自分自身が、このような意味での瞬間と永遠を生きている。つまり、この瞬間と、この瞬間の無限の反復としての永遠を生きている。そのうえで、僕はいかに生きるべきなのだろうか。

いかに生きるべきか、というのは難しい問題だけど、この瞬間と、この瞬間の無限の反復としての永遠を生きていることを前提とすることで、多少は答えやすくなるのではないだろうか。

導入部は長かったけれど、この問題に対する僕の答えは単純なものである。

僕は、この生における瞬間を、ただ一回限りの切実で愛おしく、どこか切ないものとして受け止め、それを味わうようにして生きるべきなのだろう。これが、瞬間と永遠のうちの瞬間に対応する部分である。

そして、そのうえで、その瞬間における僕の行動の選択が、永遠回帰として、無限に反復されるという覚悟をもって生きるべきなのだろう。これが、瞬間と永遠のうちの永遠に対応する部分である。

つまり、世界と僕との関わりという観点から捉えるならば、世界から僕へといういわば感覚的な向きにおいては、僕は瞬間を生きるべきであり、そして、僕から世界へといういわば行為的な向きにおいては、僕は永遠を生きるべきなのである。

これをカント的に言い換え、理論理性と瞬間が結びつき、そして、実践理性と永遠が結びつくと言ってもいいだろう。

ここまでは、きっとカントやニーチェが言っていることの範囲に収まっているだろう。

僕が独自に追加したいのは、この瞬間と永遠の二面性とは、つまり、この現在の二面性であり、現在という瞬間が未来と結びつき、そして現在という永遠が過去と結びついているというアイディアである。

まだ見ぬ真新しい未来が、現在として訪れるとき、僕はその訪れてくれた未来という訪問客を、ただ一回限りの切実で愛おしく、どこか切ない瞬間として受け入れるべきである。「べき」というと他に選択肢があるように思えてしまうので、より正確には、未来はそのように受け入れるしかなく、そのことに自覚的になるのが、未来を自覚的に受け入れるにあたっての、唯一のやり方なのである。

そして、現在が過去となり、過ぎ去るとき、僕は、その瞬間が無限に反復されるという覚悟をもって見送るべきである。これについてはそうしない選択肢もあるから、まさに、そのようにす「べき」である。僕は現在を永遠として扱い、過去に送り出すべきなのである。

僕のこのアイディアは、認識が行為に先行し、理論理性が実践理性に先行するという点に着目したものである。現在という瞬間には、認識と行為という側面があり、いわば理論理性と実践理性が同居しているけれど、より詳細に分解するならば、現在のなかにも、認識から行為へ、理論理性から実践理性へ、という前後関係がある。その前後関係を、現在という瞬間における一回限りの瞬間と、永遠回帰としての瞬間という二面性と対応させることで、先行する認識=理論理性=一回限りの瞬間、後続する行為=実践理性=永遠回帰としての瞬間というように結びつけることができるのである。

これが、未来、現在、過去という時制と、瞬間と永遠と、理論理性(認識)と実践理性(行為)とを結びつけるという僕のアイディアである。

このアイディアを受け入れるならば、僕の人生のスローガンはこうなる。

僕はこの現在において、未来を一回限りの瞬間として大切に受け止めよう。そして、その瞬間が無限に反復される覚悟をもって行為しよう。

そんなふうに生きることができたら、なんてかっこいいだろう。だけど、怠け者の僕は、そんなの無理だともあきらめたくなる。なんというか優等生すぎるのだ。

それでも、そこには、理想主義的ではあっても、反論を許さない正しさがあるように思えるのも確かだ。きっと、僕が導き出した結論は、僕が実際にそのようにできるかはともかくとして、かなり正しいものなのだろう。

多少なりとも、その理想に近づけるよう、曽我部恵一の『瞬間と永遠』を聴こうかな。