※1500字くらいです。一昨日書いた文章の続きです。
一昨日、僕は、「言葉により、哲学的主張を成立させることができる。」ということを問題にするような哲学に出会ったことがない、といったことを書いた。(『哲学ゲームと哲学対話ゲーム』https://dialogue.135.jp/2023/12/28/game/)
だけど、早速、そんな哲学に出会ってしまった。『現代思想』2024年1月号に載っている、納富信留の『「ある」とはどのようなことか?』という文章である。
納富は、「ある」が指し示すものは存在に限らないとし、「「ある」は「そうである」と語られるように、ギリシア語では「真である」を含意する。それゆえアリストテレスは「ある」は真理を意味すると語っている」(p.16)と述べている。
納富の議論の流れとは違うが、このことを「存在イコール真理」としよう。そうすると、例えば、「お餅の上にミカンがある」とは、お餅の上にミカンが位置づけられるかたちで存在するということであり、かつ、お餅の上にミカンが位置づけられていることが真である、ということになる。また、「僕の娘は会社員である」とは、僕の娘が会社員という属性を持って存在するということであり、かつ、僕の娘が会社員という属性を持つことが真である、ということになる。
そのうえで僕は、この「存在イコール真理」の「ある」は「成立」という言葉で置き換えられるように思うのだ。つまり、「お餅の上にミカンがある」とは、お餅の上にミカンが位置づけられているという事態が成立しているということであり、「僕の娘は会社員である」とは、僕の娘が会社員という属性を持つという事態が成立していることなのではないだろうか。
この鏡餅や僕の娘に関する描写が哲学的主張であるとするならば、これらは、「言葉により、哲学的主張を成立させることができる。」という、僕の冒頭の問題の一例である、ということになる。つまり、納富の「ある」の問題領域は、僕の問題領域と重なる。
納富は、「「ある」が存在よりもひろくあらゆる「ある」に関わるとしたら、どうだろう。」(p.18)とも述べる。納富は「ある」という言葉遣いから考察を始めているので、このような述べ方しかできない。だが、きっと、納富が意図しているのは、「ある」という言葉遣いに限定されない、すべての事態の成立についての問題提起であると僕は解釈したい。あえて「ある」という言葉を用いるならば、究極的に全面化した「ある」であり、「ないという事態がある」というかたちで「ない」をも包摂した「ある」である。僕は、ここに入不二の現実論との繋がりを感じる。
そのうえで納富は、「真の「ない」に到達できるのか。それは、こうしてそう考え、今ここに文字を書くこと、それを意味することもできない・・・本当にそう自覚できているのか。そのはるか向こうに、私たちは完全な「ない」の深淵を垣間見るのだろうか。」(p.19)と問題を提起する。これは、「ないという事態がある」という「ある」すらも「ない」ということであり、僕の言葉によるならば、「言葉により、哲学的主張を成立させることができない。」という事態に思いを馳せた描写である。多少飛躍があるかもしれないが、僕には、そのように読むことしかできない。
「「ある」とはどのようなことか。」という納富の問いは、僕なりに言いかえるならば「言葉により、哲学的主張を成立させることができるのか。」という問いであり、まさに、雑誌の特集名である「ビッグ・クエスチョン」だと思う。そして、この問いを変に矮小化して無理に答えようとせず、ただこの問いの巨大さを表現することに専念した納富の姿勢も、「ビッグ・クエスチョン」という特集名に即した潔いものだと思う。