※1200字くらいです。

哲学とは、思考の固定化である、という側面があるだろう。思考を言葉で捉え、それを固定化して再現可能なものとするのである。だから哲学においては書くという行為がつきものである。書き残すことで思考を固定化し、読まれて思考が再現される可能性を残すのである。

これは僕の実感でもある。日頃から僕は哲学的なことを色々と考えている。僕は、思考で遊び、思考は発散していく。遊んでいる最中に、これは面白いアイディアだから書き残しておこうと、ふと思う。だけど、遊んだ先にもっと面白いことが待っていそうな予感があるから、書き残すのは先送りして遊び続ける。そうこうしているうちに、お腹が空いてご飯を食べたりして、いざ書いてみようとすると、考えたことの半分くらいしか思い出せない。書き残され、固定化される思考は一握りである。

そもそも思考というフィルターがあるから、哲学においては、思考されないものは、まず取り逃がされてしまう。そのうえで、思考されたものでも、書き残されなかったものは哲学から取り逃がされてしまう。哲学には二重のフィルターが組み込まれているから、哲学の領域の外には、思考されなかったものや書き残されなかったものたちが眠っている広大な領域がある。

なお、思考が書き残されなかった理由は、忘れられてしまったからだけではないだろう。思考しているときにはうまくいきそうだったのに、いざ書いてみると矛盾があったり飛躍がありすぎたりしてうまく書けないことがある。だからと言って、その思考は単なる間違いで無駄なものではない。そこには、言語化は困難だけど、何か、重要なことが眠っているという予感がある。きっと、言葉という道具には、可能・不可能とまでは言わないけれど、得手・不得手があって、言葉が不得手とするような思考を書くことは、そもそも難しいのだろう。

だけど僕は書くことが好きだ。それも、言葉で捉え難いことを書くのが好きだ。書くとは、地下の奥底に眠る水脈から水を汲み上げるような作業なのではないだろうか。その困難さを強調するなら、油田から原油を汲み上げるのでもいい。深い地層には、これまで誰も書かず、よって哲学で捉えられてこなかった広大な領域が現に広がっている。そこに言葉を穿ち、思考を汲み上げる。つまり、これまで誰もが思考できなかったことを思考し、これまで誰もが書き残すことができなかった思考を書き残す。そのような営みは現に可能であり、僕はそういうことをしてきたという自負がある。僕は生きている限り、そういうことを続けていきたい。

本当は、僕は、生きているうちにすべてを捉えきりたいと願っていた。僕は、思考できなかった領域や言葉にできなかった領域を丸ごと残さず捉えきってから死にたいのだ。だけど、それは難しそうだから、せめて、死ぬまでに、ポンプで汲み上げるようにして、できる限りの真実の断片を汲み上げていきたい。それは当初の目標よりは控え目だけど、それでもワクワクするような、十分野心的な目標設定だと思う。