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哲学者であることの傲慢さ

僕は、傲慢にも自分のことを哲学者だと思っている。と言っても、カントやヴィトゲンシュタインのような高名な哲学者と肩を並べる哲学者だと思っていることが傲慢なのではなく、そもそも、哲学者と名乗ることが傲慢なのである。

ということで、まず、本題に入る前に、僕が、自分のことをカントやヴィトゲンシュタインに肩を並べる哲学者だと思っていることについて一言。

なぜ、そんなふうに思っているかというと、僕は僕自身の哲学の問題を扱う哲学者であり、彼らは彼ら自身の哲学の問題を扱う哲学者である、という点で全く対等だからだ。それどころが、僕は、僕の哲学の問題については、並ぶ者などいない唯一の哲学者であるとさえ思っている。それは、別に傲慢ではなく、哲学というものが、そもそも、そういうあり方をしているだけのことに過ぎない。

僕の傲慢さは、自らを哲学者と名乗り、そうではない人、つまり非哲学者と比べて特別な存在だと考えていることに由来する。哲学とは特別な、選ばれし者だけが行う営みである、という思い込みが、僕の中にはある。

僕には哲学を強いるような啓示があった。タウマゼインと言ってもいい。そのような啓示が訪れた、選ばれし者だけが、哲学をできるし、哲学をせざるを得ない。僕には、そのような特別さがある。これが僕の傲慢である。

三分の一としての哲学

その傲慢さは、哲学ではないものの軽視につながっている。哲学ではないもののことを生活と名付けるならば、僕は、傲慢にも、非哲学者による生活の営みを軽視している。非哲学者、つまり生活者を軽視している。

僕は、僕の人生において多くの時間を哲学に費やしている。僕はふつうのサラリーマンなので、仕事をしたり寝たり食べたりする時間(あんまり家事はしてません。すみません。)を除くと、僕に与えられた時間は、それほど多くはない。どれほど多く見積もっても、僕が自由に使える時間は、平日は2時間、土日は8時間程度であり、週26時間というところだろうか。そのうち、週8時間くらいは哲学に費やしているように思う。そんな詳細はともかく、僕には、僕に与えられた時間や体力といった資源のうち、およそ三分の一くらいを哲学に費やしている、という僕の実感がある。

僕は生活の三分の一を切り詰め、哲学に充当している。そのようなことを続けるには、生活を軽視するという傲慢さがなければやっていけない。

哲学の遡及性と生活の順行性

ところで、どうして僕がここまで、哲学と生活を対立させ、両者を並び立たないものと位置づけているのかというと、その営みの方向性が真逆だと思うからだ。

どのように真逆かというと、それを正確に述べることが、まさに哲学の大問題なのだけど、あえて、わかりやすさ優先で不正確に述べるならば、次のようなイメージである。

神様が、この世界をつくり、この人生を与えたとする。当然、神様というのは、お祈りすると願い事を叶えてくれる、あの神様のことではなく、ビッグバンで始まる世界を創造し、僕たち生命を創造した神様のことである。ここでの神様とは、根源的な創造以外には何もしてくれない創造神のことである。

哲学とは、この創造神による創造の謎を解き明かし、創造神による創造を遡るようにして、この世界やこの人生のあり方を解き明かそうとする営みであるとも言える。この創造の地点へと遡ろうとする方向性とは、哲学が持つ、遡及的な方向性である。

一方で、生活とは、この創造神による創造を疑うことなく、その創造に乗っかるようにして、創造された世界や人生を所与のものとして、その範疇内で行われる営みである。生活には、創造を疑わず乗っかるという、順行的な方向性がある。

このように、生活とは、創造に対して順行的な方向性を有する営みであり、哲学とは、創造に対して遡及的な方向性を有する営みである、という対比が成り立つ。これを、生活の順行性と哲学の遡及性と名付けることにする。

なお、ここでは、わかりやすくするため、創造という視点を用いたけれど、きっと、真理など、他のものを使っても同じようなことが言えるだろう。

また、哲学に対比するものとして、生活という言葉を用いたけれど、生活が指し示す意味は、いわゆる日常生活にはとどまらない。

遡及性と順行性という観点から述べるならば、たいていのものごとは順行性を持つ中で、哲学が持つ遡及性は極めて例外的なものである。きちんと精査はしていないけれど、多分、哲学を除く全ての営みは順行性を有するのではないか。壮大な宇宙論であれ、極めて理念的な数学であれ、宇宙や数学が創造されたことを受け入れ、その所与の被創造物についての謎を解き明かそうとする営みであるという点で、順行的である。そのような意味で、哲学を除けば、宇宙論や数学等の学問も含め、ほとんどの営みは順行性を持ち、それらはすべて生活に含まれる。

二つの反論への応答

いや、数学とは、世界のあり方に関わらず、単に数学的なルールに基づき、何を語ることができるかを明らかにする営みであり、世界の創造を受け入れたものではない、といった反論があるかもしれない。だが、それが反論として成立するのは、その反論が、すでに哲学上のひとつの主張となっているからであり、つまり、数学ではなく哲学になってしまっているからである。数学において、数学とは何かを問うことはできない。数学とは何かを問うことができるのは、数学についての哲学である。

また、哲学のなかには、世界のあり方に対して疑いを差し挟まず、所与のものとして順行的に考察を進めるようなタイプの哲学もある、という反論があるかもしれない。確かに、倫理学などは、そうなりがちなタイプの哲学であろう。世界や人生が創造されたことは所与のものとして受け入れ、それでも解決できない謎、例えば、善とは何か、といった問題について考察するのが倫理学だと言えるからだ。

この反論に対しては、そのような倫理学とは、僕が考える哲学ではない、と応答したい。哲学と生活という区分によるならば、倫理学とは生活なのである。(ただし、倫理学の中にも、遡及性を有し、哲学と呼ぶべきものもある。どれがそうなんだ、と言われると難しいのだけど、大抵の哲学は、遡及的な部分と順行的な部分が混在しているように思う。)

ということで、きっと、哲学を除くすべての生活の営みは順行性を有する。というか、本来、順行的なものである生活の中に異物として混入している遡及性を有する営みのことを哲学と呼んでいる、と言ってもいい。

このように、哲学と哲学以外の営み、つまり生活は鋭く対立している。

人生の余白

僕は、そういう特別なものである哲学という営みを人生の三分の一もかけてやっているから、僕は世の生活者と違っていて特別だ、という自負がある。僕が哲学者であることの傲慢さとは、そういうことである。

だが、当然、その傲慢さは、負け惜しみでもある。僕は、他の人たちは問題にもしていない哲学の問題に囚われ、そこから身動きできていない。僕は、生活者としてスタートラインにすら立つことすらできていない。と言うと大げさかもしれないけれど、少なくとも僕には、人生の三分の一を哲学に振り分けざるを得ないというハンディがある。僕の傲慢さとは、そんなハンディのある人生を背負っている僕の負け惜しみである。

なお、僕は、この歳まで普通に仕事をして、家族を持ち、それなりに周囲と上手にコミュニケーションをとって生きてきた。だから、傍目から見たら、生活者としてそれなりにうまくやっているように見えるかもしれない。だけど、僕には、この世界にうまく馴染めていないという感覚が常につきまとっている。職場での人間模様や、プロ野球の勝敗、流行りの音楽、人生でのささやかな夢、飲み屋で繰り広げられる他愛もない話、そういったささやかなものたちに満ちたこの世界への違和感である。

僕は、そういった、人生の余白のようなものは全て切り捨てて生きてきた。なぜなら、そうしないと、人生の三分の一を哲学に振り分けることができないからであり、そういったものを切り捨てないと、哲学はできないからである。

切り捨てるのは人生の余白を生きる時間だけではない。僕は、人生の余白を生きる意欲も切り捨てている。哲学に没頭するあまり、僕にとって、ささやかな人生の余白は色あせたものになってしまっている。

ささやかで輝かしい生活

なお、ここで人生の余白という言葉を使っているけれど、これは決して、無駄なもの、という意味ではない。僕の手元にないものだから、普通の人より明確に捉えられているのかもしれないけれど、この余白とは、まさに人生そのもののことである。他愛もない、ささやかな人生こそが、人生というものの本質であり、僕が手に入れたくても手に入れられないものなのである。

そう言いたくなる動機は、哲学からは離れてしまうけれど、僕自身の子供時代に由来しているかもしれない。僕は、いじめられっ子で、いわゆる陰キャで、クラスの中心にいる陽キャの人たちが羨ましくて仕方がなかった。また、僕の父親は色々と変わった人で、普通のお父さんがいる、普通の家族が羨ましくて仕方がなかった。

振り返ってみれば、僕のような人など世の中にはいくらでもいて、もっと大変な状況の人もたくさんいるはずだろう。だけど、子供のころの僕は、とても特別な状況にいると感じていた。そのような(自己認識としての)生い立ちの特別さと、哲学上の悩みという特別さが偶然にも重なってしまったのかもしれない。

当然、僕の生い立ちの特別さと、哲学上の問題を抱えることの特別さは明確に切り分けるべきだけど、現に、こうして生きてきた僕には、厳密に切り分けることはできない。

だから、哲学の問題を解決し、哲学から解放された後に広がっているだろう輝かしい生活と、クラスの中心にいる陽キャの人たちが繰り広げている(と思っていた)輝かしい生活とは深く結びついている。僕にとっての人生の余白とは、そういう輝かしい生活のことである。

大人になること

このような捉え方は、まさに中二病的なものであり、哲学とは、中二病患者の戯言に過ぎないと言われるかもしれない。確かに、そのような側面はあり、僕は、中二病ウィルスを忘却し、捨て去るのではなく、中二病ウィルスを正面から打ち負かそうとして、治療が長引き、ついつい、ここまで年齢を重ねてしまったような気もする。

きっと、中二病の治療法には、忘却と論破という二通りのやり方があるのだろう。いずれのやり方によるにせよ、中二病から治癒することで、僕たちは、大人になっていくのだ。

論破と思想

当然、忘却のほうが中二病治療としては即効性があって適切だ。一方の論破のほうは、中二病の種類にもよるけど、完全にウィルスを打ち負かすのが難しい。

なぜなら、たいていの中二病は、突き詰めると哲学の問題につながっているからだ。哲学の問題をひとつでも完全に論破できたら、人類史上最高の大哲学者になれるはずだ。(ある種の)中二病を論破して治癒することなど無理な話なのである。

だから僕は、世の中にたくさんある、思想というものに懐疑的だ。

僕は、思想とは、哲学の問題を論破できたと主張することだと思っている。

例えば、人権思想という、人間には共通で一律の権利がある、と考える思想がある。そこには、イルカや人間そっくりのアンドロイドは人間に含まれるのか、といった、様々な哲学的な問題があるはずだ。だが、人権思想が思想であるためには、そういう問題はない、と言い切らなければならない。少なくとも、そういう哲学的問題によって人権思想の根幹が揺らぐことはない、と言い切らなければならない。

僕は、この「言い切り」こそが論破の正体であり、思想というものの危うさだと思っている。

そして、中二病を忘却により治癒するとは、つまり、この「言い切り」を受け入れ、思想を持つことだとも言える。子供の幼稚な言いがかりのような哲学的疑問を切り捨て、大人になり、本当に大事なことに注力するためには、思想を「言い切る」ことが必要なのである。

だけど僕は、中二病を切り捨てて忘れ去り、哲学の問題を論破したと主張し、思想を持った大人は、どこか不誠実だと感じる。

大人になることの効用

とは言っても、そこまで無理をしてでも、大人になろうとする気持ちはよくわかる。

大人になることで、ようやく、首尾一貫した世界と人生という土俵を準備でき、そこから土俵の上で相撲を取る、つまりささやかで輝かしい生活をする、という次のステップに進むことができるからだ。

僕は、大人になることができていないから、この世界や人生を首尾一貫したかたちで把握することができていない。というか、まさに首尾一貫したかたちで把握しようと苦闘している。そのことに精一杯だから、この世界や人生の具体的なものごとに正面から向き合うことができていない。僕は相撲を始めることができていない。

この創造された世界は、具体的なものごとに満ちている。職場での人間模様や、プロ野球の勝敗、流行りの音楽、人生でのささやかな夢、飲み屋で繰り広げられる他愛もない話、そういったささやかなものに満ちている。

はずだ。(残念ながら、僕のまなざしは、そのような具体的なものごとに届いていない。僕の注意は、あくまで哲学に向けられている。だから、僕は、周囲の人たちほどには、このささやかな、生活者たちによる具体的なものごとに満ちた世界のことを知らない。)

僕が手に入れたくても手に入れられない、具体的なものごとに満ちた世界を手に入れ、そこでささやかで輝かしい生活を送るために、彼らは大人になる。

言語化

ここまで、僕の生い立ちも絡めて、哲学と、具体的なものごとに満ちたこの世界、つまりささやかで輝かしい生活との関係性について述べてきたけれど、同じようなことを、僕の哲学の中身、特に言語というものに対する関心から表現することもできる。

哲学とは、言語を用いて思考することであり、つまり、この具体的なものごとに満ちた世界を言語により捉えることだとも言える。

だが、この言語化には問題があって、言語化のプロセスにおいては、個別性や具体性は抹消されてしまう。

例えば、今、僕のベッドでネコが寝ているのが見えるのだけれど、このネコがネコという言葉で表現されることによって、このネコが有している個別性や具体性は抹消され、この世界に何匹もいるネコのうちの一匹となってしまう。三毛猫だ、しっぽが長い、といった説明をいくら加えても、このネコの個別性や具体性が完全に回復されることはない。なぜなら、三毛猫だ、しっぽが長い、といった説明をいくら加えても、一卵性双生児のようによく似たネコがいれば、一匹に絞り込むことはできないからである。もし、現実的には一匹に絞り込めたとしても、思考実験により、いくらでも、その絞り込みの失敗を想定することができるからである。

(もし、この例がわかりづらいとしたら、きっと、このネコという表記がすでに言語によって行われているからだろう。より正確には、あなたの目の前で、これ、と指指した方がいいのかもしれない。だけど、その指指しも、ボディランゲージという言語だとも言えるから、この言語化から完全に逃れ、言語化以前を指し示すことはなかなか難しい。とにかくここでは、この文章だけは、言語化の問題から逃れていることにして読んでいただきたい。)

そして、個別性や具体性が抹消されることで、最も影響を受けるのが、感情というものの扱いだろう。

ネコが死んだときの悲しみは、「悲しい」という言葉と全然違う。悲しいという感情が、「悲しい」という言葉で表現された途端、そこにある悲しみは完全に失われる。なぜなら、「悲しい」という言葉自体は、全然悲しくないからだ。

確かに、ネコを飼ったことがない人でも、僕の「悲しい」という言葉を聞けば、卒業式でクラスメイトと別れたときみたいな気持ちかな、などと想像することはできる。だけど、ネコが死んだときの悲しみは、そのような悲しみとは全然違うとも言える。いや、ネコを飼ったことがある人から、同じような体験をしたことがあるからわかるよ、と言われたとしても、全然違うと言いたくもなる。「悲しい」という言葉から、自らの体験等を参照することで、悲しみの感情を再構成することはできるけれど、それは連想ゲームのようなもので、その再構成された悲しみの感情がもともとの感情と同じものである保証はない。つまり、感情を共有することはできない。

それに比べると、「ネコ」のような感情を伴わない言葉は、まだマシだろう。ネコと言えば、あの毛むくじゃらで四つ足の動物を誰もが思い浮かべるはずだ。そこに、三毛猫だ、しっぽが長い、といった特徴を付け加えていけば、ほぼ、同じような映像を思い浮かべることすら可能かもしれない。「ネコ」という言葉を通じて、個別性や具体性は失われるにせよ、あるイメージを共有することはできる。(それでも、ネコのクオリアとでも言うべき、ネコにまつわる感情を共有することは難しい、とは言える。)

このように、言語化により、この世界からは、特に、感情が失われるのである。

僕は、哲学という言語化の営みに没頭することで、感情に満ちた、この、ささやかで具体的な世界を喪失しているのだ。

言語化されない思想

この喪失に抗うためには、哲学を論破できるような思想が必要だ。だから僕が哲学において目指しているのは、哲学を論破できるような思想を手に入れることだとも言える。だが、残念ながら、明らかに矛盾している。

矛盾に陥らないような道筋はないのだろうか。

僕は、「言い切り」こそが論破の正体であり、思想というものの危うさであると述べた。「言い切り」や論破という言葉遣いからわかるように、ここで問題となるのは、やはり言語である。だから、もし、言語を用いないような思想というものがあるならば、それは、真に哲学を乗り越える思想となりうるはずだ。

言語化されない思想とは、思想を語らず、ただそのように生きている人の生きざまのことだろう。それで終えてしまえば、ジョジョのプロシュート兄貴の名言のようでかっこいいし、この文章の終着地点として適切だ。だが、残念ながら、僕はネチネチと更に考える。

生きざまとしての言語化されない思想も、それが、どのような生きざまかを他者が理解するためには、「あの人は、自分では語らないけれど、他人を大事にして生きてるよね。」というように、言語化を免れることはできないはずだ。

更には、人生の岐路に立ったとき、(例えば、溺れる子供を見つけたときや、ようやく座れた電車で、前におばあちゃんが立ったとき)自分自身が、自分の中にある哲学を参照するためにも、やはり、言語化を避けることはできないはずだ。「俺は、他人を大事にする生き方をしてきたのではなかったのか。」と呟き、電車の座席から立つ、というように。

言語化されない思想が、思想として他者に理解され、また自分自身の生き方の道しるべとなり、つまり思想として価値を持つためには、やはり言語化されてしまうのである。

もし、言語化されない思想というものがあるならば、それは他者に理解されることはなく、自分自身で振り返ることもないものであろう。最低限の言語化をするならば、それは、ただ、生きるということである。

思想として把握されることなく、ただ生き、生活することこそが、この感情に満ちた、この、ささやかで具体的な世界に対して、とるべき態度なのだろう。

緩く、軽やかに漂う

ということで、僕は、生きるうえでとるべき態度から、全く真逆の態度をとっているということになる。哲学をすることで、ただ生きることを台無しにしている。

だが、他には道がない。なぜなら、人間はすでに言葉を手に入れてしまっているからである。言語を用いることの極限には哲学がある。言語の使用と哲学を切り離すことはできない。

だから、言葉で把握せずただ生きるということが指し示しているものを、言葉を用いて、せめて、近似値であっても描き出しておきたい。

きっと、それは、緩く、軽やかに漂うような動的なあり方をしているはずだろう。言葉で決して捉えることができないものを捉えようとする態度としては、そのような態度が望ましいからである。せめて、このような近似値的な答えを抱え、僕は、緩く、軽やかに漂うように生きていきたいと思う。

なお、僕にとって重要なのは、この動的なあり方には、哲学も含まれるということである。僕が哲学を続けるならば、緩く、軽やかに漂うように哲学をしていくべき、ということである。これはなかなか難しい。なぜなら、哲学とは、一冊の哲学書を書くようにして、静的で固定的な絶対的な記述を探し出そうとするものでもあるからである。

だが、静的で固定的な絶対的な答えを探そうとすると、それは中二病になってしまう。

どうしたもんだか。

まあ、この行き止まり感も、傲慢さの報いなのだろう。