※19000字くらいあります。ざっくり言うと倫理学より時間論のほうが大事じゃね、っていう話かも。
1 後世
サミュエル・シェフラーの『死と後世』という本を読んだ。読みやすくて刺激がある内容の文庫本の哲学書というのは貴重で、時間が空いたときに少しずつ読むのにちょうどよかった。(ちょっと訳が読みにくい気がするけど、おすすめです。)
この本のタイトルにある『後世』とは、死後の天国・地獄や生まれ変わりの話ではなく、自分が死んだ後にも続くだろうこの世界を指す。僕が例えば西暦2050年に死んでも、その後もこの世界は続き、きっと、西暦2051年にも多くの人間が暮らし、泣いたり笑ったりしているだろう。後世とは、そのような西暦2051年のことである。
ただ、西暦2051年だと、読者によっては、まだ生きている人もいるかもしれないので、きっと全員が死んでいる2150年あたりを想定しておけば、イメージにずれは生じないはずだ。だから、この文章では、後世とは2150年ということにしておこう。僕たちが全員死んだ後も、僕らの子孫である人間たちは、きっと2150年にも泣いたり笑ったりしながら暮らしているだろう。これが後世である。
だが、ここでシェフラーはSF的な思考実験を行う。もし小惑星の衝突や全人類の不妊ウィルスへの感染により人類が滅亡し、そのような後世が失われるとしたら、そして、そのことを予知できたとしたら、それを予知した僕たちはいかに生きるのだろうか。この本ではそのような問題が扱われている。
2 脱線:人類滅亡
まず、この本を読んだ僕の感想は、ここで突飛もない想定として持ち出されている人類滅亡のストーリーは、僕にとっては手垢がつくほど馴染みがある話だなあ、というものだった。このような人類滅亡は実際起こりそうなことだから、その対策については、若い頃から長い間考え、明確に二つの対応策を準備している。
一つ目の対応策は、いつ、地球上の人類が滅亡してもいいよう早く人間は宇宙に出る、というものだ。何光年も離れた無数の惑星に人類が分散して居住できれば、そう簡単に人類が全滅はしない。
二つ目の対応策は、人工知能など、人間よりも環境の変化に強い知性の担い手に、知性を引き継ぐ、というものだ。シェフラーは人工知能を人類の後継者にすることに否定的だけど、僕は、そこに問題があるとは全く感じない。それどころか人間から人工知能に引き継ぐことで知能が強化されるならば望ましいことだとも言える。シェフラーは人間が持つ身体や文化の連続性が失われることを危惧しているようだけど、さんざん先住民族の文化を破壊しながら自国の文化を維持・発展してきた西洋人のおごりとしか思えない。西洋人以外には、既に文化の連続性なんて存在しない。
と本筋に関係のないツッコミを入れたうえで、話を戻すことにしよう。僕の想定に拠ったとしても、宇宙への移住や、核戦争下でも生き残れる人工知能の開発が間に合わないまま、なんらかの事情で地球上の人類が一掃されることはありうる。宇宙への移住が成功しても銀河系レベルでの破滅からは免れられないかもしれない。だから僕の対応策をもってしても人類、または人工知能も含めた知性の担い手が絶滅することはありうる。そのような状況を思い浮かべるならば、依然として、シェフラーが提起した、後世の問題は有意義なものである。
3 個人的、集合的、世界的
まず、話に入る前に用語の整理をしておこう。シェフラーは後世について論ずるにあたり、自分自身が死んだ後の天国や生まれ変わりを「個人的後世」と呼び、ここで生きている全員が死んでも依然として人類が活動しているだろう西暦2150年の状況を「集合的後世」と呼ぶ。(p.113)そのうえで、シェフラーは、人類の絶滅により「集合的後世」が失われる状況を問題としている。シェフラー自身は使っていないけれど、この人類の絶滅を「集合的死」と呼ぶことにしよう。当然、僕自身の西暦2050年の死は「個人的死」である。
更に、人類が滅びた後も物質的な世界は残るが、やがてそのような世界も消滅すると考えることもできるだろう。科学的に述べるならば、ビッグフリーズによる、宇宙の熱的死だ。これは「世界的死」と呼ぶことができるだろう。(科学は詳しくないので、きっとそういうやつ、という程度です。)
また、今回の話にはあまり関係しないけれど、死の反対側に誕生を付け加え、「個人的誕生」「集合的誕生」「世界的誕生」といったものも想定することができる。
イメージを持っておくために、年表を書いておこう。
137億年前 世界的誕生(ビッグバン)
20万年前 集合的誕生(ホモ・サピエンス誕生)
西暦1970年 個人的誕生(僕の誕生) ※個人情報なのでぼやかしてます。
西暦2050年 個人的死(僕の死)
西暦2150年 集合的死(小惑星が衝突した場合)
100億年後 世界的死(ビッグフリーズがいつ起きるか知らないので適当です)
4 実際に起こることと論理上起こるべきこと
さて、西暦2150年に集合的死という破滅的な未来が確実に待っていることを知ったとき、僕たちはどうなるのだろうか。シェフラーは、実際の破滅を待たずして、個人レベルでも社会レベルでも、控えめに言っても「深い当惑」(p.48)や「抑圧的影響」(p.82)が生じ、様々な問題が起きるだろうとする。僕も実際にそうなるだろうと思う。
僕がシェフラーに疑問を投げかけたいのは、その先である。僕には、どうもシェフラーは、そのような抑圧的影響は、哲学的な思考を経たうえで、論理的に当然に生じると考えているように見える。だが、実際に生じるだろう反応と、論理的に生じるべき反応とは異なるのではないか。つまり、実際には抑圧的影響が生じてしまうけれど、そのような問題が生じることは論理的には誤りである、とする余地があるのではないだろうか。
確かに、僕自身、僕が死んだ後、西暦2150年に地球に小惑星が落ち、宇宙移住も自律型人工知能の開発も間に合わなかった人類が集合的死を迎えることを知ったら、僕はきっと心穏やかではいられないだろう。だけど、そのような反射的な反応が、哲学的思考を経たうえで、論理的に当然に導かれるとは限らない。それならば、集合的死を前にして一旦は混乱し、意気消沈したとしても、哲学的考察を深めることで、この人間社会は、本来あるべき態度を取り戻すことはできるのではないだろうか。そこまでうまくはいかなくても、少なくとも僕自身だけは、その抑圧的影響を多少なりとも緩和できるのではないだろうか。
なぜそんなふうに思うのかというと、そう思わせてしまうほどに、少なくとも後述する二つの側面において、シェフラーの哲学的立場は、なんというか、哲学的な深みがなく、素朴すぎるように思えるからだ。
(ここでの僕の哲学的思考を信頼する態度は、「だろう」という実際起こることの推測よりも、「すべき」という合理性に基づく思考を優先するべき、というスーザン・ウルフの姿勢(pp.185-186)と似ている。)
5 シェフラーの問題点
(1)数直線的時間
シェフラーの立場は、時間というものの捉え方と、価値というものの捉え方の二点で問題があるように思える。
まず、時間の方についてだが、シェフラーは、先ほど僕が書いたような年表的な時間の捉え方を無批判に受け入れている。つまり、137億年前のビッグバンから、100億年後(?)のビッグフリーズまで続く、数直線のようなあり方をした世界(宇宙)的時間を想定する。そのうえで、数直線上の紀元前20万年から西暦2150年(そのときに小惑星が衝突した場合)までの間に人間的時間を重ね合わせ、更に、西暦1970年から西暦2050年までの幅に、或る人間(つまり僕)の個人的時間を重ね合わせるようなことをイメージしている。
シェフラーはこのような時間観について、「〈そのような生それ自体が、継続する人類史の中に、生涯と世代の時間的に延長された連鎖の中に、位置を占めている。〉」(p.79)と表現する。
そのうえで、数直線上の西暦2050年の目盛りで個人的時間は途切れて、西暦2150年の目盛りのところには(小惑星が衝突しなければ)依然として人間的時間の線分が伸びていると考える。だから西暦2150年は後世なのである。
だが、このような想定をするためにはいくつかの飛躍が必要である。まず、数直線のような時間という捉え方には飛躍がある。確かに、科学的な世界観を構築するためには、数直線的時間を想定しなければならず、時間にはそのような側面があることは否定しない。だが、そのような数直線的捉え方が唯一の時間の捉え方だとするのは飛躍である。
もし今現在、僕たちが知っているような科学的な世界観「だけ」が唯一の世界観だとするならば、きっと時間は数直線のようなあり方「だけ」をしているのだろう。自然科学は人気があるし、とても成功しているから、そう思う人はたくさんいるだろう。だが、残念ながら、自然科学以外の世界観が全くありえないかどうかは、まだ決着が付いていない問題だし、少なくとも僕は、自然科学以外の世界観を認める十分な理由があると考えている。それに応じて、自然科学的な数直線的捉え方が成立する余地もある。
よって、シェフラーの立場の第一の飛躍は、自然科学以外の世界や時間を認める余地を全く考慮せず、自然科学的な数直線的時間「だけ」を採用しているという点にある。だから、第一の飛躍とは、自然科学偏重の飛躍であると言っていいだろう。
そのうえで、ある人間が生まれてから死ぬまでの個人的時間を数直線のような世界的時間の上に重ね合わせるという点に第二の飛躍がある。
確かに、大抵の人間を、そのように扱うことは問題がないように思える。僕自身以外の人たちについては、それが歴史上の偉人であっても、無名の近所の住民Aであっても、僕の大切な家族であっても、そのようなあり方をしているだろう。
だけど、ただひとり、この僕自身だけについては、そのような重ね合わせをすることに抵抗がある。僕が僕自身について考えるとき、僕が生まれるとともに世界が始まり、そして、僕が死ぬとともに世界が終わる、という捉え方もできるように思えてしまう。更には、この僕がいるこの現在こそが唯一の現在であり、別の現在が未来から訪れて、この現在が過去になることなんてあるはずがないという捉え方さえできるように思えてしまう。このような独我論的アイディアが正しいかどうかはともかく、重要なのは、数直線のような時間に、僕自身の人生の時間を無理やり重ね合わせようとすると、このようなアイディアが成立する余地が生じてしまい、いわば、錯綜や混乱を招きこんでしまうというというところにある。
この錯綜や混乱は、少なくとも、僕の人生を数直線の上に重ねるためには飛躍が必要だということを指し示しているだろう。飛躍により独我論的混乱を招いていることに着目するならば、この第二の飛躍とは、いわば、僕自身を他者と同じものと見做す、非実存的飛躍であると言ってもいいかもしれない。
シェフラーは少なくとも、自然科学偏重の飛躍と、非実存的飛躍という二つの飛躍を無自覚に行い、いとも簡単に素朴な時間描写を行う。そのうえで、素朴な時間描写を前提として、この本での主題である後世の問題など、様々な問題を見出す。だが、そこで見出した問題とは、真正な哲学的問題というより、誤った前提を設けたことによる混乱の現れだと考えるべきなのではないだろうか。
(2)価値に満ちた世界
もうひとつのシェフラーの問題は、価値というものの捉え方の問題である。
シェフラーは、この世界には価値があることに満ちていると考えている。美味しいものを食べることや、友情や、医療技術の発展というような。だからこそ、小惑星やウィルスがこれらの価値を根こそぎ奪うことを問題としている。
そして、シェフラーは、美味しくないものを食べることは価値が低く、そして、何も食べることができない状況は価値がないと考えている。つまり世の中のものごとには、価値がないことや、価値が低いことや、価値が高いこと、といった価値の高低による序列があると考えている。
だけど、本当にそうだろうか。シェフラーのように考えた場合、美味しいものを食べることも、友情を育むことも、医療技術の発展に貢献することも、どれも叶わぬ状況においては、そこに価値はない(または価値が低い)ことになってしまう。この世界において高価値とされるものごとにアクセスできない不幸な人々は価値がない(または価値が低い)ことになってしまう。そこには、どこか倫理的な誤りが含まれているのではないだろうか。
このような僕の指摘を受け、シェフラーは、もしかしたら、より基礎的で万人にアクセス可能なものごと、例えば、呼吸をして生きること自体に価値があると考えるかもしれない。それでいいのかもしれない。だけど僕は、僕が好きな(多分有名だから説明不要な)『夜と霧』という本におけるフランクルの考えのほうに魅力を感じてしまう。僕が『夜と霧』から読み取ったのは、ナチス収容所のなかで死のうとするユダヤ人少女であっても「成長」という価値あることを成し遂げることができる、というメッセージである。美味しいものを食べることも、友情を育むことも、医療技術の発展に貢献することも、どれも叶わぬ絶望的な状況においても、人は、成長という価値を手に入れることができるのである。このフランクルの言葉に接したときの僕自身の感動以外には根拠はないのだけど、僕はそれだけを根拠に、「成長こそが価値である」と言いたい。
※成長というと、身長が伸びるとか、より深く考えられるようになるとか、既に多少は手に入れている特徴が更に良い方向に変化する、という意味合いを含んでいる。けれど、ここでは、全く新しい、未知のものを手に入れる、という意味に限定したい。よりよい言葉が思いつかないけれど、飛躍的変化とか、サナギが蝶になるような劇的変態などと言ってもいいかもしれない。
そして、僕は、更に強い主張をしたい。それは、成長「だけ」が人間の価値である、という主張である。美味しいものを食べることも、友情も、医療技術の発展も、いずれにも価値はなく、ただ成長「だけ」に価値がある。僕はそのような主張をしたい。
なぜそのような主張をするのかというと、そのように考えなければ、収容所のユダヤ人少女を軽視することになってしまうからだ。死の間際に少女が手にした価値は、美味しいものを食べることや、友情を育むことや、医療技術の発展への貢献といった、彼女が望んでも手に入れられなかった諸価値の代替物などではない。彼女は人生において手に入れるべき価値を全て手に入れ、そして死んだのである。だからこそ、ナチス収容所のような、どんな些細な望みも叶わぬ絶望的な状況にいても、人間の価値が何ら減じられることはない。そのように僕は考えたいのである。
きっと、僕のこのような考えには、仏教的な感覚が裏打ちされている。僕は仏教には詳しくないけれど、仏教ならば、きっと、悟りに向かうこと以外は、美味しいものを食べることも、友情も、医療技術の発展もすべて価値はないとするのだろう。そのうえで、もしかしたら悟りに向かうこと自体の価値さえも否定されるのかもしれない。そのあたりになるとよくわからなくなるけど、少なくとも、美味しいものを食べることや、友情や、医療技術の発展に価値がないことは、仏教的には確かだろう。(僕は、成長と悟りを結びつけ、仏教も成長の価値を擁護していると考えたい。)
以上のように考えるならば、シェフラーの考え、つまり、この世界には価値があるものごとに満ちていて、それが人類の絶滅により失われてしまうという考えは、素朴すぎるのである。仏教的な考えを推し進めるならば、人類が絶滅する前から価値なんてどこにもなく、人類の絶滅により失われるものなど何もない、と考えることすらできる。それはそれで極端すぎるかもしれないけれど、一方で、この世界には既にそこらじゅうに価値あるものが転がっており、人類はすでにそれらを手に入れている、という考えは、かなり問題含みだと思う。とにかく、シェフラーの価値に対する考え方は素朴すぎるのである。
シェフラーの集合的後世の問題に関する前提、つまり、人間は、集合的死を予測することによる抑圧的影響を免れることはできない、という想定は、以上のような素朴な哲学的立場に依拠している。
僕はこのことに不満なのである。だから、少なくとも僕自身だけは、ここで僕が指摘したような時間や価値に関する問題を哲学的に考えることで、シェフラーの前提を乗り越え、集合的死を予測することによる抑圧的影響を乗り越えられるのではないか、と考えるのである。
6 シェフラーの問題点の活用
(1)客観的死と主観的死
ここで僕が指摘したような問題意識を持ちつつこの本を読んでいくと、この本を通じてシェフラーが提示している問題自体が、僕の考えの補強材料にさえなるように思う。シェフラーが提示した問題を、シェフラーとは異なる、僕自身の道筋で解決することを通じて、僕の考えを補強できるのである。
まず、シェフラーは、自らの個人的死や、自分の周囲の大事な人の死よりも、人類の絶滅という集合的死の方が大きな衝撃を与えると指摘する。そのうえで、シェフラーはこれを利他性の現れであるとするような議論に結びつける。
だけど、僕からすると、数直線的時間を持ち出し、例えば、数直線上の西暦2050年と書かれた目盛りに自分自身の死を位置づけ、そして、西暦2150年と書かれた目盛りに巨大隕石の落下を位置づける、というような素朴な時間を前提としたところから、この問題は始まっているように見える。
数直線的時間を離れるならば、少なくとも、個人的死と集合的死という二つのものを、全く別なものとして分ける捉え方と、個人的死と集合的死を重ね合わせる捉え方という、二つの捉え方を思い浮かべることができるだろう。ラフに述べるならば、個人的死と集合的死は全く別物であるとするのが客観的な死の捉え方であり、個人的死と集合的死が深く結びつくのが主観的な死の捉え方である。
僕は主観的な傾向が強いので当然のこととして説明を飛ばしそうになってしまうけれど、あえて説明すると、主観的な死とは、先程僕が述べたような、ただひとり、この僕自身だけについては、僕が死ぬとともに世界が終わる、という捉え方のことである。この僕が感じることができるこの世界だけが本当の世界であり、僕が死期を迎え、永遠に目を閉じたならば、この本当の世界はそこで終わりになる、というイメージである。
シェフラーが発見するまで、集合的後世の問題が気づかれることがなかったのは、このような主観的な傾向が多くの人の中にあり、個人的死の問題を前にすると、集合的生が失われるとまでは言わなくても、少なくとも、集合的生に対する関心が薄れてしまうからなのではないだろうか。だから、個人的死と集合的死を強く結びつける主観的な死の捉え方は、決して突拍子もないものではなく、すでに多くの人の中にあるものを先鋭化して見せているに過ぎないのである。
だが、僕の死とともに、この僕が感じることができる世界も終わるという先鋭化した主観的な死も、完全に主観的な死とはならないだろう。なぜなら、僕が死ぬことで、このありありと感じることができる本当の世界は終わるとしても、かりそめの本当ではない世界は残り続けるからである。このかりそめの世界は、小惑星の衝突かなにかで人類が滅亡するまで続くし、更には、集合的死のあとも、ビッグフリーズにより世界的死を迎えるまで続く。
一方で、個人的死と集合的死が全く別物だとする客観的な死は、常識的で揺るぎないものに見える。けれど、僕のような主観的傾向が強いタイプの人から見れば、僕の死後の集合的後世においては、僕が感じるこのありありとした感じ(クオリア)が失われてしまうのだから、集合的後世は僕の個人的死の影響を免れることはできないと思える。
つまり、客観と主観という二つの捉え方の間には、両者を両立させることはできず、かと言って、どちらか一方とも決めきることもできず、どこまでも行き来して逡巡するような動性がある。
(僕自身は、この逡巡、動性を捉える道筋を探して哲学をしていると言ってもいいし、うまくいけば、この逡巡から逃れ、絶対的な客観性に至る道筋があるのかもしれない。けれど、その道筋は決してシェフラーのような素朴な客観性に立ち止まる態度からは生まれない。)
シェフラーは、主観的な死の捉え方に無頓着なまま、きちんと主観的な死の問題を処理しないまま、客観的な死の捉え方のみを採用する。だから、シェフラーが客観的な死と考えたもののなかには、シェフラー自身も気づかないまま、主観的な死、つまり自分自身の死と世界の終わりとを結びつけるような考え方が混入されてしまっているのである。
例えば、シェフラーが発見した、人間が集合的後世を重視するという事実は、自分自身の個人的死が訪れても、その死の一部を集合的死まで先送りすることだとも言える。先送りにより、集合的後世のなかに自らの生の一部を混入させ、自分自身の死のショックを多少なりとも弱めることができるのである。
だが、このような操作は、個人的死と集合的死を峻別する客観的な死からダイレクトに導くことはできない。だからこそ、この操作を客観的な死から説明するため、シェフラーは、利他性のような、何らか新たな概念を導入せざるを得ない。だが、主観性の混入に気づくことで、そのような余計な概念を導入することなしに、我々が集合的後世を重視する理由を説明することができるのである。
つまり、個人的死や自分の周囲の大事な人の死よりも、集合的死の方が我々に大きな影響を与えるというシェフラーの発見は、利他性や利己性の問題についての発見ではなく、時間論についての発見なのである。(時間論的には不十分な言い方だけど)素朴で常識的な客観的な死という捉え方のなかに、主観的な死が混入されていることの発見であると言ってもいい。このように読み替えることでこそ、シェフラーの発見は意義あるものになる。
なお、時間論としては、ここで僕が行った、客観的な死と主観的な死を対比するような述べ方は、きっと不十分なものだろう。僕はその先にこそ、本当の時間論の面白さがあると思う。けれど、この集合的後世の問題は、利他性のような倫理学的な方向で論ずるのではなく、時間論的な方向で論ずるべきだ、という道筋を示しているという点では、ここで僕が行った、客観的な死と主観的な死の対比は、議論の入り口としては正しい方向を指し示していると思う。
蛇足:利他性
シェフラーは、集合的後世に関する思考実験を通じて、人類は、それほど利己的ではなく、利他的な側面が意外とある、ということを示そうとするが、この本に登場するコメンテーターの何人かは、そのことに批判的である。
僕は、そのような倫理学的な土俵設定自体に問題があると指摘した。だが、この問題を主観主義的な方向に拡張してよいならば、このシェフラーの議論は、コメンテーター達の反論に打ち勝ち、人類の(拡張された)利他性を指し示すことに成功していると思う。
簡単にそのことを示してみたい。
まず、主観主義的に他者を位置づけるならば、他者とは、この僕の主観的世界における住人である、ということになるだろう。
だから、僕にとって、他者は、手段としてではなく、他者そのものとして重要でなのである。なぜなら、主観主義的には、他者が住むこの世界は、この僕の主観的世界であり、この主観的世界は僕自身であり、この主観的世界に住む他者も僕自身だからである。主観主義的には、他者であっても、何であっても、それはすべて自分自身の一部なのである。
そのような主観的な観点に立つから、僕は、僕自身を尊重し、配慮するように、他者を尊重し、配慮する。僕は他者を他者としてではなく、僕自身の一部として尊重し、配慮するのである。
このような主観的態度を認めるならば、そして、そのような態度に基づき、自らの主観的世界の住人に対して配慮することを利他的と呼ぶことが許されるならば、人間に利他的な側面が意外とあるのは明らかだろう。
当然、人間は、このような主観的な態度でのみ生きているのではない。主観と客観の間で揺らぎつつ生きている。だから、この主観的な意味での利他性も揺らぎ、不十分なものとならざるを得ない。けれど、それでも、「意外と」人類は利他的であるとは言えるのである。
そして、シェフラーによる集合的後世の思考実験は、この揺らぎをうまく炙り出したという点で価値がある。集合的死を予測したときの抑圧的影響を発見し、個人的死と集合的死を結びつけるような主観的な死が実感として存在することを明らかにし、客観的な死と主観的な死の間の揺らぎをうまく浮かび上がらせたという点で革新的な思考実験なのである。
(2)価値の維持・保全
もうひとつシェフラーの議論で着目したいのは、価値の維持・保全をめぐる議論である。
シェフラーは、価値に対する保守主義を唱える。価値と維持・保全(p.49)とを結びつけ、価値あるものとは、可能ならば、維持・保全しようとするものであり、そして、ある程度の例外の余地は認めつつも、維持・保全したくなるようなものこそが価値であると考える。
そのうえで、個人的死の後も、人は、伝統や価値を共有する共同体を通じて、価値を維持・保全することに関わることができるので、集合的後世が維持され、共同体が存続することが重要であるとする。だからこそ、シェフラーの思考実験のように、小惑星の衝突により集合的死が訪れることを知ったとき、僕たちは心を乱されることになる。
だが、価値の維持・保全に関する議論は、コメンテーターであるシフリンの反論もあり、当初提案されたもののよりも、複雑なものとなっている。
シフリンの反論とは、「(歌、会話、料理、そして人生といった)価値あるものをそれ自体として維持あるいは保全することが不可能なのだ。」(p.230)というものだ。
それに対して、シェフラーは、シフリンが挙げる例は「出来事」(p.297)であり、「名画や自然環境の特徴のような特定の対象」(p.297)については、価値と維持・保全とを結びつけることができる、とする。
これは、シェフラーの考えを認めたとしても、かなりの後退だ。シェフラーが重視した名画や自然環境を事物とするならば、シフリンとシェフラーの対立は、いわば、体験と事物の対立だと言ってもいいだろう。体験と事物という二つの重要そうな用語のうち、一つを放棄することは、シェフラーの議論の正しさを疑わせる。
だが更に述べるならば、そもそも僕はシェフラーの考えは怪しいと感じる。シェフラーはシフリンの反論を受け、体験の価値を放棄し、事物の価値のみを維持する。だが、体験を経ず、事物そのものに価値があるとはどういうことだろう。シェフラーは、全く鑑賞されなくても名画それ自体に価値があると言いたいのだろうが、それはかなり問題含みである。ここにも主観と客観の問題が頭をもたげ、主観的な体験と切り離して客観的事物の存在、それだけを取り出すことができるのか、という問題が生じる。
僕は、この議論に深入りはしないけれど、きっとここにも主観と客観の揺らぎが生じるだろう。少なくとも、価値の対象となるものは、主観的な体験と客観的な事物の両側面を有する、いわば体験と事物の混合物であるという地点から議論を出発せざるを得ないだろう。
もしかしたら、そこから、議論を深めることで、客観的な事物のみを取り出す道筋を発見できるかもしれない。だが、シェフラーのように、客観と議論の問題を処理しないまま、体験と事物とを切り分け、シフリンの反論の影響が及ばないかたちで事物の価値のみを取り出すことはできない。ましてや、それを維持・保全することなど不可能なのである。
そして、このシェフラーの失敗には、二つの含意があると僕は思う。ひとつは、そもそも、この世界は価値あるものに満ちている、というシェフラーの価値論的前提の誤りであり、もうひとつは、客観的なかたちでの維持・保全の前提となる数直線的時間というシェフラーの時間論的前提の誤りである。
こうして、シェフラーの失敗は、僕の時間と価値に関する二つの主張の補強材料となる。
なぜ、僕がこのように執拗にシェフラーを攻撃するのかといえば、僕は、シェフラーの保守的な態度が気に入らないのだ。きっと、シェフラーは、個人的死の後も、その個人が重要と考えた価値を維持・保全することで、個人的生を集合的死後にまで拡張できると考えている。だが僕は、そのプロセスに全く新しさが含まれていないという点が気に食わない。そのような集合的死後においては、何も新しいものは生み出されない。シェフラーが描写するような集合的死後に生きる人々は、まるで早逝した誰かの墓守のようだ。
僕はそうではなく、新しさ、つまり成長に満ちた世界を生きていきたい。そして、そのような生とは、きっと、数直線上の線分のようなあり方はしていない。僕の主張の裏には、そのような新しさへの偏愛がある。
7 シェフラーの逆襲
(1)善を用いた逆襲
ここまで僕は、勝手に僕の土俵を設定し、シェフラーを攻撃してきた。なぜ、僕がこんなに攻撃的になるのかと言えば、きっと、僕とシェフラーは、合わせ鏡のように対立しているからなのではないか。
だから、シェフラーからすれば、僕の主張こそ、問題だらけだと感じるに違いない。まず、シェフラーは、僕のような主張では、「善」というものが捉えられないと考えるのではないだろうか。善という観点を用いたシェフラーの逆襲である。
シェフラーは、「通常われわれは、文学や芸術の鑑賞、知識の獲得、われわれを取り巻く世界の理解、五感の快楽の享受といったものを善き生の構成要素だと理解している」(p.79)と述べる。
これに対して僕は、成長だけが唯一の価値であり、シェフラーが列挙したようなものごとには全く価値はないと論じている。これは、「善き生の構成要素などない」、「善などない」、と論じていることにもなる。
(僕は、唯一の価値として認めた「成長」に独特の意味を込めており、「捉えることのできない新しさそのもの」という程度の意味で用いている。だから、成長という価値は、何かの構成要素になることはできない。)
きっとシェフラーは、僕の主張が「善はない」という帰結となることを問題として指摘するだろう。その指摘を無視し、「善などなくていいのだ」と開き直ることもできるけれど、哲学的には「善はない」という主張は確かにおかしい。
通常、「善はない」という主張は、実は、善のように思えたものは善ではなかった、という意味で理解することができるだろう。人助けだと思った被災地での炊き出しが実は売名行為だったから、そこに善はない、というような場合である。だが、通常は、その炊き出しの場面には善はなくても、別の場面には善がある。別の場面での具体例を通じて、僕たちは善について知っているからこそ、炊き出しの場面に、その善がないと言えるのである。
だが、僕の「善はない」とは、そのような個別具体的な場面においてではなく、この世界中のどこを探しても、善の実例などひとつもない、という意味で使っている。だから、僕は「善はない」という言葉を、何がないのかを具体的に示すことができないまま、不適当なかたちで使っていることになる。これはおかしい、とシェフラーは指摘するのではないだろうか。
この問題を別のかたちで述べるならば、僕の「善はない」という言葉は、善という言葉を使うことで、善という概念が成立していることを認めたうえで、「善はない」と主張するという、極めて矛盾した主張なのである。そのような矛盾した主張に行き着いてしまう僕の価値に関する主張は、そもそも誤っている、ということになる。
「善はない」という主張は矛盾しており誤っているから、やはり善はある。そのことを認めるならば、あとはどれだけ価値あるものを増やすかどうかの問題しか残っていない。そこから、シェフラーが描く価値に満ちた世界に到達するのは容易だろう。こうして、善を用いたシェフラーの逆襲は成功する。
(2)価値の保守主義による逆襲
もうひとつのシェフラーの逆襲に移ろう。
シェフラーの時間の捉え方は素朴すぎると批判したが、それでも、シェフラーは、時間について全く注意を払っていない、という訳ではない。
それどころか、シェフラーは自らの議論が、時間論だとも考え、「後世の役割は、自分自身についてのわれわれの思考の中で時間というものが有する、深遠だとはいえ捉えがたい影響に光を投げかけ~る便利な出発地点になる。」(p.40)とさえ述べている。
なぜ集合的後世について考えることが時間論になるのかといえば、集合的後世を重要視する態度から導かれる価値の保守主義が、時間と関わるからである。具体的には、価値を維持・保全しようとする努力とは、時間経過による偶然の変化に抗おうとする努力であるからである。
更に言い換えるならば、あるものに維持・保全に値する価値があると見做すことは、その価値が維持・保全されるような未来が到来する「べき」と考えることにつながる。そのように考えることで、確かに、未来は偶然に満ちていて実際にどうなるかはわからないけれど、少なくとも、どのような未来である「べき」かは明らかにすることができる。こうして、僕たちは、多少なりとも未来を支配できるのである。(pp.108-109の議論を僕なりに言い換えました。)
こうして、シェフラーは、価値の保守主義を前提に、ものごとに価値があるためには、僕が数直線の時間と呼んだような、常識的な時間が成立していなければならない、ということを主張しているとも読めるのである。シェフラーの「われわれは自分自身を、~時間的に延長した存在として理解している、ということをわれわれの価値は表現している。」(p.109)と述べているのはそういうことだろう。
シェフラーは、無自覚に数直線的時間を受け入れているのではなく、価値の保守主義を成立させるためには、数直線的時間が必要である、と主張しているとしてみよう。
その場合、価値の保守主義が成立するかどうかが、まさに問題となるだろう。ここまでのシェフラーの逆襲が成功したと考え、この世界は価値に満ちているとした場合、その価値を価値の保守主義によらず、どのように表現するのか。僕は、それはなかなか難しい問題で、シェフラーによる、価値の保守主義と結びついた数直線的時間観による逆襲はかなり成功しているように思える。
(3)再逆襲
このシェフラーの逆襲に対する僕の再逆襲も可能だろう。これ以上、詳細に論じはしないが、きっとその再逆襲は、善という言葉では捉えきれない、新しさ、成長といったものが有する独特の価値を突破口とするものになるだろう。そして、その独特の価値は、数直線的時間とは異なる時間描写を可能とする、と論ずることになるだろう。
きっと、それに対するシェフラーの再々逆襲も可能であり、対立関係は深まっていくだろう。僕とシェフラーは、そのような合わせ鏡のような特別な関係にあるからこそ、僕は、シェフラーの議論を取り上げたくなったのである。
8 蛇足:シェフラーの議論に乗った上での問題提起
以上は、シェフラーを踏み台にした僕自身の議論の展開であったとも言える。
ここからは、蛇足として、シェフラーの前提を受け入れたうえで、『死と後世』で展開されるシェフラーの議論自体について考察をしてみたい。
(1)生理的反応
シェフラーは、集合的死を前にしても、「激痛からの解放」(p.98)のようなものは重要な「価値」があると考える。確かに、明日、僕自身も含め、全人類が消滅するとしても、僕は熱せられた鍋を触ったら手を引っ込めるだろうし、包丁を持って暴れる人がいたら逃げるだろう。また、喉が渇いて仕方なかったら水を飲むだろう。僕自身に限らず、例えば僕の娘が喉が乾いていたら、水を差し出してあげるだろう。
だが、このような生理的反応は、価値の問題に含めるべきでないと思う。なぜなら、生理的反応においては、自由意志が働く余地が極めて少ないからである。そのような生理的反応と、能動的な行為である他の価値とを同列に扱うことは問題があるし、特に、価値と維持・保全を結びつけ、価値に対する保守主義を唱えるシェフラーの立場からするなら、なおさら問題がある。
なお、シェフラーは、エピクロス主義者は拷問から逃れるために死を願うことができない、ということを理由に、エピクロス主義を批判する。(エピクロス主義とは、生者は個人的死にアクセスできないという主張だから、エピクロス主義者は拷問を逃れるための死にもアクセスできない。)
だが、生理的反応を価値の問題から切り離すならば、拷問による苦痛という生理的反応を用いたシェフラーの批判は、エピクロス主義に届かないだろう。
(2)長生き
シェフラーは、個人的死について、死と不死を対比するけれど、シェフラー自身も言及しているが、死と対比すべきは長生きなのではないだろうか。
まず、望ましい寿命というものがあるうえで、その望ましい寿命より早死にすることが避けたい事態であり、また、望ましい寿命より長生きすることも避けたい事態なのである。
なお、なぜ長生きを避けるのかといえば、ウィリアムズが指摘するようにそこには「倦怠」(p.148)の問題が生じるからであろう。
だが、望ましい寿命というものを、事前に明確に捉えることは難しいだろう。望ましい寿命とは、生きていてやりたいことがちょうど尽きて、倦怠が生じようとするその瞬間がいつかをに死ぬことだろうが、生きていてやりたいことを事前に正確に把握し、それがすべて成就するのがいつかを予測するのは困難なのだから。
だから、人は、望ましい寿命までの余裕を持たせるためにどこまでも長生きを願い、あたかも不死を願っているようにさえ見えるのではないだろうか。
なお、望ましい寿命を把握すること自体は難しくても、その算定方法はきっと明らかだろう。それが「私」というかたちで固定化された性質を持つ個体の寿命であれば、その「私」の固定性に由来する飽きが生じない、ギリギリの時点まで長生きすることが望ましい。例えば僕を僕という個体にならしめている性質が、スカイダイビングのような危険な行為を避けたいという嗜好や、人殺しを避けたいという倫理観に基づいているならば、人生の暇つぶしのために、スカイダイビングや人殺しをする前に倦怠が訪れることになるから、スカイダイビングや人殺しをしたいタイプの人よりも早く寿命が来るべきだろう。一方で、哲学的に色々とものごとを考えたい、などと思わないタイプの人よりは、僕の望ましい寿命は長くなるだろう。このようにして、実際にできるかどうかは別にして、僕という個体の性質を網羅的に調査することで望ましい寿命は算定可能なはずなのである。
(シェフラーが、固定化された性格により、「新しい経験が彼女(EMという永遠に42歳で生きる女性)に本当の変化を与え(ない)」(p.150)と言っているのはこのことだろう。また、僕はラフに僕たらしめる性質や特徴と言っているものを、シェフラーは「定言的欲求」(p.153)と呼んでいるとも言えるだろう。)
同様に、人類の集合的な望ましい基準寿命についても算定可能だろう。なぜなら、人類についても、人類には人類たらしめる特徴があるとするならば、人類の可能性も、その特徴の範囲の中に固定され、その範囲内のことをすべてやりつくしてしまえば、人類全体に倦怠が訪れるはずだからである。例えば、二本脚で歩行することが人類の要件だと捉えるならば、人類には四本脚を駆使した複雑なダンスをすることはできない。よって、人類には、二本脚と四本脚の両方を選択し、より多様性のあるダンス文化を創造できる種族よりも早く倦怠が訪れるだろう。このようにして、人類を人類たらしめる特徴を列挙し、その特徴に応じたかたちで寿命を算定するのである。
(シェフラーは、「人類全体はそれ自身の態度を持つ統一された主体ではない。」(p.173)とするが、僕はそれに反対する。例えば、人類の願いが先回りしてすべて魔法のランプの精に叶えてもらえる状況を想像すれば、そこに倦怠というかたちで人類全体の態度の統一性浮かび上がるのは明らかだと思う。)
僕は、僕という個体や、人類という集合について、実際に望ましい寿命を事前に算定できるとは主張しない。だが、そのような算定は論理上可能であることから、個体的生においても、集合的生においても、不死は決して望ましいものではない、ということは主張できると考える。
(3)集合的死の予測
なお、僕という個体と、人類という集合では、望ましい寿命のスケールは全く異なるだろう。多分、僕の人生ならば、長くても数百年で飽きてきそうだが、人類全体が倦怠に到達するまでには数万年は必要そうな気がする。
だから、死が差し迫っている状況をどのように捉えるかも、その死が個人の死なのか、人類という集合の死かで、そのスケールは全く異なりそうな気がする。人類の集合的死ならば、それが10年後だとしても死が差し迫っていると捉え、大きく動揺するだろうが、僕が自らの個人的死が差し迫っていると捉え、同程度に動揺するのは、きっと、寿命があと数十日となった場合だろう。
きっと死の切迫の問題には、スケールの問題に加えて、哲学的には面白みがない、科学的予測の問題が関わっている。NASAが小惑星の軌道を算出し、10年後に確実に小惑星がぶつかると言ったら、それは避けようがないと諦めるだろう。なぜなら、NASAにより計算された物理的な軌道が間違いようがないし、10年間で小惑星に対処する新たな対応策を見つけられないことも明らかだからである。一方で、僕が癌になったならば、たとえ、ステージ4で5年後生存率が数%と言われても、僕は避けようがないと諦めはしないだろう。なぜなら、それは確実な死の予測ではなく、また、不確実ながらも対応策が残されているからである。(きっと、僕は、すべての治療法を試したが効果が出ず、奇跡を期待する体力も失われたときに、ようやく僕は死を覚悟するだろう。それは、おそらく、寿命があと数十日となった場合だろう。)このように集合的死と個人的死では色々な事情の違いがある。
このように考えると、個人的死を予測したときの我々の態度と、集合的死を予測したときの我々の態度との違いに基づき、個人的死と集合的死を全く異なるものとするシェフラーの議論は、どこか的を射ていないように思える。
(4)成長
ここまで蛇足で述べたことを、無理やり、「成長」こそが重要である、という僕の主張につなげて終わりにしたい。
僕は、自由意志を重視する観点から、生理的反応を価値のひとつに位置づけることに反対したが、この自由意志を重視する姿勢と「成長」の重視とはつながっている。
自由意志とは、そこに選択肢を見つけ、従来とは異なる自分自身であることを選択することであるとも言える。なぜなら、選択肢を見つけなければ自由意志を働かせる余地はないからである。また、選択肢を見つけ、そのいずれかを選んでしまったら、たとえ選んだのが「従来どおり」という選択肢であったとしても、選ぶ前の従来の自分自身のままではいられないからである。(片想いの人を遠くから眺めている状況と、その人に話しかけるチャンスがあったのに、話しかけず遠くから眺めている状況とでは、後悔の有無といった点で自分自身は変化しているだろう。)
僕が重視する成長とは、この選択肢の発見と選択というプロセスにかなり近い。その選択が価値あるものであれば、それは成長となる。(ここに価値という言葉を使わざるを得ないのが、シェフラーに対する僕の弱点である。)
つまり、僕が生理的反応を価値から除きたいのは、そこに成長につながる要素がないからである。
また、僕は個人であれ人類という集合であれ不死ではなく長生きを願っている、とした。だが、これは、入手できる価値に倦怠という限界があると考えた場合である。一方で、僕が主張するとおり、成長こそが唯一の価値であるとするならば、成長とは新しさそのものなのだから、そこにウィリアムズが問題としたような倦怠が問題となる余地はない。どこまでも新しさを求め、成長のための永遠の生、つまり不死を望むことができるのである。
成長する限り、僕は僕という性質に縛られることはないし、人類も人類という性質に縛られることはない。僕であれ、人類であれ、今の僕や人類とは全く違うものに成長できる可能性に開かれている。成長の結果、僕とは呼べず、また、人類とは呼べないものになるとしても。
逆に言えば、成長だけが倦怠を乗り越えることができる特別な価値だからこそ、成長が唯一の価値なのである、とさえ言えるかもしれない。
そして、この僕が重視する「成長」は、不死や永遠といったものをイメージするときに深く食い込んでくる、あの数直線的時間観にも及ぶ。
僕や人類の不死とは、数直線的には、西暦1970年や、紀元前20万年前を起点とした半直線として表象できる。未来の方向にだけどこまでも無限に伸びていく半直線である。そのような無限の線を思い浮かべるとき、僕は永遠に圧倒されるとともに、うんざりするような倦怠感を覚える。だが、「成長」が、この数直線的時間観からの離脱をも意味するならば、僕は「数直線的倦怠」をも乗り越えることができるはずなのである。
シェフラーは、「(生きることの)成功は活動の中に夢中になって我を忘れることによって成就する。」(p.154)とし、また、「本当の問題は、〈人が生きる理由は、ある意味では自分自身として生きない理由である〉ということだ。生きたいと望むのは私なのだが、私は自分を失うことによって-自分でないことによって-生きたいと望む。」とも言う。
これは、僕が「成長」と呼ぶものにとても似ている。