3500字くらいだけど、僕にとっては結構大事な思いつきなので残しておきます。一方で、僕にとって大事ということは大多数の人には大事ではない気もするなあ。

僕は、形而上学的なことを考えるのが好きで、(不正確だけど簡単に言うならば、)この世界はあるのか、ないのか、というようなことばかり考えてきた。

それはそれで難問なのだけど、仮に形而上学的な問題が解けたとしても、難問はもうひとつある。それは、(もし、この世界があるとしたならば、)この世界は、どのようにして、このような精妙なあり方をしているのか、という問題である。

僕が見たところ、この世界はとてもうまくできている。この世界は時空的な広がりを持ち、安定的に物理法則が継続的に成立していて、自然科学に基づき様々なことが説明できるようなあり方をしている。また、この世界には水という物質が豊富に存在し、生命が満ちていて、そのなかには僕によく似た人間と呼ばれる他者がたくさんいる。更には、人間と呼ばれる他者とは言葉が通じるから、他者から様々なことを学ぶことができ、他者から新しい哲学的アイディアを学ぶことすらできる。などなど。他にも色々ありそうだけど、とてつもない数の条件がうまく揃わなければ、この世界はこれほどまでに精妙にはできてはいなかっただろう。昔から僕の中には、世界がこのような精妙なあり方をしていることへの驚きがあって、そして、驚きが、この精妙な世界をどうやってつくりあげているのだろう、という疑問につながっている。

この精妙な世界を前提とし、そこを議論の出発地点とするならば、そこには何の問題はない。だけど、形而上学の側から議論を出発し、何もないところから、この世界の精妙さを説明しようとすると、途端に問題となる。

これは哲学上の大問題だと思うけれど、僕が知る限り、この問題を正面から論じた哲学者はほとんどいない。多分、デカルトやカントあたりの時代の哲学者たちは考えていたように思う。(ただし、僕は彼らの人間本性を持ち出すような答え方では納得できない。)だけど、その後の大多数の哲学者は、この世界がこのような精妙なあり方をしているということは、問題ではなく前提として扱ってきたように思える。

それは、僕が好きな永井均や入不二基義も同様である。永井の独在性や入不二の現実性からは、この世界の精妙さを説明することはできない。つまり、独在性や現実性とは別に、この精妙な世界が前提として必要となるのだ。

この問題は存在論と認識論の隙間と飛躍の問題と言ってもいいだろう。

僕が形而上学と読んだものは、存在論と言い換えることもできる。簡単に言うならば、どのように認識されるかという制約から離れ、自由にこの世界の存在の仕方を考察するのが存在論であると言ってもいい。だから存在論が認識からの離脱を本質とするならば、存在論から、この認識を説明することはかなりの困難がつきまとうはずだ。

一方の認識論は、このような精妙な認識があることを出発地点とする。そこから、精妙な認識の背後にある仕組みを解き明かそうとするのが認識論であると言ってもいい。だから、認識論により、この精妙な世界を説明することはできない。(自然科学は、自らがこれほどうまくいく理由を自然科学の範疇内では説明できず、別に科学哲学を必要とすることは、この認識論の問題の派生問題であると言ってもいい。)

存在論と認識論がこのようなものであるとするならば、存在論にも認識論にも、この精妙な世界を説明する力はない。それどころか、存在論は、この精妙な世界から離脱するベクトルを有していることこそが重要なのである。つまり、存在論と認識論の間には隙間があるべきであり、両者をつなぎ合わせることには飛躍がなければならないのである。

つたない説明だけど、これが難問だということは伝わったのではないだろうか。

そのうえで、僕はこの難問への答え方を思いついたという話をしたい。と言っても、正面からの答えを思いついたのではない。この難問を別のかたちで問い直すことができるということを思いついたのだ。

もともとの問題はこのようなものだった。

「この精妙な世界は、どのようにして、このようなあり方をしているのか。」

この問題は次のように問い直すことができるのではないだろうか。

「この精妙な世界をその一部として位置づけるような、より大きな世界は、どのようなあり方をしているのだろうか。」

これが僕の思いつきである。

どうして、このような問いの置き換えが可能なのかを説明しよう。

まず、この精妙な世界を世界1とする。そのうえで、世界1をその一部として位置づけるような、より大きな世界を世界2として措定してみる。そうすると、世界2のほうは、精妙である部分と、精妙でない部分の両方を含んでいることになる。つまり、世界2は決して精妙だとは限らないことになる。

そのうえで、世界1から世界2へと視点をずらし、世界2のほうが、本当の世界のあり方であり、世界1のほうは、本当の世界の、ある側面のみが部分的に立ち現れたものだと考えてみる。そうすると、本当の世界は精妙なあり方はしていない、ということになる。精妙なあり方をしているように見えるこの世界は、たまたま、本当の世界のうちの、たまたま、精妙のように見えるごく一部を眺めているから、そう見えるだけに過ぎないのである。

そのように考えるならば、「この精妙な世界は、どのようにして、このようなあり方をしているのか。」という問いに対しては、「この世界は、精妙なあり方をしていない。」という答え方ができることになる。

当然、これで問題が解決した訳ではない。なぜなら、この精妙な世界1をその一部として位置づけるような、より大きな世界2についての説明がなされていないからである。世界1と世界2の関係はどうなっているのか、世界2とはどのようなあり方をしているのか、といった更なる問題がある。これは単なる問いの置き換えの作業に過ぎない。

だが、この作業は僕にとっては大きな意味がある。なぜなら、当初の「この精妙な世界は、どのようにして、このようなあり方をしているのか。」という問いは、いわば認識論的な問いであったが、それを置き換えた「この精妙な世界をその一部として位置づけるような、より大きな世界は、どのようなあり方をしているのだろうか。」という問いは存在論的な問いとなっているからだ。形而上学的な問いだと言ってもいい。

つまり、この置き換えにより、この精妙な世界についての問題を、僕がこれまで考えてきた形而上学や存在論と呼ぶべき問題領域に接続することに成功したのである。これはかなりの前進である。

では、どうやって、形而上学的にこの置き換え後の問題に答えるのかというと、なかなか難しい。なぜなら、この問題に答えるためには「精妙な世界1を部分として含む全体として、より大きな世界2が存在する」ということを述べなければならないけど、僕の形而上学においては、全体と部分という関係性を導くことができないからである。

全体と部分という関係性を導くためには、そこに2者が存在しなければならない。だが、僕の哲学では、「2」という複数性を取り扱うことができないのである。

常識的に考えるならば、この世界は「2」と呼ぶべき複数性に満ちている。眼の前にはパソコンやペンがある。人称的にも、他者と私といった複数性がある。時間においても現在・過去・未来という複数性がある。だが、これらは全て、認識論的に、この精緻な世界を観察することで獲得された複数性である。

僕は(自称)形而上学者だから、このような認識論から距離を置いていて、私から全く切り離された他者や、現在から全く切り離された過去・未来といったものが存在するとは考えていない。だから当然、パソコンやペンといった個物の独立性も否定している。つまり、僕の哲学においては、「2」という複数性がない。

僕はそれでよいと思っていたけれど、僕の哲学がこの精妙な世界の問題を扱えるようにするためには、僕は、どうにかして「2」という複数性をひねり出さなければいけない。

これは僕にとっては難問だけど、僕が好きな形而上学の問題だからワクワクする。この精妙な世界という認識論的な問題に正面から向かっていたときには、気分が上がらなかったけれど、それを複数性という存在論的な問題として扱うことができると思いついた途端に楽しくなってきたのだ。

これはきっと、社会が嫌いで数学が好きな生徒が、経済学は数学の問題だと捉えることで経済学を好きになったようなものなのだろう。言ってみれば、単なる好みの問題なのだけど、僕にとっては大発見なので書き残しておく。