※2500字くらいです。

自由には2種類あるとよく言われる。自由には消極的自由と積極的自由があるとか、自由にはフリーダムとリバティがあるとか、そういう話だ。

これまで僕は、そういう話を聞き、そんな気もするとあいまいにしか捉えていなかったけれど、最近、自分なりに明確に捉えるアイディアを思いついたので書き残しておく。

思いついたのは、自由については、自由のほうからではなく、自由の対義語であろう「制限」のほうから考えたほうがわかりやすい、というアイディアである。

僕が誘拐され、後ろ手に縄で縛られたとする。その時、僕は手を動かすことを制限されているから自由ではない。そこに仲間が助けに来て、縄を外してくれたなら、僕は自由になる。こういうときの自由とは、つまり、制限が無いという意味であり、「自由=無制限」ということである。これが、消極的自由やフリーダムに該当する。

では、もうひとつの積極的自由やリバティと呼ばれる自由について考えてみよう。そのためには、サッカーを例にするのがよいだろう。

手を使えないという制限は、誘拐だけではなくサッカーでも生じる。僕は縄では縛られていないけれど、サッカーのルールにより手の使用を制限されている。

では、サッカーのルールによる手の使用の制限を乗り越えるにはどうしたらいいだろう。ひとつは、縄を外すのと同じように、ルールから外れるという道筋がある。サッカーグラウンドの中で手を使ってしまうのである。これは、さきほどの「自由=無制限」という意味での消極的自由やフリーダムにあたる。

だが、サッカーには、もうひとつの制限の乗り越え方がある。サッカーに没頭するという道筋である。サッカーに没頭し、手を使えないことを楽しみ、そして、手を使えないことなど忘れてしまうのである。楽しみ、忘れることを通じて制限を乗り越えることを通じて自由を手に入れるのである。

いや、楽しみ、忘れるというと、手を使えないことが一旦は意識されてしまう。また、制限を乗り越えるというと、制限が一旦は前面化してしまう。より正確には、ただサッカーに没頭することで、制限などもともとなかったことにしてしまうことにこそ、もうひとつの自由の境地がある。

これは、つまり、制限という問題などそもそもなかったことになるという意味で、「自由=非制限」と言ってよいだろう。制限がある・ないがそもそも問題にならないから非制限である。積極的自由やリバティと呼ばれる自由とは、実はこういうものであり、一言で言うならば、没頭による制限の非成立のことなのである。

整理しよう。(後ろ手に縛られるという)制限と、(縄が外されるという)無制限という対立がある。そして、その対立構造をそもそも成立させないところに(没頭という)非制限がある。図で書くなら、「(制限⇔無制限)⇔非制限」となる。

無制限も非制限も制限ではないという点では自由と呼ぶに相応しいが、その意味は大きく異なる。だから自由には二種類あるのである。「(制限⇔無制限(自由1))⇔非制限(自由2)」となる。

この僕の捉え方の新しさがどこにあるかというと、二種類の自由の違いは、積極性と消極性の違いではなく、没頭の有無の違いだという点に着眼しているからである。

縄から解き放たれたことに意識を向けているということは、まだ縄に気を取られているという意味で没頭していない。そのような自由は、あくまで、制限がないという意味での「無制限」であり、制限の有無に囚われてしまっている。この自由を消極的自由と呼ぶのは、制限からの逃避だという点で、消極性があるからだろう。

一方で、縄に囚われているかどうかなんて関係ないと思えるほどに没頭したならば、たとえ、誘拐犯に縄で縛られていても、その人は自由である。なぜなら、その人は、縄による制限の有無など関係ないという意味で、制限の有無とは違う土俵に立ってしまっているからである。これを僕は「非制限」と呼称したが、正確には「制限」を二重線で抹消してしまうようなものである。または、より正確度を高めるならば、「制限」を消しゴムで消してしまうようなものであり、更に正確度を高めるならば、もともと「制限」などないのである。それが没頭である。

このような自由を積極的自由と呼ぶのは、没頭により制限を消し去るためには、没頭する「何か」に対する積極的な態度が必要だからであろう。

だが、その「何か」と自由とは関係がない。もし、僕が後ろ手に縛られたまま、涙を足の指に付けて絵を描くことに没頭したならば、僕は積極的自由とも呼ばれる非制限の自由を手に入れたことになるだろう。だが、絵を描くことと手を縛られることには関係はないだろう。僕が没頭するのはなんでもよく、口笛を吹くことに没頭してもいいし、明日の献立を考えるのに没頭してもいい。手を使わなくてもできることで、手を使えないことを気にせずできることであれば、没頭するものはなんでもいい。

足の指で絵を描くことや、口笛を吹くことや、献立を考えることには積極的な意味はないのだから、これを積極的自由と呼ぶのはミスリーディングだろう。何かに没頭するとき、確かにそこに自由はあるが、そこで重要なのは没頭であり、「何か」ではない。

それでも、それを積極的自由と呼びたくなるのは、最も強力で最も汎用性がある、没頭する「何か」とは「生きること」だからだろう。僕たちは、どんなに制限がある状況でも「生きること」に没頭することができる。アウシュビッツでガス室送りになるその瞬間であっても、僕たちは「生きること」に没頭することができ、そこには確かに自由がある。この自由とは、まさに生に対する積極的態度である。そういうことを考えたのが、僕が好きな『夜と霧』だとも言える。

だが、この話をいい話に終わらせないために付言すると、これは同時に、「生きること」は、没頭する「何か」のひとつのバリエーションでしかない、ということも意味する。人生とは、足の指で絵を描くことや、口笛を吹くことや、献立を考えることや、サッカーと同様に、没頭する「何か」に過ぎないのである。この「何か」とは、チェスやポーカーでもいい。そういうことを考えたのが、僕が好きな『キリギリスの哲学』だとも言える。

『夜と霧』と『キリギリスの哲学』という真逆のような二冊の本は、「没頭」でつながっている。