問題は、意味と認識からいかに離れるかである。

意味と認識の共同作業によりかたちづくられるものを(具体的な)出来事とするならば、出来事を用いずにいかに哲学をやるか、という問題だと言ってもいい。

最大の問題は、哲学の文章というもの自体が出来事であり、そして、きっと複数の出来事を複雑に組み合わせたものだということである。つまり、最も有効な問題解決策は、このような文章によらずに哲学をやることだろう。

だから、きっと、瞑想のような道筋がある。言語を捨てた瞑想を通じて、言語で表現できないような涅槃に到達したならば、ここで僕が取り上げているような問題は生じない。

だけど僕はそういうことがしたい訳ではない。

(と、書いてから、では僕はどうしたいのかと考えこんでしまったけれど・・・・・・)

僕は、やっぱり言葉で捉えきりたいのだ。答えに辿り着き、言葉で答えを書き残して、できれば、10代の頃の僕に伝えたい。それが無理なら、どこかにいるかもしれない、または、今後生まれてくるかもしれない、10代の頃の僕のような誰かに伝えたい。もし、答えに辿り着くことができなければ、途中経過を書き残して、その続きをきっと僕よりも優秀だろうAIか何かに託したい。そういう邪念が僕の中にはある。

この邪念が僕の選択肢を絞り込み、僕に不可能なことに向かわせているのは確かだろう。僕は、言葉や他者なんてものを前提としていないような素振りをしながら、どこか深いところで言葉や他者を抱え込んでいるのだ。

僕は、言葉や他者から目を背け、前提としないところから出発し、哲学をして、その先のどこかで言葉や他者を生み出し、再発見することを夢見ている。僕はこのような態度は矛盾していておかしいと思うけれど、きっと、世の哲学とは、こうあるべきなのだろう。哲学とは矛盾した営みなのである。

一応、僕自身の態度をどうして哲学全般に拡張できるかを説明しておいたほうがいいだろう。その理由は、哲学には、前提を取り払えば取り払うほど偉い、という物差しがあることに由来している。

基本的人権を前提としたら、それは哲学ではなく基本的人権思想になるだろうし、自然科学を前提としたら、それは哲学ではなく自然科学と呼ばれるだろう。哲学であるならば、前提がないところから、基本的人権や自然科学を導き出したくなる。それが哲学である。同様に、言葉や他者といった前提を無根拠に導入してしまったら、それは言葉・他者思想になってしまう。哲学ならば、言葉や他者など前提としないところを出発地点とし、そこから言葉や他者を導き出したくなるはずだ。

だから僕は、この矛盾した態度は僕だけのものではなく、哲学という営みがとるべき態度だと思うのだ。

きっと、最初の一歩が一番むずかしい。言葉や他者を前提とせず、具体的な出来事を何かひとつだけでもどうやって手に入れるのだろうか。「目の前にコップがある。」でもなんでもいい。どうやって哲学書の最初の一行を書くことができるのだろうか。

この第一歩はタウマゼインと呼んでもいい。永井的な表現をするならば、無内包である或る存在が、自らよりも大きなものに出会う瞬間である。入不二的な表現をするならば、無内包の現実の中に、特異点が存在として立ち上がる瞬間である。

きっと、この第一歩さえ乗り越えれば、あとは偶然性でなんとかなる。1度あることが2度あるかどうかは偶然性に委ねられ、偶然にも第一歩から第二歩、第三歩と進み、複雑なこの世界がかたちづくられれば済む話である。なぜなら、第一歩の中に含まれる「1」とはすでに複数性の「2」に開かれた「1」であり、複数性を含有しているからである。