※1万字近くあります。石川義正さんという文芸評論家の方の本を読んで考えたことが書いてあります。
前置き
『存在論的中絶』という本を読んだ。
正直、すべては理解できず、同意できなかったけれど、所々にキラリと光ることが書いてある、という読後感を抱くような本だった。なぜ、そういう感想になってしまうのかというと、とても私的なことが書かれている本だからだろう。この本には、普遍的な哲学的真理ではなく、筆者の人生における大問題(自らの出生と友人の死)に向き合う中で考えた事柄が描かれている。だから、筆者ではない僕たち読者は、筆者の問題と自らの問題が重なり合うところを探すようにして読み進めることになる。文章の中で、その一致点だけがキラリと輝いている。この本はそういう本なのだろう。
そういう訳で、僕は、そのキラリについて書いていく。だが、僕にとってのキラリと他の読者にとってのキラリはきっと違うだろう。僕は、僕にとってのキラリをかき集めるようにしてこの文章を書いていく。
(あと、断っておかなければならないけど、僕は、この本の多くを占める、書評のような個所はほとんど読み飛ばしている。)
この文章のあらすじを簡単に述べておくと、僕は、この本のタイトルともなっている「存在論的中絶」という主題から脱線し、「優生学的避妊」というアイディアを提示することになる。この世界は優生学的避妊に基づき営まれているのではないか、という指摘である。優生学的避妊という言葉からもわかるとおり、この文章のテーマは倫理的なものである。
ということで、「存在論的中絶」という言葉に引っ掛かってこの文章を読み始めた方への注意だけど、この文章は、存在論(形而上学)ではなくて倫理についてのものになります。そういう文章を読みたい方は読み進めてください。
存在論的中絶と優生学的中絶
この本のタイトルは『存在論的中絶』だが、これは筆者の独自概念なので、まずは、そこに対比される優生学的中絶の方から話を始めたほうがわかりやすいだろう。
優生学的中絶とは、障害児が生まれることを避けるためにする中絶のことである。胎児の段階で障害があると判明したので中絶を選択するというのはよくある話だろう。そこには、障害がないほうが障害があるより優れているという優生学的な考えがある。優生学的中絶とは、そういう普通の中絶のひとつのあり方である。
対して、存在論的中絶とは、存在は根源的に中絶を前提としており、人は皆、中絶を経て生まれてきたといった意味である。
と言ってもピンと来ないだろうけれど、この話のもとには、筆者の母が、筆者を産む前に何度か人工妊娠中絶をしたことがある、という筆者の私的な経験がある。もし、その中絶がなければ、その女性のもとには、姉か兄が生まれており、それ以上子供を産もうとはしなかっただろう。もしそうだとしたら、筆者は産まれてこなかったはずだ。だから、筆者は中絶により存在しているとすら言える。そういう意味で、筆者の母となる女性によって行われた、筆者の誕生以前の中絶は、存在論的中絶なのである。
そのうえで、筆者は、この存在論的中絶を筆者の私的な体験に留めるのではなく、拡大し、すべての人間に普遍的に当てはまるものであると考える。なぜなら、我々は皆、中絶の可能性がある中で、あえて中絶しないという選択がなされたうえで産まれてきたからである。中絶の否定というかたちで、全ての人間の命は中絶と関わっている。確かに、多くの母は、中絶の可能性など考えもせずに、子供を産むだろう。たいていの子供も自らに中絶の可能性があったことに思い至ることなく生きていくだろう。だが、いったん、中絶の可能性に気づいた途端、それは人間の生命の前提となる。だから、この中絶可能性は存在論的中絶なのである。
筆者は以上のような述べ方はしていないけれど、ぼくはそのように考えた。
(僕は、筆者が存在論的中絶を私的な体験から拡大し、普遍化したと捉えたけれど、筆者はそうではないと否定するだろう。筆者は、この本は、「ごく私的で特異な思弁の試み」(p.363)であるとし、「人間の出生をめぐる思考は普遍性を要求できない」(p.364)、「出生をめぐる、書き手みずからの「自伝的欲望」を繰り込んでいない理論や研究は、原理的にすべて真実との誤差と欺瞞を含んでいる」(p.364)と述べているからだ。
だが、出生に関するものであろうとなかろうと、書くという行為自体が、真実との誤差と欺瞞を含んでおり、哲学という営み自体が、ごく私的で特異な思弁の試みであることから逃れることができないのではないか。人は、私的な事柄を普遍的に描くことしかできない。それが言語であり、思考というものなのではないか。)
優生学の拡大解釈
という訳で、優生学的中絶と存在論的中絶とは、全く次元が違う話だ。
それなのに、なぜ、筆者がその二つを結びつけるのかというと、筆者には、精神障害がある友人の死という、もうひとつの重要なエピソードがあるからだ。だから、障害者を排除しようとする優生学的な視点に注目するのである。優生学的中絶とは、優生学による障害者の排除が最も根本的かつ先鋭化したかたちで行われる場面であろう。(なお、確か、この本では優生学的中絶という言葉は使っていなかったと思う。)
こうして、自らの出生と友人の死という筆者にとっての二つの大きな問題が、中絶という言葉で統合されるのである。
だが、僕は筆者と私的な経験を共有していないから、このような優生学的中絶と存在論的中絶との結びつけは妥当なものとは感じられない。中絶には、胎児の障害以外にも、経済的事情や、強姦や夫婦間の不仲といった事情によるものなど、多岐にわたるだろう。もし、存在論的中絶という普遍的な中絶と対比させるならば、障害者排除のための優生学的中絶だけでなく、こういった諸々の理由のための中絶を含め、個別的な事情による中絶として対比させるべきだろう。普遍と個別の対比である。個別の事情による諸々の中絶のなかで、あえて、障害者を排除するための優生学的中絶のみに焦点を当て、普遍的な存在論的中絶と対比させる必然性はないように思える。
しかし、僕はちょっといいことを思いついた。もともとの障害者排除という優生学の意味を拡大解釈し、そのような中絶に加え、経済的事情や、強姦や夫婦間の不仲といった事情による人工妊娠中絶も、すべて優生学的中絶である、と捉えることができるのではないだろうか。そのような操作をすれば、広義の優生学的中絶と存在論的中絶を対比することができる。
なぜこのような読み替えが可能なのかというと、貧困家庭に子供ができて更に貧乏になるよりも、子供ができないほうが状況として優れているからである。または、強姦されて望まない子供が生まれるよりも、子供がいないほうが優れているからである。そのような、優れた状況を選択するためになされる中絶は、すべて広義の優生学的中絶である。
そう考えるならば、すべての中絶は、より優れた状況をつくりあげるためになされるとも言え、すべては優生学的中絶であるということになる。(強姦されたうえに望まない出産までしてしまうといった)状況の更なる悪化の回避という消極的な目標設定も含め、諸々の個別的事情のなかで、より優れた状況を目指してなされる人工妊娠中絶はすべて優生学的中絶である。
当然、ここでは優生という言葉の重大な読み替えが行われている。より優れた遺伝子という意味での優生から、より優れた状況という意味での優生への読み替えである。その読み替えがもたらす結果については次節で場面を変えて論じる。
狭義の優生学の問題
優れた遺伝子を選択すべき、という(狭義の)優生学的主張は、ある意味では刺激的で魅力的なアイディアである。だからこそ、20世紀前半を中心に、あれだけの大規模な悲劇を引き起こすことができたとも言える。一方で、僕が読み替えを行った広義の優生学的主張は魅力に乏しい。より優れた状況を目指すべきというのは当たり前すぎて、人生や政治の行動指針としては何の役にも立たず、何の力も持たないからだ。空腹のままでいるより満腹な状況のほうが優れているから食事をする。子供が海で溺れてしまうより生きている状況のほうが優れているから浮き輪を投げる。より優れた状況を目指すのは当たり前であり、あえて言及する価値もない。狭義の優生学とは特殊な思想であるからこそ、特別な価値があるが、広義の優生学は、普遍的すぎて特別な価値がない。
このように対比してみると、狭義の優生学のどこに特殊性があり、どこに価値があるかが浮かび上がってくる。狭義の優生学は、優れていること、つまり「優生」に着目したという点に価値があるのではない。その優生が、遺伝子についての優生であり、出生の時点(妊娠中または出産直後)に限定した優生であるという点に価値があるのである。狭義の優生学とは、いわば、遺伝子万能主義であり、出生時選択万能主義であるとも言える。
だが、当然、優れた生は、遺伝子だけで得られるものではないし、出生時の選択のみで得られるものでもない。仮に、遺伝子が優れておらず、障害を持っていたとしても、優れた生を得る可能性はあるし、どれほど遺伝子が優れていても、優れた生を得られない可能性はいくらでもある。それなのに、狭義の優生学は、乱暴にも出生時点ですべてを決めてしまう。広義の優生学の側からは、狭義の優生学をそのように批判することができる。
広義の優生学の問題
だが、このような広義の優生学からの狭義の優生学批判には、どこか穏やかではないものがある。考えてみれば、より優れた状況を目指すべき、という広義の優生学からすると、空腹を満たしたり、溺れた子供を助けたりするのと同程度には、障害があるとわかった胎児を人工妊娠中絶することには、正当性があるということになる。広義の優生学から導かれる、このような主張は、(狭義の優生学よりはマシとは言え)、やはり不適切なのではないか。
そこから、たいていの道徳的主張は、食事や人助けと人工妊娠中絶との違いを発見しようとする方向に進む。本能の特別さや、人助けの社会性や、障害者の中に隠されている優れた価値を強調したりする。だが、いずれの主張も、より優れた状況を目指すべき、という、広義の優生学が持つ、あっけらかんとした(すくなくともある一面での)真理に届いてはいないように思える。
広義の優生学に対する批判は、もっと別の角度からなされるべきだろう。
中絶から避妊へ
批判に先立ち、まず、広義の優生学が抱える問題を浮かび上がらせてみようと僕が思いついたのが、優生学的避妊というアイディアである。広義の優生学が抱える問題を指摘するには、中絶よりも避妊の場面に着目するほうがよいのではないか。
とは言っても、僕自身の避妊だと生々しすぎるので、他者の避妊を例にしたい。僕の飼い猫の避妊である。僕はミッタン(メス)とタックン(オス)というネコを二匹飼っている。二匹は、それぞれ別の保護ボランティアからもらった保護ネコで、うちに来た時には、どちらも避妊手術が済んでいた。(ついでに言うと名前もすでについていた。)
(日本の都会の)ネコ(やイヌ)というのは、特異な生き物だと思う。大多数のネコが避妊手術を受けていて、一握りのネコが何匹も子ネコを産んで子孫を残していく。そのようにして、ネコの総数がコントロールされ、破綻せずにネコは生き残っていくことができる。イエネコというのはそういう特異な戦略で生き延びてきた種族である。
人間の目から見ると、人間に飼われたネコは幸せそうに見える。きっと、うちにいるネコたちもそこそこ幸せだろう。ごはんもきちんとあるし、狭いけれど一戸建てのすべてを2匹のネコ(と3人の人間)だけが縄張りとして独占できている。これは優れた状況である。一方で、もし避妊手術をしなければ、二匹は交尾をして、いくらでも子供を産んでしまうだろう。うちは多頭飼育崩壊でネコだらけ、ネコの糞だらけになるだろう。そうしたら、ネコはきっと十分なエサを確保できず、ストレスだらけの状況のなかで生きていくことになる。これは優れていない状況である。
だから、ネコに避妊手術をして、ネコの総数を調整することは、広義の優生学に基づくならば望ましいことである。これが優生学的避妊である。ペットではなく人間でも同様であり、日本の都会に住む人は子供ひとりひとりに十分な教育を施し、優れた人生を歩んでもらうために子供の数を減らすし、アフリカの貧しい人たちにはコンドームを配ったりもする。避妊しないよりも避妊したほうが優れた状況を得られるから避妊する。優生学的避妊とは、このような極めて当たり前の避妊のことである。
(同じようなことは、人間が介在しない自然界でも行われている。魚のように多数の子供をばらまくr戦略と、ゾウのように少数の子供を大切に育てるK戦略である。だが、二つの戦略の間に優劣はなく、r戦略よりもK戦略のほうが優れている、といったかたちで広義の優生学は適用されない。もし、適用されるように思うなら、ドキュメンタリーのテレビか何かを観て、魚の卵があっけなく他の魚に食べられてしまうのを悲しんだり、ゾウの子供が母ゾウに大切に守られている姿に感動したり、という人間の目線が介在しているからに過ぎないだろう。)
このように中絶から避妊に場面をずらすのは、中絶の場合には問題になることが、避妊の場合には問題にならないからである。
人工妊娠中絶の場合には、それが人間の死と同等かはともかく、胎児の中絶という生々しい結果があるから、そこに問題を感じる。『存在論的中絶』を通じて筆者は、人工妊娠中絶には問題がないことを論証しようとしているけれど、そもそも、そこには問題があるように感じなければ、あえてそれを否定する論証をする必要もない。人工妊娠中絶とは、よく考えてみれば問題はないかもしれないが、少なくとも、一見、問題がある行為である、という前提がある。
一方で、避妊には被害者はいない。精子にも人格を認め、死にゆく精子に憐憫を感じてもいいけれど、うちのタックンのように去勢手術をしてしまえば、そのような被害者もいない。胎児のような目に見える被害者(の候補となる者)がいないという点で、避妊は、中絶との明らかな違いがある。
だが、そこで話は終わらない。中絶とは異なり、具体的な被害者が生じようがないからこそ、避妊の場面を考えることで、より深い問題領域に降りていくことができる。だから、僕は優生学的避妊というアイディアを持ち出したのだ。
僕は思う。優生学的避妊においても、生まれるはずだったけれど、避妊により生まれることができなかった生命、という被害者を想定することができるのではないだろうか。中絶の場合にはその被害者がタンパク質の塊としての姿を持っているけれど、避妊の場合には、そのような姿を有してはいない。だが、出生が叶わなかったという点では、理念的には同じことが起きていると言えるのではないだろうか。
この問題を考えるためには童話のような場面を想像してみるといいかもしれない。
場面は雲の上の天国である。神様のもとには、これから人間世界に生まれることを待っている多数の子供たちが過ごしている。雲の上に広がる草原で、子供どうしで遊びながら、ときどき、雲の隙間から下を覗いて、どの家に生まれるのかな、なんて互いに話している。だけど、下界の人間たちは避妊ばかりしていて、なかなか自分の順番が回ってこないから、天国の子供たちが待ちくたびれてしまう。僕が想像するのはそういう状況だ。つまり、一見、非の打ちどころがないように見えた優生学的避妊にも、天国の待ちくたびれた子供たちという被害者がいるのである。
童話的な描写から離れるならば、童話の中の天国の子供たちが象徴しているのは、「可能性」である。優生学的避妊は、一見非の打ちどころがないように見えながら、子供が生まれる可能性を損ねるというかたちで、可能性という被害者を製造し続けているのである。
優生学避妊の含意
中絶から避妊に視点をずらし、優生学的中絶ならぬ優生学的避妊というアイディアを持ち出すのは、そこから、より根源的で広範な侵害性を認めることができるからだ。
優生学的中絶においては、あくまで問題は侵害の対象は生々しいタンパク質の肉体を持つ胎児に限定されており、その場面も、妊娠から出生までの一連のプロセスに限定されている。
一方の優生学的避妊においては、可能性そのものが侵害されており、更にその場面は妊娠から出生というある時期には限定されない。
コンドームをつけたり、ピルを飲んだりして行うセックスが避妊であるとするならば、妊娠よりもセックスの機会のほうがはるかに多い。また、避妊手術をしても、またはしなくても、セックスをしない、ということ自体が避妊の一種であるとするならば、人間は(またはネコは)人生を通じて、ほぼすべての期間において避妊しているとすら言ってもいい。僕たちは、人生を通じて、子供たちが生まれる可能性を侵害し、損ない続けている。
中絶は、生々しく、心に深く刻み込まれる出来事であり、だからこそ特殊な問題である。一方で、避妊は、カジュアルで、気にも留められない出来事であり、だからこそ普遍的で、根源的な問題である。
この中絶と避妊の対比は、優れた生と結びつけ、優生学的中絶と優生学的避妊という対比をすることで、より浮き彫りになる。
優生学的中絶の場合には、中絶という事態が特殊で重大なものすぎるので、それが優生学的なものであることに注意が向かわず、相対的に問題とならなくなる。優生学的中絶における重心は、優生学的「中絶」のほうにある。だからこそ、『存在論的中絶』というタイトルのこの本では、中絶にこだわり、そこから存在論的中絶という新たな概念を生み出すことにも成功している。
一方で、優生学的避妊の場合には、避妊という事態が普遍的で軽すぎるものなので、それが優生学的であることの方に注意を向けることができる。優生学的避妊における重心は、「優生学的」避妊のほうにある。
「優生学的」のほうに重心を置いて述べるならば、優生学的避妊とは、より優れた状況を目指して、子供が生まれることを避ける判断全般のことであり、要は、子供をつくるためのセックスをしている一時を除いた、僕たちの人生のほぼ全てのことである。
そこから、避妊という場面設定を外し、「優生学的」人生自体を論じることは必然だろう。僕たちは、より優れた状況を目指して生きている。これが優生学的人生である。
中絶は避妊を経由して人生につながり、議論は優生学的人生そのものへと向かっていく。
優生学的人生から存在論的人生へ
優生学的人生とは、より優れた状況を目指して生きるような人生のことである。これは極めて当然のことであるように思える。僕たちは空腹のままでいるより満腹な状況のほうが優れているから食事をする。子供が海で溺れてしまうより生きている状況のほうが優れているから浮き輪を投げる。より優れた状況を目指すのは当たり前であり、あえて言及する価値もない。僕はこの文章の前半でそう述べた。
だが、ここまでの議論を経た今、僕は、このような優生学的主張には、優生学的中絶とどこか似たような違和感がある。もし、優生学的主張を受け入れてしまったら、セットで優生学的中絶についても受け入れてしまうことになるのではないか、そんな危機感があるのだ。
確かに、優生学的中絶とは特殊な問題で、人生全般に普遍化することはできないように思える。だが、それは、優生学的中絶のうち、優生学的「中絶」のほうに重心があるからである。そこで、優生学的中絶と優生学的避妊を並置することで、「優生学的」中絶のほうに重心を移すことで、そこには優生学的であること共通の問題があることが浮かび上がってくる。
回りくどい言い方はやめてはっきり言おう。
障害があるとわかった胎児を人工妊娠中絶することと同様に、空腹を満たすことにも、溺れた子供を助けることにも、そこには共通して優生学的な問題があるのだ。より優れた状況を目指すということ自体がそもそも問題なのである。
障害があるとわかった胎児を人工妊娠中絶することの問題は、障害がある胎児が持っている命を奪ってしまうからではないし、中絶という行為が悪いことだからでもない。それが、より優れた状況を目指す行為だからなのである。その点で、障害がある胎児の中絶が悪いことであるならば、それと同じくらい、空腹を満たすための食事や、溺れた子供に向かって浮き輪を投げる行為は悪いことである。
僕は、存在論的中絶という概念を用いて筆者が述べたかったのは、こういうことではないかと考えている。筆者の友人は、統合失調症を抱え、更にALSとなり、より優れた状況を目指すことができなかった。より優れた状況を目指すという優生学的指針を受け入れるということは、筆者の友人を拒否するということである。筆者は、その代わりに、優生学的指針の手前に存在論的領域があることを発見し、そこで、存在論的中絶というアイディアを築き上げたのである。だから、存在論的中絶という言葉の重心は、「存在論的」中絶のほうにある。優生学的ではなく存在論的であるという点に、筆者の思いが込められている。
だから、それを「存在論的」人生と捉えなおすことには大きな問題はないはずだ。
より優れた状況を目指すことも、より優れた状況を目指さないことも、同程度に良いことであり、同程度に悪いことである。中絶しようが、中絶しまいが、満腹であろうが、空腹であろうが、子供が助かろうが、子供が助かるまいが、それは同程度に良いことであり、同程度に悪いことである。そこには善悪の物差しは適用できない。
そのことを存在論的に言い換えるならば、存在することの中には、優れていることと、優れていないこととがともに含まれている。優れていようが、優れていまいが、そこには人生が存在しているのである。
これが、死んだ友人を受け入れる道筋であり、これが存在論的人生である。
やはり存在論的中絶へ
だが、筆者が論じる存在論的中絶には、それ以上の含意があるとも言える。なぜなら、存在論的「中絶」には、存在しなくなることも含意しているからである。筆者の友人は、ALSで苦しみつつ、最後まで尊厳死を選んだ。存在論的中絶とは、このような死をも含んだ概念である。存在論的中絶のなかに、中絶と非中絶とが折りたたまれるようにして含まれており、その結果として、存在と非存在が、ともに存在論的中絶に含まれている。
このことを存在論的人生に取り込むならば、優れていようが、優れていまいが、そこには結局は人生が存在している、という存在論的人生の意味は変わってくることになる。友人は死に存在していないのだから。
優れていようが、優れていまいが、「更には、人生が存在していようが、人生が存在しなくなろうが、」そこにはより広義の意味での人生が存在している。これが、存在論的中絶を視野に入れた場合の、より正確な存在論的人生の描写である。
なお、この、より広義の意味での人生の存在とは、当然、普通の意味での存在ではない。そうでなければ、存在しなくなろうが存在している、という単に矛盾した文章になってしまう。
この広義の存在とは、存在しなくても存在しているような存在のことであり、入不二哲学ならば、潜在と呼ぶべき存在のあり方のことである。
確かに、筆者の友人は死に、実在していない。または、天国で出生の順番待ちをしている子供たちも実在していない。だが、彼らは潜在している。そのような潜在している者たちも含め、存在論的人生として肯定することが、つまり、彼らの存在に根源的な価値を認めるということである。別の言い方をするならば、既に死に、または、まだ生まれていない彼らの人生を肯定するということ自体が、彼らの潜在性としての存在を認めるということであるとも言える。
そこまで考察を進めることで、ようやく、筆者の友人の人生を肯定的なものとして捉えることができる。(彼の人生を否定的なものであることを正面から認めることによって肯定するのである。)
そのとき、僕たちは倫理の極北にかなり接近しているように思う。