-怒髪天のライブに行って考えた「地続きの超越」についての話-

1 かっこいい

「かっこいい」という言葉には、「かわいい」や「美しい」のような、他の肯定的な言葉にはない特別さがあるように思う。それは、生きる姿勢との深い結びつきである。

かっこいい生き方はあっても、かわいい生き方や美しい生き方はない。(より正確には、「かわいい生き方」という言葉は成立しうるが、小さくこじんまりした生き方と言う感じがあり肯定的とは言えない。また「美しい生き方」とは潔い生き方を指しそうだが、これはかっこいい生き方と言うほうが、より適切だろう。)

また、かっこいいをイケメンやハンサムと言い換えてしまったら、どこか薄っぺらくなってしまう。(またはイケメンな生き方に深みがあると感じるならば、その述べ方に、かっこいい生き方が含意されてしまう。)

そのように考えると、肯定的な価値を表現する様々な言葉の中でも、「かっこいい」という言葉には、外見だけでない、人生を生きる姿勢に関わる特別さがあるのである。

これは僕の個人的な感覚に過ぎず、誰もが同意するような普遍的な話ではないのかもしれない。だが、ロックが好きな方ならわかってもらえるのではないかと期待して書いている。そう、これは哲学的ではあるけれど、論理よりもロックであることを優先し、ロックで強引に押し通そうとする文章である。

2 「地続きの超越」としての兄貴性

ところで、なぜこんなことを考えたのかというと、先日、怒髪天というバンドのライブに行き、ボーカルの増子直純さんはつくづくかっこいいなあ、と思ったからだ。

世にはかっこいい人がたくさんいる。だが、たいてい、その「かっこいい」は純粋なかっこいいではない気がする。顔立ちが整っている、すごみがある、天才だ、愛らしい、など、何か別の要素が多分に混じってしまっている。

一方で、増子さんには失礼だけど、増子さんの外見は悪くはないが、より整っている人はいくらでもいる。最近ますます歌うのが上手になっているし、(増子さんが担当している)怒髪天の曲の歌詞もいいが、より作詞の才能があるアーティストはいくらでもいる。

だが、あのステージでの増子さんは誰よりもかっこよかった。そこにあったのは、不純物を取り除いた純粋なかっこよさだった。

そこで、僕が感じた、あの純粋なかっこよさとは何だったのかを考えてみたのだけど、それは兄貴性や先輩性と呼ぶべきものではないだろうか。増子さんは兄貴肌で「アニイ」と呼ばれている。そこからの連想かもしれないが、そんなことを思いついた。

兄貴や先輩は、親や先生や師匠ではないという点が重要だ。自分と地続きの同じ土俵上の存在だけど、自分を少し超えているのである。自分と同じだけど少し超えていることを「地続きの超越」と呼ぶならば、兄貴性や先輩性とは、この「地続きの超越」のかっこよさのことである。(この文章では、アニイに敬意を表し、兄貴性でいきます。)

僕は増子さんに「地続きの超越」としての兄貴性を感じ、それをかっこいいと感じたのではないか。

3 「地続きの超越」としてのかっこよさ

実は「地続きの超越」という言葉は結構重要で、兄貴かどうかに限らない「かっこよさ」の本質を指し示す言葉でもあるのではないか。

なぜなら、兄貴と自分との間の「地続きの超越」こそが兄貴のかっこよさであるならば、同様に、自分と目指す未来の自分との間の「地続きの超越」こそが自分自身の人生におけるかっこよさだとも言えるはずだからだ。

実際、未来において、今の自分と地続きの同じ土俵上にあるけれど、今の自分を少し超えた自分になることを目指すというのは、とてもかっこいい生き方のように思える。

当然、ここには無理がある。今の自分であり続けるほうが楽だろうし、変わるならば、いっそのこと、今の自分を否定して、全く新たな自分にジャンプしたほうがまだ楽かもしれない。今の自分と真摯に向き合いながら、今の自分と地続きの、少し超えた地点を目指すことは、見た目は地味な割に、結構、自分自身に負荷をかける作業である。だが、その地味な作業がかっこいいのである。

かっこよく生きるとは、逆説的だけど、格好をつけてスマートに生きるということでは全くない。かっこよく生きるためには、自分自身を受け入れ、自分自身をひきずったまま、重い足取りで、それでも一歩前に進むしかない。それは怒髪天の歌詞のような、泥臭い生き方である。

4 私的な作業

そのような意味で、かっこよく生きるとは私的な作業である。

もし、自らが進むべき道を、自分自身ではなく、誰かの意見、ひいては世の中の価値によって定めたなら、それは、かっこいいというよりは、例えば、正しい生き方になってしまう。

当然、二つの生き方は重なることもある。たいていの人にとって、電車で老人に席を譲るのは、正しくて、かつ、かっこいい生き方である。だが、ある人にとっては、勇気を出せず老人に席を譲るタイミングを逃してしまい、そのことに思い悩むことのほうが、より、かっこいい生き方であることはありうる。

かっこいい生き方とは、Googleマップのように、設定した目的地点、つまり「人生において到達したい状況」から逆算して、その地点への効率的な行き方を見つけるような生き方ではない。人助けをしたという(正しい)状況、お金持ちで健康になっているという(幸せな)状況を目的地点として設定し、そこにただ向かう人生は、正しい人生や幸せな人生ではありえても、決してかっこいい人生ではない。

かっこいい人生とは、自分の外にゴールを設定するのではなく、どこまでも自分自身の中にある材料だけで何とか一歩でも前に進むような生き方でなくてはならない。

5 「地続きの超越」の循環を打ち破った指先

かっこよく生きるとは、どこまでも自分自身の中での私的な作業であるならば、そのかっこよさを、僕はどこから学んだのだろうか。

人によってかっこよさは違うだろうし、そもそも、「泥臭く生きることこそがかっこいいんだよ」などと口で伝えられても全然心には響かない。それは、道徳の授業で、「クラスメイトに優しくするのがいいことなんだよ」などと言われても全然心に響かなかったのと同じである。

優しさは、言葉ではなくて、優しい人からしか学ぶことができない。同様に、かっこよさも、泥臭くかっこいい人からしか学ぶことはできない。

泥臭くかっこいい人とは、現にかっこよく生きている兄貴のことである。兄貴の生き様を通してしか、かっこよさを学ぶことはできない。つまり、「地続きの超越」としてのかっこよさは、「地続きの超越」としての兄貴からしか学ぶことができないということである。

一方で、全くかっこよさを知らなければ、その学んだものをかっこよさだと気づくこともできない。だから、兄貴から学ぶ前に、自分自身の中で、すでにかっこよさを知っていなければならない。

ここには、かっこよく生きることが私的な作業であるが故の閉じた循環がある。かっこよさは兄貴から学ぶしかないが、学ぶ前にすでにかっこよさを知っていなければいけないという循環である。かっこよさという「地続きの超越」と兄貴性という「地続きの超越」が癒着し、循環しているのである。

この癒着した循環を打ち破ったのが、あの日のライブでの一瞬だった。

『明日の唄』という曲の「嗚呼、明日に続く」というサビで、増子さんは自分の斜め上、客席の上を指さすポーズをした。そのとき、増子さんの指先が、そして彼自身の生き方が、僕が進むべき方向を示してくれた気がした。増子さんが兄貴であること、そして、それがかっこよさであること、そして僕はそれを追うべきことを一気に教えてくれたのだ。

増子さんが指さしたのは、とにかく「かっこよく生きろ」という人生の道である。

6 兄貴の背中

ただ、兄貴がかっこよさを伝達する場面について、ステージと客席の関係で示すことは不正確かもしれない。なぜなら、そこにあるのは、フェイス・トゥ・フェイスの対面関係であり、歌詞も含めた言葉でのコミュニケーションを連想させるからだ。

それならば、視覚上は確かにステージ上の増子さんの指先から学んだけれど、より正確に観念的に捉えるならば、僕も同じ土俵に乗ったうえで、その背中から「かっこよく生きる」ことを学んだ、と言ったほうがいいだろう。

増子さんの「地続きの超越」を目指す泥臭い生き方に自分を重ね合わせ、同じ方向を向き、そして、増子さんが自分より一歩先を行く兄貴だと認めるからこそ、僕は兄貴から学ぶことができるのだから。

それが、兄貴の背中から学ぶということである。「地続きの超越」を目指す生き方を、「地続きの超越」としての存在である兄貴の背中から学ぶのである。

背中から学ぶからこそ、かっこよさと兄貴性という二つの「地続きの超越」の論理的な循環を打ち破ることができるとも言える。

だから、そこで伝わるのは言葉としての知識ではなく、生き様としての勇気である。人は、兄貴の背中を追うことで、勇気を出して一歩踏み出し「地続きの超越」を目指すことができるのである。

7 二つの反省

ここまでの話は、要は、怒髪天のライブに行き、二つの「地続きの超越」について考えたという話である。二重の「地続きの超越」とは「かっこよく生きる」という自分自身の「地続きの超越」と、そのような生き方を学ぶ場面での僕と兄貴との間での「地続きの超越」であった。二つの「地続きの超越」を重ね合わせることで、僕は「かっこよく生きる」ことを学び、勇気を出して、その一歩を踏み出すことができる。

なぜ、そんなことを考えたかというと、きっと、最近、僕自身がかっこよさを見失っていたからなのだろう。人生も後半戦となり、最終的に、自分の人生をどのようなものとするか、ということに意識が向きすぎていたのである。お金に困らず、家族が幸せに暮らし、自分の哲学も形になっている。そんな状況をゴールに設定し、そこに向かって進むことばかりを考えすぎていた。

だが、これは、正しい人生だったり、幸せな人生だったり、意義のある人生だったりするけれど、決してかっこいい人生ではない。

かっこよく生きるとは、お金・健康・幸せ・哲学といった抽象的な言葉で、自分の外にゴールを定めて、そこに向かおうとすることではない。決して外には逃げず、僕の中にある材料だけで、今の僕を少しでも超えていこうとする姿勢だけが、かっこよく生きることにつながるのである。このことを僕は確認した。

また、もうひとつの僕自身の問題として、これまで他者を軽んじすぎていたという反省もある。僕は、自分ひとりで前に進んできたのではない。きっと怒髪天の増子さん以外にも、様々な人たちがかっこよさを実演し、背中で僕に道を示してくれていたはずなのに、それを忘れてしまっていたのである。

もし、誰かから言葉で伝えられただけなら、その言葉に反論し、否定することもできる。僕は弁が立つほうだから、たいていのことは難癖をつけて論破することもできる。だが、背中で示された生き様を論破することはできない。そのことを僕は忘れてしまっていたのだろう。

僕が二つの「地続きの超越」について考えた背景には、抽象的な言葉でゴールを設定しすぎ、そして、他者を軽んじすぎていた、という僕の生き方への二つの反省があったのである。

これからの半生、僕は、これまでの半生で起きた様々な具体的な出来事、出会った人々、そこで生じた様々な感情といったものを、決して手放さず、逃げず、泥臭く、愚直に抱えて生きていきたいし、そうしていくしかない。なぜなら、それこそが、「かっこよく生きる」ということであり、兄貴の背中を追って生きるということなのだから。

8 ハイブリッドレインボウ

ところで、怒髪天のライブでこんなことを考えた数日後に、あるロックフェスで元ピロウズの山中さわおさんの『ハイブリッドレインボウ』の弾き語りを聴いた。この曲のなかに「ここは途中なんだって信じたい」という歌詞がある。

「かっこよく生きる」とは、これまでとこれからを地続きに捉え、そして、そこから逃げずに一歩でも先に進むことだとも言える。それは、人生をどこまでも途中として捉え、過程として生きる、ということである。

その点で、さわおさんと増子さんは一致しているとも言える。

だけど実は、数か月前、ピロウズのドラマーである佐藤シンイチロウさんが病気で亡くなったという経緯がある。『ハイブリッドレインボウ』は、いわば、ピロウズというバンドが途中であることを歌った曲でもあるけれど、このときのさわおさんは、もう途中ではない、という喪失感を歌っていたとも言える。もう泥臭く「かっこよく生きる」ことはできないという喪失である。

だが、それでも一歩前に踏み出すことこそが、本当の泥臭さであるとも言える。または、それでも、一歩踏み出すことができなかったとしても、そのことも含め、本当の泥臭さであるとも言える。

「地続きの超越」とはそんなに生易しいことではない。なぜなら、今と未来の間には深い溝があり、また、僕と兄貴という他者の間には深い溝があるからだ。

「地続きの超越」とは、論理的には不可能な他者や未来との架橋であり、不可能でも一歩踏み出す実践の勇気である。勇気など出せないという失望も含めた勇気である。

ロックは、そんなことを歌っているのではないのだろうか。どうも僕は、ロックから色々なことを学んでいるようだ。