※ 11,000字以上あります。
※ これは、昨年7月に沖縄の久米島に旅行した直後に途中まで書いた文章の続きを一年近く経って書き足したものです。
1縦糸と横糸
この世界は、織物のように、縦糸と横糸で織られている。
こう書くと、また突飛なことを言っているように思われるかもしれないけれど、それほど変わった話はしていないつもりだ。説明を少し加えれば、多くの方に理解してもらえるのではないか。
機織り機は、縦糸をまずセットしてから横糸を通していく。だから、織物の縦糸とは、横糸を通すための基礎となるものであり、織物とはこの世界についての比喩的表現だとするならば、縦糸とはこの世界の根源的な仕組みのことである。
現代人の常識的な科学観に基づくならば、この世界には時空的な広がりがあって、因果律が働いている、といったものが縦糸としての根源的な仕組みの一例となる。
このような世界の仕組みとしての縦糸に直交するようにして、この世界の具体的なできごとが横糸として織りこまれている。それは例えば、太陽系の第三惑星に生命が誕生し、それが人間という知的生命体に進化した、というできごとである。または、第三惑星の最も大きな大陸の東側の島に、ある人間が生まれ、パソコンに向かって文章を書いている、というできごとである。そのような様々な具体的なできごとが横糸として織り込まれているのである。
なぜ、このように、縦糸と横糸を区分するのかというと、実際起きている個別具体的なできごとが、なぜこの出来事であるかは、時空や因果といった仕組みからだけでは導けないからである。
時空や因果といった仕組みだけに基づくなら、地球に生命が誕生し、人間に進化しなくてもよかったはずだし、今日は雨が降っていなくてもよかったはずだ。だが、実際は、生命は人間に進化し、今日は雨が降っている。そのような個別具体的なできごとが起きている。このことは、世界の仕組みからだけでは導くことができない。
この困難に着目し、世界の仕組みと具体的なできごとを峻別するため、縦糸と横糸を区分しているのである。
(この文章では、とりあえずでも、この困難を認めた上での話をしたい。だから、困難自体についての更なる説明は最後におまけとして行っている。)
2形而上学における横糸問題
なぜ僕が縦糸と横糸の区分にこだわるのかというと、僕が好きな哲学、特に形而上学は、僕自身が行ってきたことも含め、これまで縦糸にばかり着目しすぎてきた、という問題意識を最近抱いているからである。
僕のような形而上学愛好家がやってきたことは、ここまで例としてきたような、時空や因果律といった常識的な世界観に疑問を呈し、それとは別の世界の仕組みを描写しようとする試みである。
形而上学は、世界の仕組みを描写しようとするあまり、具体性から距離をとろうとしすぎている。具体性を排除し、世界の仕組みのみを純粋な形で追及しようとしすぎているのである。そして、その純粋性故に大きな困難に直面しているのである。
(「世界」という言葉は不正確だが、他によい表現がないので、やむを得ず使っているが、僕は、他にも「あちら側」といった表現を使うこともある。また「仕組み」についても「構造」、「存在の在り方」などと言い換えもできる。)
それが、冒頭で述べた、世界の仕組みから、具体性を導くことができない、という問題である。当然、純度が低い議論であれば、世界の仕組みのほうに具体性が無意識に混入されるので、世界の仕組みが具体性を取り扱えているように見えることもある。だが、形而上学の純度を上げれば上げるほど、そのような誤魔化しはきかなくなり、形而上学は具体性をうまく扱うことができなくなる。
だが、うまく扱えないからといって、形而上学が構築した「世界の仕組み」から具体性を排除してしまったら、その形而上学は不十分なものになってしまう。
なぜなら、具体性も世界の要素であるはずであり、その要素を排除するということは、世界の仕組みを不十分にしか把握できなくなるということだからである。
よって、形而上学が具体性の問題を扱おうとするならば、まずは無理やりにでも、観念的な「世界の仕組み」に具体性を取り込まなければならない。
それならば、形而上学の出発地点として、縦糸と横糸によって織られる織物のようなものをイメージすることは、そう悪くないやり方だろう。まず、具体性は気にせず、純粋に観念的な「世界の仕組み」としての縦糸を準備する。そのうえで、別に、横糸を導入し、そこに具体性を担わせる。そのうえで縦糸と横糸を重ね合わせることで、「純粋に観念的な「世界の仕組み」に基づき存在する具体的なものごと」という捉え方を可能とするのである。このようにすれば、仕組みの純度を保ったまま、具体性を取り扱うことができ、少なくとも、要素の漏れはなくなる。
だが、織物という構造の美しさに惑わされ、見失ってはならないが、あくまでこれは形而上学の入口における便宜的な措定である。
純粋に観念的な営みである縦糸としての形而上学において、具体性という横糸を導入することは、観念的には全くの無根拠である。この横糸は、あくまで、形而上学において、具体性の問題を考えるために便宜的に重ね合わせられたにすぎない。これを形而上学における横糸問題と呼ぶことにしたい。
3物語が撚り合されてできた糸
では、この横糸問題をどのように扱えばいいのだろうか。最近、僕はそんなことを考えているのだけど、先日、夫婦で久米島に旅行したときに、久米島紬の作業所を見学した。そこで縦糸は経糸、横糸は緯糸と表記すると初めて知ったのだけど、他にも気づいたことがあった。(わかりやすさを優先して、これからも経糸・緯糸ではなく縦糸・横糸とします。)そこで気づいたアイディアによって、横糸問題についての考察を多少は前進できそうなので紹介したい。
まず気づいたのは、織られる糸は一本ではなく、より細い糸が撚り合わされてできている、という当たり前の事実である。この気づきを、この織物としての世界にも用いることができるのではないか。
撚り合わされた糸という比喩を横糸のほうに適用してみよう。
例えば、太陽系の第三惑星に生命が誕生し、それが人間という知的生命体に進化した、という一本の横糸がある。このうち、第三惑星という言葉にだけ注目しても、そこには様々な具体的な話が含まれている。マゼランによって一周された。ガガーリンによって「地球は青かった」と言われた。ガンダムの中ではスペースコロニーが落とされた。などなど。
これらのひとつひとつの描写が、より細い糸であり、これらの糸が撚り合わさって地球についての物語という一本の横糸となる、と考えることができるだろう。
そして、撚り合わされる前の細い糸の一本一本も物語と呼ばれるべきだろう。人類初の宇宙飛行士が青い惑星を眺めるといった様々な記述が物語として撚り合わされ、地球についての物語となっていくのである。
細い物語の糸が撚り合わされ、より太い物語となっていく。そのようにできあがった物語の糸は、横糸となり、時空や因果といった、この世界の仕組みとしての縦軸に直交するようにして編みこまれていく、と考えるのである。
物語という横糸は、細い糸が何重にも撚り合わされてできている。これが、久米島紬の糸から僕が思いついたことである。(正確には、少し前から考えていたことが、展示されていた糸によって形になったのだけど。)
そう簡単には、形而上学における横糸問題を解決できない。だが、形而上学において、具体性という横糸を扱い、色々と考察することはできる。いわば、横糸で遊ぶことはできるのである。
(念のためだが、「遊ぶ」とは、哲学を深めるうえでの逃げなどではなく、かなり積極的な意味を持たせている。)
4糸を染める
この「物語が撚り合わされてできた糸」という比喩は、僕が思いついた形而上学的アイディアにしては珍しく、人が生きるにあたって、人生の現場で役立つだろうと考えている。空理空論ではなく、いわば人生訓として使えるのである。
それは次のような人生訓である。
「僕が出勤する」という日常の些細な物語ですら、無数と言ってもよいほど物語が撚り合わされてできている。そこには「髪の毛が一本抜けた」「1mm径ほどの小石を蹴った」というような、まったく気に留められることもない物語が含まれているはずだ。
そのうち、どの物語に注目し、スポットライトを当てるかは、物語を物語として捉える人間側の裁量に委ねられている。そこにこそ、人間の自由と責任があり、人間の生きる意味がある。
この話は、僕が好きな、フランクルの『夜と霧』という本を使って続けるのがよいだろう。彼はユダヤ人で、ナチスによって収容所に連行される。その顛末を描いたのが『夜と霧』である。この本のなかに、収容所で出会った一人の少女が、衰弱して死にゆく中で、窓の外の一本の木を眺めたことをきっかけに、悟りとでも呼びたくなるような、精神的成長を遂げるというエピソードがある。
このエピソードが伝えているのは、ここまでの話を踏まえるならば、少女の「木を見る」という物語にすら、「生命の本質を受け取る」という物語が撚り込められているということである。僕たちが何気なく「木を見る」とき、実は、そこには、生命の本質に到達する道筋が開けている。そこには人間の自由があり、道筋が開けている中で、どれを選び取るかは、我々人間の責任なのである。
人間は、物語を選択しながら生きている。実は、無数の物語が撚り合わされてできているはずの横糸の中から、有限の(多分、極めて少数の)物語を選び取るようにして、物語を解釈しながら生きている。だから、同じ情景を収容所での無残な死の物語として解釈することもできるし、生の輝きの物語として解釈することもできる。そこに人間の自由と責任があり、人間の生きる意味があるのである。
「物語が撚り合わされてできた糸」という比喩からは、このような自由と責任と、そして人間が生きる意味についての人生訓を引き出すことができるのである。
ところで、久米島紬の作業場では、糸を織るのも大変だけど、まず、糸を染めることのほうが作業としては大変だということを教えてもらった。泥に何度も漬けて黒い色を出したりするそうだが、かなりの重労働だそうだ。
糸を染める作業とは、ここで論じた物語の選択の比喩でもあるだろう。糸をどのように染めるかは人間の自由だ。黒く染めることも、緑に染めることもできる。それはつまり、先ほどの収容所での「木を見る」という物語が様々な色で染めることができるという話である。そこまで大袈裟な例でなくても、結婚という物語を、幸せな家庭の始まりという物語で染めることもできるし、自由な独身の終わりという物語で染めることもできる。または、通勤という物語を、苦痛に満ちた労働に向かう物語で染めることもできるし、夏の青空の下を蝉の声を聴きながら歩くという物語で染めることもできる。
それならば、色を染めることにこそ生きる意味がある、と言うこともできるはずだ。
5感情
ここまで、具体性としての横糸を物語と呼んできたけれど、ある場面では、この横糸を物語ではなく感情と呼ぶべきだろう。人は、撚り合わされた無数の細い糸のうち、いくつかの糸を選び取って前面化するけれど、その前面化が極端なかたちで行われる場合、それは物語というより感情と呼んだほうがよい場面もあるからだ。
例えば、足の小指を柱にぶつけたとき、そこには無数の物語があるはずだが、前面化するのは、ただ「痛い」であり、それは物語というよりも感情である。また、長年飼っていた猫が息を引き取るとき、前面化するのは、ただ「悲しい」という感情である。「痛い」や「悲しい」と書くと、それはどことなく冷たい言葉の羅列であり、「物語」と呼ぶものに近くなる。だが、言葉にならないほどに切実な「痛い」や「悲しい」はまさに感情と呼ぶにふさわしい。
きっと、撚り合わされた細い糸の中から、ある特定の糸を選ぶとは「心が動かされる」ことなのだろう。その心の動きが穏やかな場合、動き自体よりも、糸の選択結果のほうが着目されて「物語」と呼ばれる。だが、心の動きが強く激しすぎて、糸の選択結果よりも選択のプロセス自体が着目されるとき、それは「感情」と呼ばれる。「足の小指を柱にぶつけて痛んでいる」や「長年飼っていた猫が息を引き取り、二度と会えない」といった物語ではなく、ただ「痛い」や「悲しい」という選択のプロセスが言葉にならない感情として前面化し、全面化するのである。
これは、糸を染めるという比喩によるならば、具体性の横糸を濃い色に染め上げるということだろう。
6縦糸を撚り合わせ、染める
ここまで横糸に着目してきたけれど、織物においては、縦糸についても、横糸と同様に撚り合わされ染められてできている。それならば、横糸と同様のことが縦糸にも言えるのだろうか。
横糸、つまり具体性としての物語は、より細い無数の物語が撚り合わされてできている。そして人間は、その無数の物語の中から、それほど多くない数の物語を選択し、色を染めるように解釈して生きている。その選択の過程で心が激しく動いたとき、それは感情と呼ばれる。
それと同様のことが、世界の仕組みとしての縦糸についても言えるのだろうか。
常識的な観点に立てば、この答えはノーだろう。時空、因果律といった、この世界の根源的な仕組みは揺るぎないものであり、そこから離れ、この世界のあり方について、別の解釈を選択することなどできないように思われるからだ。きっと、時空、因果律といった仕組みは、自然科学を成立させるうえで極めて根源的なものであり、これらを否定するということは、つまり、自然科学を否定することになってしまう。よって、織物の比喩によるなら、縦糸は撚り合わされておらず、染められてもいない。テグス(釣り糸)のように、透明な一本の糸のように捉えるべきである。
実際、自然科学は極めてうまくいっていて、テグスのように揺るぎない唯一の真実であるように見える。だが、それでも、そこに疑問を呈し、より望ましい縦糸のあり方を探ろうとするのが形而上学である。
そのような形而上学の試みがある程度成功していると考えるならば、時空や因果律だけではない、別様の縦糸のあり方をそこに見出すことができるはずである。やはり縦糸もテグスではなく撚り合わされた糸なのである。
例えば、形而上学的には、時間は流れていないという主張がある。(哲学者マクタガートは、未来の中には現在も過去も含まれていないのだから、未来が現在や過去になるのはおかしいと論じている。)これは常識的な時空という捉え方に真っ向から対立する考えである。このようなアイディアを馬鹿馬鹿しいと否定せず、尊重して取り扱うならば、少なくとも常識的な縦糸とは別に、もうひとつの縦糸を見出すことができる。
形而上学における営みが無駄ではないと考えるならば、哲学者の数だけある多数の糸が撚り合わされて縦糸となっている。そのうえで、横糸と同様に、縦糸についても、解釈による選択を行い、糸を染め上げているはずなのである。多くの人は、時空や因果律といった仕組みを選び、その色に染め上げているが、僕のような少数の形而上学者は別の色を探している。
だが、そうは言っても、僕のような少数の形而上学者も、日常生活においては、時空や因果律といった仕組みに基づいて生きており、世界を自然科学の色に染め上げている。生活の場においては、形而上学者であろうとなかろうと、僕たちは、別様のあり方に気づくことができないほど強い力によって、常識的な科学的世界観を選び取らされているのである。
きっと、このような状況は横糸における感情のようなものなのだろう。小指をぶつけるとただ痛いように、僕たちは、日常の場面において、自然科学解釈を選択することを強いられているということなのではないか。
7蚕の繭としての現実性
ここまで、物語または感情としての具体性の横糸と、この世界の仕組み(についての形而上学的学説)という縦糸は、直交するまったく別のものとして描写してきた。
なぜかといえば、世界の仕組みとしての縦糸を基盤とするならば、その縦糸的観点からでは具体性の横糸を捉えることはできないからである。
それが形而上学における横糸問題であった。
確かに、縦糸と横糸を別に扱っても、ここまで行ってきたように、それぞれを撚り合わせ、染めるようにして、色々と遊ぶことはできる。それはそれで意義深いことである。
だが、形而上学における横糸問題にあえて正面から挑みたくもなる。
そこで使えそうなのが、縦糸にせよ横糸にせよ、蚕の繭から紡いだ糸(紬糸というらしい。)でできている、という事実である。
この久米島紬の比喩により、同様に、物語・感情としての具体性の横糸と、この世界の仕組みとしての縦糸が、まったく同じ材料でできていると考えるならば、そこで縦糸と横糸はつながる。蚕の繭が最も根本的な基盤にあり、そこから、縦糸と横糸が紡がれ、織られて世界となっている、という描写が可能となるのである。
そのような方向からアプローチしているのが、(このブログに何度も登場している)入不二基義の現実論だろう。入不二は、「現に」という言葉に着目し、「現に」が「現に+ソクラテスは哲学者である。」「現に+地球は青い。」のように、どのような文にも付加できる、とする。そこから、「現に」という現実性は遍在している、と論ずる。
入不二の現実論によるならば、この「現に」という現実性が蚕の繭である。「世界は時空という仕組みとなっている。」という形而上学的主張は、「現に+世界は時空という仕組みとなっている。」と言えるし、「僕は通勤する」という具体的な物語も、「現に+僕は通勤する」と言うことができる。
これが最終的な答えかどうかはともかく、久米島紬の織物の比喩における蚕の繭について、現時点で最もうまく説明し、横糸問題の解決に最も近いところにあるのは、入不二の現実性というアイディアだと思う。
8経横絣
久米島紬を見て、色々と考えさせられたので、旅行から帰ってからもネットで色々と調べてみた。そのなかで知ったのだけど、あの着物の柄は、絣という技法で作るらしい。着物好きなら常識なのだろうけど、僕は初めて知った。
糸をあるパターンでマスキングして、染め分けた絣糸を使って織物を織ることで、パターンが布地に浮かび上がる。それが絣である。
そして、絣には、縦絣と横絣がある。縦糸は単色で固定し、横糸だけ染め分けた絣糸を使って織るのが横絣。染め分けた絣糸を縦糸として固定し、単色の横糸で織るのが縦絣である。機織り機は縦糸を固定するから、調整がきかない縦絣のほうが難しいらしい。
そして、もうひとつ、縦横絣というのもあるそうだ。縦糸も横糸も染め分けた絣糸を使って織るのが縦横絣である。縦か横の片方の糸だけが染め分けられているよりも、縦横の染め分けを一致させ重ね合わせたほうが、より染め分けの境界がはっきりする、というメリットがある。一方で、染め分けの位置をきれいに重ね合わせるため作業の難易度が上がることは容易に想像がつく。
実は、久米島で職人の方が織っているのを見ていて感じていたのだけど、彼女たちの作業は全然スムーズに進んでいなかった。リズミカルに織られていくのを想像していたのに、うつむいて、ずっと細かく何かをいじっていた。今思えば、あれは絣の染め分けの位置がずれないよう調整していたのかもしれない。
このときの情景が、ここまでの世界の仕組みとしての縦糸と、具体的な物語としての横糸の話の比喩に使うことができるように思う。
苦労の末、縦と横の染め分けがうまく重ねあわされたとき、そこに、きれいな絵柄が浮かび上がる、という比喩である。
世界の仕組みについての形而上学的描写としての縦糸と、僕の日々の生活としての具体的な物語や感情としての横糸をうまく染め分けて重ね合わせたとする。きっとそれは、哲学者としての僕が描いた、この世界についての形而上学的描写と、生活者としての僕が描いた、日常生活の軌跡としての、この世界における具体的な生きざまとを、うまく重ね合わせるということである。
もし、そんなことが成し遂げられたら、そこには、鮮やかな縦横絣の絵柄、つまり新たな形而上学的知見が浮かび上がるのではないだろうか。粗っぽいアイディアなので、この程度のことしか書けないけれど、なんとなく、雰囲気だけでも伝わると嬉しい。
そして、この縦横絣という道筋がありうるならば、それは、入不二が行ったような、作業を遡り、蚕の繭にまで遡るという道筋とは別の、もうひとつの縦糸と横糸とを統合する道筋となりうるだろう。作業を最後まで貫徹した結果、縦糸と横糸は、縦横絣として統合されるのである。
だが、ここで(たぶん)位置の微調整に苦労していた職人の姿が思い出される。さらに、織物ならば事前に絵柄を決めたうえで糸を染め分けるが、形而上学においては、とにかく縦糸は縦糸として染め分け、そして横糸は横糸として染め分け、重ねてみるまで絵柄はわからないという違いもある。よって、この形而上学的な縦横絣の道は、かなり困難なものになるだろう。
9基準点
当然、色の染め分け方や、そこから浮かび上がる縦横絣の図柄について僕は知見を持っていない。だが、縦糸と横糸を重ね合わせる際に必要となる位置の微調整において、どのように合わせるべきかについては、多少言えそうなことがある。
縦糸上のある基準点と、横糸上のある基準点を重ね合わせるようにして、位置を調整するべきなのである。
世界の仕組みという縦糸における基準点は、「世界の仕組みとは、僕自身が自由と責任に基づき、物語を選択し、そして感情を感じ、横糸を染めることに基づくようなものでなければならない」というかたちで設定されるべきものである。また、具体的なできごとという横糸における基準点は、「その具体的なできごととは、世界の仕組みについての形而上学を行う、というできごとでなければならない。」というかたちで設定されるべきものである。
なぜ、そのようにして二つの基準点を設定するのかというと、そのような条件を満たす地点においてしか、縦糸と横糸は交わることができないからである。
交わるとは接するということである。だが、世界の仕組みと具体的なできごととは、そもそも接しないからこそ、縦糸と横糸に区分してきたのである。
だが、世界の仕組みが、全面的に具体的なできごとに基づくものであったときにのみ、つまり物語を選択し、そして感情を感じ、横糸を染めることに基づくものであったときにのみ、その仕組みは具体的なできごとと接することができる。
また、具体的なできごとが、全面的に世界の仕組みに関わるもの、つまりそのできごとが形而上学の営みに関わるものであったときにのみ、そのできごとは世界の仕組みと接することができる。
なぜなら、この二つだけが、世界の仕組みと具体的なできごとが全面的に関わることができるものだからである。
そこから、ここで導いた二つの基準点を縦横で重ね合わせることで、ただ一つの基準点を導くことができる。それは、僕自身が自由と責任に基づき、物語を選択し、そして感情を感じるということに基礎を置いた形而上学をやっていく、という基準点である。または、形而上学の内容が、僕自身が自由と責任に基づき、物語を選択し、そして感情を感じるということに基礎を置いたものになっている、という基準点である。
この二つは厳密には述べ方が少し違うが、重ね合わせという作業を行っている以上、実は同じことを指しているのでなければならず、その同じさが一つの基準点を指し示している。
そこを基準としなければ、縦糸と横糸を合わせることはできず、どんなにきれいに糸を染め分けても、縦横絣は浮かび上がらないはずだ。これは、縦横絣の必要条件である。
そして、きっと、その基準点においては、物語を感情というかたちで強いる力と、世界の仕組みについて自然科学的な常識的捉え方を強いる力とが、その重ね合わせを強いるように働いているのだろう。なぜなら、感情においても、常識においても、自由と責任においても、その他、ありとあらゆる側面において、ありとあらゆるものごとが正しいという言葉が成立しないほどに正しいという特異点こそが、基準点であるはずだからである。
基準点とは、全てが重なっていて、何も取り逃がされていない地点のことであり、そこからしか、縦糸と横糸の織物が織られることはできないのではないか。
10おまけ:世界の仕組みでできごとの具体性を捉えることの困難
冒頭で、世界の仕組みではできごとの具体性を説明できないと述べた。そして、そのことを前提にここまで話を組み立ててきた。
それでは、本当にそこに困難があるのか、任意のできごとPという記号で考えてみたい。
科学や(多くの)哲学において、任意のできごとはPという記号で表現できる。より単純化するため、できごとの最も単純な描写として、できごとPとは「物体Pが存在する」ことを意味するとしよう。
この物体Pとは何だろうか。
例えば、重力について科学的に説明する場合には、物体Pとはリンゴでもあるだろう。物体Pを手から離すと地表に向かって引き寄せられる、などと描写される。だが、このリンゴは、傷や味などの具体性を伴わないリンゴである。重力について説明できさえすれば、それ以上の具体性は要らない。いや、重力は、リンゴだけでなく、ナシやスイカや鉄球でも同じように働く、と考えるためには、赤さのような具体的なリンゴらしさは捨象される必要すらある。科学において登場する物体Pとは、決して具体的なリンゴであってはならず、その科学的描写において必要な特徴(例えば重さ)だけを持った物体Pでなければならないのである。
同じことは哲学でも言える。勇気とは何かについて考えるために、海で溺れる子供を泳いで助けようとする場面を想定したとする。このような場面設定は、あくまで勇気について考えるための素材であり、具体性はできる限り捨象されなければならない。具体性のない普遍的な場面だからこそ、普遍的な勇気について考えるための素材となりうるのである。
さらには、この問題は、世界の仕組みそのものを最も純粋な形で探求しようする(ある種の)形而上学において、最も先鋭化するとも言えるだろう。形而上学とは、「できごとPが起きる」ことや、「物体Pが存在する」ことそのものを探求する営みである、とも言えるけれど、形而上学は、このPに何かを代入すること自体を拒否するのである。なぜなら、Pにリンゴを代入してしまったら、「物体Pが存在する」ことを論ずるために、リンゴが存在することを前提としてしまっていることになるからだ。これでは論点先取りである。(なお、「物体Pが存在する」という形而上学的描写を理解するためには、暗黙のうちにリンゴのような何かを代入せざるを得ない。その場合、形而上学的議論を正確に理解するためには、そのPに代入した具体的な何かを事後的に抹消しなければならず、その不可避である事後的な抹消こそが問題となる。)
つまり、Pとは、「具体性のなさ」の象徴であり、世界の仕組みを探求する学問としての科学や哲学(特に形而上学)がPを多用するということが、世界の仕組みとできごとの具体性の相性の悪さを示しているのである。
だから、世界の仕組みでできごとの具体性を捉えるためには、その(科学や形而上学を含む)広義の哲学が、Pという記号には還元できない、具体的な特定のリンゴそのものを扱うようなものでなければならないはずだ。それが十分条件かどうかはともかく、少なくとも必要条件ではあるはずだろう。
だが僕は、そのようなことに十分に成功した哲学をいまだ知らない。世界の仕組みでできごとの具体性を説明することの困難とはこういうことである。