8 能動的非難

これまで、「ごちそうさま」という感謝の言葉をキーワードにしてきた。そして、当然ながら、「ごちそうさま」と言うときの気持ちを肯定的な感情として捉えてきた。
しかし、食事を食べ終わったときや、その後で会計をするときの気持ちは、必ずしも肯定的とは限らない。レストランで出された食事が、高い値段なのに冷めていてまずかったら「ごちそうさま」と言う気も失せる。この否定的な感情を、肯定的な感情を感謝としてきたように、非難と呼ぶことにする。
なお、肯定的な感情そのものが感謝なのか、それとも肯定的な感情から生まれるものとして別に感謝があるのか、という問題があるが、無意識の範疇にある受動的感謝も感謝の範疇に含めていることを踏まえると、肯定的な感情と感謝との間に差を見出すことは難しい。よって、当面は肯定的な感情そのものが感謝だと考えることとする。この捉え方は、感情にも、これまで感謝としてきたものと同じように、意識されていないときと意識されているときがあるという実感があるということとも合致しているだろう。同じように否定的な感情そのものを非難と呼ぶことにする。
この肯定的な感情である感謝と否定的な感情である非難とは、どのような関係にあるのだろう。感謝には、受動的感謝と能動的感謝とがあるように、非難にも、受動的非難と能動的非難とがあるのではないか、という仮説を立てて考えてみたい。
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まず例に出した、レストランで出された食事が高い値段なのに冷めていてまずかったときの非難について考えてみる。先ほど感謝について検討してきたときと同じように、何に対して非難をしているのか、非難の対象を考えてみよう。この非難は、冷めたハンバーグになった牛に対する非難や、付け合せのキャベツを育ててくれた太陽に対する非難ではない。そのような幅広い非難ではなく、商取引において、支払った金額に見合ったものが提供されなかったということに対する非難である。これは店に対する非難だと言えよう。つまり、これは、先ほどの能動的感謝に似ている。よって、能動的非難と呼ぶこととしよう。
そうすると、商取引以外にも、結婚してくれた妻、契約してくれた神に対する能動的感謝があったように、妻や神に対する能動的非難があってもよい。妻がご飯ひとつ作ってくれない、とか、神が雨を降らせてくれない、といったような非難が、それにあたるだろう。
以上、能動的非難については、能動的感謝と同様に、簡単にイメージできるのではないだろうか。
この先の考察の対象は、予想通り、受動的非難というものに移ることになるが、その前に一旦立ち止まり、もう少し能動的非難について考えてみることにする。ある商取引や、ある妻の行為が能動的感謝の対象となるか、それとも能動的非難の対象となるかは、どのように決まるのだろうか。少なくとも、「100円とリンゴ1個を交換することが適正だから、100円より安くリンゴが手に入れられれば感謝すべきであり、100円より高ければ非難すべきである。」というような明確な基準は存在しないことは明らかだ。しかし、
経済学のように、取引ごとに、需要と供給の関係により、リンゴと日本円との適正な交換レートが設定されるというような話でもない。私の実感は、もう少し恣意的である。少々高くても、人のよさそうなおばあちゃんが、微笑みながらリンゴを渡してくれれば感謝するし、少々安くても、買った直後にもっと安いリンゴを見つければ、なんだか損をした気がして非難したくもなる。商取引ではなくて夫婦関係、つまり妻に対する気持ちも同様である。妻が同じように食事を作ってくれていても、そのときの機嫌で、なんだか感謝した
くなったり、非難したくなったりする。
私は、能動的感謝の対象となるか、それとも能動的非難の対象となるかは、どこまでも恣意的に決まる、と考えたい。その方が、先ほど、能動的感謝について恣意的だと述べたことと合致する。「100円でリンゴを買えたから、安く売ってくれた店に感謝する。」でも、「100円でリンゴを買わされたから、高く売りつけた店を非難する。」でも、どちらでもいい。能動的非難は、能動的感謝と同様にストーリーであることから、いずれも恣意的であり、その境界も恣意的であるということだ。
私は、この能動的感謝と能動的非難との境界が恣意的であることを、欲望に際限がないことと結びつけて考えたい。能動的に感謝をするということは、それに満足しているということである。そして、能動的に非難するということは、それに不満であるということである。その満足と不満の境が恣意的ならば、満足するかどうかは恣意的に決まるということになる。つまり、満足を避け、常に能動的に非難し、不満でいることを恣意的に選ぶことが可能となる。つまり欲望に際限がないことが可能である。このように、能動的感謝と能動的非難は、一般的に言われるような、満足、不満、欲望、といった話に結びつけることが可能である。