2016年9月17日作
PDF:男の哲学、女の哲学
1 前置き
これから男の哲学と女の哲学の違いの話をする。
男とか女とか男女差別的だから、あまり言いたくないけど、他の言葉が思いつかないので、そういう言い方をする。
そもそも男とは何か、女とは何か、解説したいところだけど、解説できるくらいならそんな言葉は使わないのであきらめてほしい。
しいて言えば、男性的とは、僕っぽいということで、女性的とは、僕っぽくないということだ。
これから僕は、先日、ある女性と飲みながら、哲学的な話をしていて思ったことを書いていく。
飲んでいたので、どこまでが相手の女性が言ったことで、どこからが僕が考えたことかは定かではないので、だいたい全部、僕が自力で考えた風に書いていく。
けれど、その方の言葉からインスピレーションを得た部分も含めれば、ほとんどはその相手の方のおかげだ。感謝します。
2 男の哲学
男性的な哲学、男の哲学とは、欠けたものを埋めるようとするような営みだ。
僕にとっての哲学とは、自分自身がまだ知らない、本当の真実や正義といったものを見つけ出し、それを手中に収めようとすることのように思える。
「僕を探しに」という絵本がある。有名な本だから読んだことがある人も多いと思うけれど、簡単な線だけで書かれたパックマンみたいな主人公が登場する話だ。
この本の意味からすると、パックマンというよりは1ピースだけ食べられたピザと言ったほうがいいのかもしれないけれど、その欠けたピースが口っぽく見えるし、そこから歌とかも歌ってるからどうしてもパックマンにしか見えない。とにかく、そんな形をした主人公がコロコロ不器用に転がりながら、丸になるために、欠けたピースを探しにいくという寓話っぽい話だ。
この欠けたピースが何なのかは読者の解釈に委ねられているが、ここでは、僕にとっての欠けたピースとは「本当の真実や正義」ということになる。そのピースを咥えれば、僕はまんまるになることができる。
このような哲学を、僕っぽい哲学という程度の意味で、男性的な哲学、男の哲学としよう。
3 女の哲学
一方、女性的な哲学、女の哲学とは、ぼんやりとしているものを明確にしようとする営みのように思える。
先日飲んだ女性は、確か、「自分にとっての哲学とは、人と繋がること」というようなことを言っていた。(酔っていたから正確には「言っていたような気がする」です・・・)
酔いが覚めてから考えてみると、この「人と繋がる」とは、人に限らず、世界との関係性全般のことを意味していて、つまりは、世界中の人や物、もしかしたら物ですらないものたちも含めて、全ての関係性のことを言おうとしていたように思う。また、「繋がる」とは元々繋がっていなかったのを新たに繋げるのではなく、「繋がっていることを再確認する」ということに近かったように思う。なぜなら、彼女の言葉には、能動的な作業、働きかけのようなものは含まれていなかったように感じたから。
だから言葉を足すと、彼女が言おうとしていたことは、「哲学とは、本当は現に「全て」としてあるのに、分断され、混乱され、わからなくなってしまった「全て」の繋がりを再構築して、「全て」として取り戻すことだ。」とも言えるかもしれない。
う~ん・・・言葉を足してもわかりにくい。
まず、この「全て」という言葉がわかりにくい。彼女は、多分、その「全て」を指そうとして「魂」という言葉を使っていたように思うが、僕ならば、それを「世界」と言うと思う。他にも色々な言葉を使えそうに思うが、どの言葉も、帯に短し襷に長しだ。言い換えは難しい。
(本当は、もっと言葉を尽くしてうまく伝えるべきだけど、とても難しいので、伝わったことにして話を進めさせてください。すみません。)
無理やり話を進めるために、更に言い換えるなら、彼女の用語を使うと「全ての人や物の中にあるただひとつの魂により互いに繋がりあっていることを再発見する」ことであり、僕の用語でいくなら「世界は全体としてそこにただあることを見い出す」こととも言える。
これらは同じことを意味しており、それこそが哲学だということになる。
このような視点に立てば、哲学という営みは、ぼんやりとしているものを明確にすることだとも言えるのではないだろうか。
僕たちは、実は、既に、なんとなくだけど、その「全て」を知っている。魂とか世界とかという言葉を通じて、なんとなく、ぼんやりとその「全て」にアクセスすることすらできる。
だからこそ、なかなかうまく言葉にできないけれど、魂とか世界とかという言葉を使うことにより、この文章で言わんとしていることは、伝わる人には伝わる。
だけど、魂とか世界とかといった言葉は、普通は、その「全て」なんてものは意味しない。この文章では便宜的に「全て」なんて言ってるけど、「全て」という言葉だって、本当は、ここで言わんとしている「全て」には届いていない。
なかなか言葉でうまく言えないけど、実は皆が知っているその何かを、きちんと明確に捉え直すことこそが哲学だという訳だ。
このような哲学を、僕っぽくない哲学という程度の意味で、女性的な哲学、女の哲学と呼ぶことにする。
つまりは、欠けたものを埋めるようとする男の哲学と、ぼんやりとしているものを明確にしようとする女の哲学という、二つの哲学がある。
4 二元論→女の哲学には敵わない
この二つの哲学の捉え方の違いは、個別の哲学的な問題においても違いとして現れる。例えば、二元論と一元論の問題への向き合う場面では大きな違いが生じる。
男の哲学の代表例として僕を登場させてもらえるなら、僕は、心身二元論であれ、言葉と物の二元論であれ、二元論で落ち着くことはできない。二つも根本的な重要なものがあるなんておかしい、きっと、その二つを支える唯一の土台とでもいうべきものがあるはずだ。と僕はすぐに思ってしまう。だから、二元論が導かれるということは、どこか間違えていたり、考えが浅かったりしているということを意味していて、更に考えを進めなければいけないということを意味している。だから、僕はいつまでも落ち着くことはできない。僕は一元論を求めている。唯一の何か、源から全てが導かれるような、そんな大統一理論をどこかで求めている。
しかし、ひとたび女性的な哲学の視点に立てば、二元論は悪くない。なぜなら、心と脳であれ、言葉と物であれ、ぼんやりとしていた何かを少しは明確化したことになるからだ。「魂」というか「世界」というか「全て」というか、まだうまく言葉で示せない、その何かを、少しは明確に描写したことになるからだ。女の哲学は、既に揺るぎない一元論の上に立っていると言ってもいい。だからこそ、一元論という土台に立つ二元論を受け入れることができる。
女の哲学は、全ての哲学的な思考を暖かく受け入れてくれる。本気の思考ならば、少々間違えていても、その何かの明確化の作業に役立つのだから。だから、全ての哲学の営みは、その営み自体として決して否定されることはない。
僕のような男の哲学においては、多分、全ての哲学的な営みは、疑われ、論破され、否定される運命にある。しかし、女の哲学においては、全ての哲学的な営みは、愛され、包含され、活かされる運命にある。
そして、多分、男の哲学は、女の哲学には敵わない。
なぜなら、女の哲学は、男の哲学の、疑い、論破し、否定しようとする、いわば戦いとでも言うべき営みさえ包み込むはずだから。それが「全て」ということのはずだから。
そういえば、その女性は、恋について、「恋」は「乞ひ、乞い、請い」で、つまり、自分にないものを求めるのが恋だと言っていた。
確かに僕のフィロソフィーは愛ではなく恋だ。その証拠に、もし僕が、どうしても手に入れたい知を手に入れたなら、もう哲学なんて興味がなくなる自信がある。
これは、つまりは、僕の哲学は「恋」であり「乞ひ、乞い、請い」であり男の哲学だということだ。
それならば、知を愛するという文字通りの意味での本当のフィロソフィーとは、女の哲学なのだろう。
僕には見えない全てとしての知を、その人は、ただそこにあるものとして捉え、愛することができる。それこそがフィロソフィーなのかもしれない。
5 哲学対話
こう書いてきて、僕は、僕にとっての哲学対話というものの意義を新たに見つけたような気がする。
僕は哲学対話に関わっていて、哲学対話でなされていることは大切だけれど、僕の哲学とは、あまり結びつかないような気がしていた。哲学カフェで話すことと、一人で考えて文章に書き記していることとはあまり結びつかない気がしていた。
そう思ったのは、多分、哲学対話とは、この文章での女の哲学のことだからなのだろう。だから男性的な僕の哲学の営みとは相容れない。
そのことに気付いた今、僕の哲学の勝ち目の無さを予感する。一人でいじいじ考えても、哲学対話には敵わないのかもしれない。
だけど、僕は、一人で考えることを諦めない。それでも戦うのが僕の男の哲学だもんね!
6 おまけ
僕は、心に引っかかっていることがある。
昔、僕は、酔った弾みで、「女性には哲学なんてできない」みたいなことを言ってしまった。これは明らかに間違いだった。そんなことを言うべきじゃなかった。
そういう話をしていたくらいだから、その女性は哲学がしたかったはずだ。それを否定したのはひどすぎる。
当時は、正しいこと言ったんだからいいじゃん、くらいに思っていたけど、今思うとひどすぎる。
(最近、哲学対話に関わるようになって、少しは意識的に相手の気持ちのことを考えるようになってきたからか、最近、ふと思い出した。だけど、思い出したということは、当時からなんとなく気になっていたのだと思う。そのときの雰囲気からすると、その方はもう覚えていないかもしれないけど、今度、会うことがあったら、しっかり謝ろう。)
だけど、この文章を書いてみて思うけれど、当時思ったことはやっぱり正しい。
僕は、僕の哲学、つまり男性的な哲学が思うように進まないことに焦っていた。それなのに、誰かが解った風に言うのが許せなかった。誰かが誰かに相談して、答えが出るほど哲学は生易しいもんじゃないと思っていたんだ。多分、孤独だったんだろう。
そう思ったのはやはり正しい。だけど、あくまで、僕っぽい男の哲学においてだ。
だから僕は「女性には哲学なんてできない」ではなく、「女性には男性的な哲学はできない」と言うべきだった。
いや、それだと男女差別な感じが残っているので「僕っぽくない人には僕っぽい哲学はできない」とか「僕っぽくない人は、そもそも僕っぽい哲学なんてしたくないはずだ」とでも言うべきだった。これは、つまりは、僕の哲学は独りよがりだということを吐露しているのに近い。それならよかったんだ。
言い方が悪くてごめんなさい。