2017年2月6日作 正月のスペイン旅行の後に書いたんだな。
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バルセロナでピカソ美術館に行った。
幼少期を中心に晩年まで幅広い作品が展示されていた。しっかりとピカソの作品を通しで見たのは初めてだった。
そこで、僕は、ある息苦しさを感じた。
ピカソは絵画の理想形を追求したと思う。当然、画家ならより理想的な絵画を追求する。だが、彼はそこに留まらず、完全な理想形を追求したのではないか。比較級ではなく最上級としての理想形を。
しかし、それは当然ながら、到達不可能な地点だ。
理想形としての絵画とは、つまり美そのものだ。そんなものに立ち向かうには、どんなに能力があっても足りない。有限の生しかない人間に、美というような底知れぬものを支配することはできない。人間的な能力では勝負にならない。
仮に、ピカソの人生は絵画のためだけにあったとするなら、彼の人生は、永遠にたどり着けない地点を求めながら、能力の限界という檻に閉じ込められていたことになる。
だから、彼は、試行錯誤し、大きくスタイルを変えながら、最後には、多作、つまり動きという領域に達した。能力の限界という束縛から身もだえし、逃げ続け、理想に追いすがろうとする動性、スピードに賭けたのだ。
しかし、残念ながら理想にたどり着くことはない。北極星を目指し、真北に船を進めても、永遠に北極星にはたどりつかない。
そんな彼のことを想像すると、息苦しさを感じた。
この息苦しさは人間の限界の息苦しさであり、僕が哲学に対して感じる息苦しさでもある。僕も、全ての問題を解決してくれる理想の哲学を目指しているが、そこに達することはないことも知っている。