1 僕の哲学の遍歴

僕は幼い頃の記憶があまりない。だから、きちんと記憶を遡ることができるのは小学校の頃までだ。

小学校入学したての頃、僕はできの悪い子どもだった。集団行動が苦手で、運動音痴で、学校での振る舞い方もピントがずれている、いわゆる落ちこぼれだった。

小学校に入るタイミングで引っ越したこともあり、仲のよい友だちもいなくて、近所の子にいじめられていたので、世の中とはとても怖いものだった。その怖さの感覚は転校生ポジションではなくなった後も残ったように思う。と言ってもそれはそんなに深刻なものではなく、他の子と同じように暗闇が怖くて、口裂け女が怖くて、誘拐されて香港に売られることが怖かったという程度のものだったかもしれない。

世の中はもっと整合的で理解できうるものだと知っていくにつれ、そんな他愛もない恐怖は薄れていった。記憶は曖昧だけど、小学校高学年になり色々なことを学び、恐怖を克服しつつあった僕に、恐怖の代わりに訪れたのは、宇宙に圧倒されるような感覚だったように思う。僕はSFを知り、SF的な宇宙の広がりに圧倒されたのだ。そのときの感覚を断片的に記述してみよう。

「宇宙が無限に広がり、人間よりもはるかに高度な文明を持った宇宙人がいるかもしれないのに、人類はそのことを全く知らずに地球にへばりつき細々と活動している。もしかしたら、この世界は高度な宇宙人が地球人の最後の生き残りである僕を飼うためにつくった檻かもしれないのに、僕はそれに気づくことすらできない。」という感じだ。

このような、SF的な宇宙のあり方への圧倒感が、僕の哲学のひとつの始まりであったように思う。

そんな僕も中学生になり、周囲が成長するにつれ、僕もそれに合わせてSFアニメやSF小説ではなく、部活や、恋愛マンガや、芸能人といったことに興味を移さざるを得なくなっていった。広大な宇宙に漂っていた僕は、捕らえられて学校のクラスという密室に閉じ込められてしまった。そんな感覚でいる僕がうまく集団生活をできる訳もなく、中学生の頃の僕は、多分いじめられっ子と言ってよい立ち位置だったと思う。こうして僕は、幼い頃に世界に対して感じていた恐怖と同じようなものを、周囲の人間に感じるようになっていった。

だけど高校生の夏、ふと、他の人間たちも健気に生きていることに気づいた。このときの感覚はとても印象深かったので何度も文章に書いているから省略するけれど、簡単にまとめると、僕が気づいたことは、僕も含めた人間は人生を精一杯生きているということだ。人は誰も、僕と同じように自分の人生を生きている。僕は人生というものがあることに圧倒されたと言ってもいい。

ここから僕は哲学的なことを考えるのが好きになり、人生や世界といったものについて考えるようになった。だれど、就職し結婚して子育てをして、と忙しくしているうちに哲学からは離れてしまった。

30代前半の頃、子供と一緒に図書館に行き、哲学的問題について思い出し、そこから50歳近い今まで15年くらい色々な哲学に触れるようになった。今は時間に興味があるけれど、それは人生というものがある程度まで、時間という言葉で置き換え可能であることを学んだからだ。その意味で高校生の頃の哲学と現在の哲学とは地続きでつながっている。

以上が僕の哲学の遍歴だ。まとめると、

小学生低学年:世界に対する恐怖

小学校高学年:SF的な宇宙の存在の圧倒(ひとつの哲学のはじまり)

中学校   :人間関係に対する恐怖

高校    :人生の圧倒(ふたつめの哲学のはじまり)

大人    :人生の時間への置き換え

というように要約できる。

2 圧倒と恐怖

こうして振り返ってみると、僕の哲学の遍歴において、哲学のはじまりとして二つの圧倒感という山が関係していたことに気づく。ひとつは、僕が小学生の頃、銀河鉄道999やガンダムや星新一のショートショートにはまった時に感じた、SF的な宇宙観に圧倒されるような感覚。そして、もうひとつは、高校生の頃、他の人にも人生があると気づいたときの目もくらむような圧倒感である。

それと対になるように二つの谷があったことにも気づく。小学校入学後と中学生時代という二つの時期における、学校のクラスになじめずに感じた恐怖の感覚だ。

この二つの圧倒と二つの恐怖は、僕の哲学的問題の遍歴を考えるうえで、大きな意味を有しているように思う。

僕は恐怖を圧倒感で克服しようとしたのではないだろうか。

小学校低学年の頃に感じた世界に対する恐怖に対して、小学校高学年の頃の僕は宇宙というものが持つ圧倒感で上書きし、そして、中学生の頃に感じた人間に対する恐怖についても、高校生の僕は人生というものが持つ圧倒感で上書きしようとしたと今になってみると考えられるように思う。

3 圧倒感と哲学

この圧倒感による恐怖の克服と、哲学のはじまりとは大きく関係しているように思える。

僕にとっては、圧倒感とは恐怖を忘れさせてくれるものだった。または圧倒感とは恐怖を解消するための鍵だと考えていたとも言えるかもしれない。恐怖から、恐怖が持つ力だけを取り出し、圧倒という力として純化することで、恐怖を圧倒に置換することができると考えたのかもしれない。

または、圧倒されるほど途方も無いものである宇宙や人生の謎を解き明かし、把握し理解することができれば、こんなにも恐ろしい宇宙や人生に正面から立ち向かい、打ち勝つこともできると思ったのかもしれない。

当然、当時はそんな言葉遣いをしたことなどなかったけれど、今の言葉で表現するならば、そんなことを考えていたような気がする。

このような自己分析がどこまで当時の状況を描写できているかはわからないけれど、とにかく、今の僕にとって、世界や人生というものが持つ圧倒感は、とても好ましいもので、あえて目を向けたくなるものだ。このような態度と、僕の中の哲学的志向は密接に関わっていることは間違いない。僕にとって、圧倒されるような世界や人生について哲学的に考える時間は、自らを癒やしてくれる、とても大切なひとときであることは確かだ。

4 概念化

僕にとっての哲学がこのような経緯を有しているということが、僕の哲学のあり方を決定し、限界づけているように思う。

僕の哲学は、口裂け女や中学校の同級生といった具体的な恐怖を克服するためのものであった。口裂け女がいたとしても、何十億年後に太陽が膨張し、地球を飲み込むことを考えれば、そんなことは大した問題ではないし、同級生のいじめっ子との関係に悩むより、そもそも暴力が悪であるかどうかを論ずるほうが重要で生産的だ。当時の僕はそのように思っていたのだろうし、今もそう思う。

このようなものとしての僕の哲学は、つまり個別的で小さな物事を普遍的で大きな物事に置き換えていこうとする作業だと言ってもいいだろう。

また、この作業は概念化と呼ぶこともできる。だからこそ僕がやっていることは哲学と名付けることができるのだ。

僕は、世の中に既にある哲学書や哲学者の言葉から哲学を始めたのではない。それでも、僕がやっていることを哲学と言えるのは、僕がやっていることが概念に関する営みだからなのだろう。僕は、生物についての学問が生物学であるように、概念についての学問が哲学であると考えている。

当然、世間には概念化ばかりを目指さない哲学もある。(詳しくは知らないけれど)応用倫理学のように概念と現実の個別具体的な事象とを結びつけようとするような学問領域もある。だけど、それは僕にとっての哲学ではない。僕の哲学とは、そのような個別具体的な事象を消し去ろうとするものだ。まるで口裂け女やクラスのいじめっ子から逃げるように。だから世間の哲学ではなく、僕にとっての哲学においては、ひたすら概念化を目指すことこそが哲学の効用である。

ただし同時に、ひたすら概念化を目指すことが僕の哲学の限界でもあると思う。恐怖を逃れようとして、ひたすら概念化を目指すということは、別の角度から描写するなら、個別性を喪失し消し去ることを目指していると捉えることもできる。確かに僕の哲学においては、個別具体的なものはどこにもない。なぜなら、僕が目指していることがそうすることだからだ。個別具体的なものを敵視し、消し去ろうとしていること。これが僕の哲学の限界だ。

個別具体的なものを消し去り、焼け野原のような世界を作り出そうとするもの。これこそが概念化を目指す僕の哲学の正体なのだ。

5 個別具体的なもの

僕の哲学は、現在、個別具体的なものの扱い方で行き詰まっている。

僕は、アルキメデスの支点さえあれば、そこから錬金術のように、すべての構造を生み出すことができると考えている。そのようにして世界の構造全体について、その始原から説明することができると考えており、それを目指している。試行錯誤はしているけれど、多分、その試みは一定程度成功するだろう。

なぜなら、僕が目指す哲学者は熟練した職人のように様々なものを生み出すことができるはずだからだ。哲学とは概念化することであり、哲学の技の妙はその概念をどのように操作できるかにかかっていると僕は考えている。ガラス細工職人が熱したガラスを曲げたり伸ばしたりして様々な形を作り上げることができるように、哲学の技を磨けば概念から様々なものを作り出すことができるはずだ。その点で哲学者は科学者よりも職人に似ている。熟練した職人であれば、概念から様々な構造を生み出せるに違いない。僕はそんな職人を目指している。

だが最近気づいたが、問題は、構造を生み出すところではなく、その構造にどのように個別具体性を付与するのか、というところにあるのではないか。

熟練したガラス職人はガラスで本物と見間違えるような象を作り上げることさえできるだろう。しかし、それは生きた象ではなくガラスの象でしかない。

同じように、熟練した哲学者は、様々な構造を作り上げることができるだろう。哲学者は、なにもないところから、唯一の支点を起点として、時間や空間や善といった様々なものを作り上げることはできるだろう。しかしそれらはすべて概念であり、個別具体的なものとなにもつながらないガラス製の時空や倫理でしかない。

確かに、僕の哲学は、そのあり方からして、個別具体的なものにつながりようがない。個別具体的なものを拒否し、そこから逃げるようにして行っている哲学が、個別具体的なものを説明しようとするなど、自己矛盾でしかないのだろう。

僕は、行き詰まっている。

6 世間の哲学

僕が哲学に対して抱いている困惑は、多分ほとんど理解されないだろう。だけど、少しでも伝わるよう、世間の哲学と接続した説明に挑戦してみよう。

概念化という言葉を最も適切に表現しているのは、永井均の「ものごとの理解の基本形式」という言葉だろう。「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」がものごとを理解するうえでは必要不可欠であり、ものごとを理解するということを支えているのは、このような基本形式にある。それならば、目の前に座るネコについてネコとして理解するためには、そのネコが複数存在しうるネコという種類の一例であることを受け入れなければならない。

僕はこの永井の考えは正しいと思う。だけど、同じことをイヌについても言えるかどうか考えてみると、哲学的には問題が生じるように思う。

当然、ネコと同様にイヌについても、「目の前に座るイヌについてイヌとして理解するためには、そのイヌが複数存在しうるイヌという種類の一例であることを受け入れなければならない」と言うことはできる。

だが僕はここで疑問に思う。そもそもネコとイヌを置き換え可能なものとして同列に考えられるのは、既に「ものごとの理解の基本形式」があるからなのではないか。イヌもネコも動物という種類の一例だからこそ、「同じ」操作ができるのではないか。つまり、「ものごとの理解の基本形式」を適用するという操作のなかに、既に「ものごとの理解の基本形式」が入り込んでいるのではないか。「ものごとの理解の基本形式」を経由せずに直接的に「ものごとの理解の基本形式」を適用することは不可能なのではないか。これが僕の疑問だ。

同じ問題を別のかたちで指摘しよう。「複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすること」という定義は、そもそも、個別具体的なものを拒否しているのではないか。なぜなら個別具体的なものは複数個存在することはありえないはずだからだ。あのネコとこのネコは全く違うから複数個などというかたちでは捉えられないということが個別具体的の意味のはずだ。それならば、「ものごとの理解の基本形式」により個別具体的なものを捉えることはできないことになる。これは大問題でないか。

つまり「ものごとの理解の基本形式」というアイディアが正当なものであることを認めるということは、個別具体的なものは理解できないということを認めるということである。

そして残念ながらそのとおりなのだ。

多分、永井はそのことを指摘するために、「ものごとの理解の基本形式」というアイディアを提示しているのだろう。そして、更に永井は「ものごとの理解の基本形式」に当てはまらないものとして〈私〉があると言うのだろう。

僕もそれを認めることはやぶさかではない。だがそのような例外はそう多くない。この例外を特異点と言い換えるならば、僕の見込みでは、そのような特異点はどのような哲学体系においても一つか二つしかない。その特異点は〈私〉、神、言語、身体などと呼ばれる。これらの特異点とはこの文章での僕の表現を用いるならば、アルキメデスの支点のことだ。一つ(または二つ)しかない支点から、どのように個別具体的なものを錬成できるというのだろうか。

僕の哲学はここで行き詰まっている。この行き詰まりは世間の哲学の行き詰まりでもあると思う。僕は世の哲学において、個別具体的なものを密輸入せずにこの問題を解決している例を知らない。

僕はこの問題を解決し、アルキメデスの支点から、豊穣で精緻な、この当たり前の世界を錬成し、説明しつくしたい。そして、恐れを抱かずにこの世界に安住したいと願っている。それは無理な願いなのだろうか。