1 この文章の位置づけ

先日、マインドフルネスについて考え、『マインドフルネスについての備忘録 居場所・愛・解脱・可能性・善』https://dialogue.135.jp/2020/09/24/mindful/ としてまとめた。

そこで書いたことは、おおまかに言うと、「マインドフルネスとは、すべてを注意深くみつめ、それを認めて、距離を置き、居場所をみつけてあげることだ。」というものだった。ポイントは、雑念を流し去るのではなく、きちんと居場所をみつけてあげるという点にある。

この話と時間、つまり過去・未来・現在の話とをつなげて考えられるのではないかと思いついたので、マインドフルネスと時間をテーマにして続きを書くこととした。

2 雑念の行き先としての過去

(1)雑念はどこかにいく

マインドフルネスにおいて、雑念を流し去るのではなく、きちんと居場所をみつけてあげればいい、という対処策の面白いところは、せっかく雑念に居場所を確保してあげても、確保したとたんに居場所はどこかに行ってしまうというところにある。気ままな子どもやネコがどこかに遊びに行ってしまうように。雑念を消そうとせず、雑念を大事に扱ってあげるほうが簡単に雑念は消える。急がば回れなのだ。実は僕自身は瞑想初心者なので上手にできないけれど、少なくとも、そのような実感はある。

(2)雑念の行き先は過去

では、せっかく大事に扱って、居場所まで確保してあげた雑念は、どこに行ってしまったのだろう。その行き先こそが過去である。雑念は現在から過去に行ってしまったのだ。

理解に役立つかわからないけど、具体例で説明しよう。
瞑想をしているとき、スマホからLINE通知の音がなり、あ、サイレントにしてなかった、なんて考えてしまったとする。そんな心の動きに気づいたときに「いけない、瞑想を続けなきゃ」と思うのではなく、LINE通知に反応したという心の中の出来事をただ受け止めて心の中に居場所をつくってあげるのがマインドフルネスである。「LINE通知に反応したこと」という出来事を擬人化し、僕を「心の中旅館」という旅館の仲居さんとするならば、僕は、旅館に到着した「LINE通知に反応したこと」様を「桔梗の間」にご案内し、どうぞおくつろぎください、とご挨拶するようなものだ。
「LINE通知に反応したこと」様が通された「桔梗の間」は、仲居さんにご案内された時点では、現在の心の中旅館の現在の一室だけど、いずれ「桔梗の間」は過去のものとなる。そうすると、現在の僕の「心の中旅館」のフロントからの内線電話では、過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様に連絡をとれなくなってしまう。これがマインドフルネス的には雑念が流し去ることができた状況だろう。現在の僕の心からは「LINE通知に反応したこと」という過去の出来事にアクセスできないのだから、もうそのような雑念は心の中に残っていないことになる。
心という概念自体が哲学的には問題含みなのだけど、とりあえず心とは巨大旅館のようなものだとしよう。そこには無数の部屋があり、様々な心のなかでの出来事を収めておくことができる。「2020年10月4日9時21分にLINE通知に反応したこと」は、桔梗の間に収められることになる。
そのうち、直接に連絡をとってアクセスできるのは出来事を収めたばかりの現在の部屋だけであり、時間が経過し、過去の部屋となってしまったら直接アクセスすることはできなくなる。

(3)過去へのアクセスの間接性

直接でなく、どのようにアクセスするのかといえば、間接的に、出来事の記憶を思い出すことによってである。僕はもう、数時間前のLINE着信音をありありと体感することはできないけれど、間接的には、記憶を呼び起こし、確かに瞑想中にスマホから突然着信音が鳴ったことを思い出すことはできる。そのとき、過去の「LINE通知に反応したこと」様がふらりと記憶として現在の心の中旅館のフロントを訪ねてきてくれるのだ。

このような捉え方に対しては「ありありと思い出すことができるならば、過去の「LINE通知に反応したこと」の記憶だって直接的なものではないか。」という反論が想定できよう。現在のありありとした体験も、過去のありありとした記憶も、いずれも直接的なものであるという直感が確かにある。

しかし、そこにある両者の間の違いに敏感になることこそがマインドフルネスなのではないだろうか。マインドフルネスとは、マインドフルに今ここに注意を向けることだとも言える。その対象はあくまでも現在である。対象を現在に限定するという側面を強調するならば、マインドフルネスでよく言われる、雑念を流し去るという言い方が成立する。注意を向けることができるのは現在だけだからこそ、雑念を現在から過去に流し去ることができるのだ。雑念は消えることなく、ただ過去に流れていく。

直接と間接の違い、そして現在と過去の違いに注目すると、さきほどの旅館の比喩のなかに潜んでいた矛盾に気づくこともできる。現在の心の中旅館のフロントにいる僕は、どうやって過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様をとり、フロントまでお越しいただくことができたのだろう。現在の僕から過去の桔梗の間に連絡をとることなどできないはずなのに。

この連絡の不可能性を強調するならば、記憶を呼び起こし、フロントにお越しいただいたお客様は、過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様とは似ていても別人だということになる。うり二つの双子かもしれないけれど、過去の体験と想起された記憶は全くの別物なのだ。これが間接性を強調したマインドフルネス的な方向の解釈である。

だからマインドフルネスにおいては、過去に対する思い、つまり呼び起こされた記憶は、新たな雑念として処理されることになる。マインドフルネスにおいては、このような雑念は、例えば「2020年10月4日11時04分に2時間前のLINE通知を思い出したこと」という新たなお客様として、桔梗の間ではなく藤の間にお通しすることとなる。

一方で、常識的な解釈においては、過去の体験と想起された記憶は直接的に関係し、つながっていると考える。フロントから桔梗の間への連絡は成功するし、雑念は流すだけでは消え去ることはないし、ましてや居場所を確保するようなことをしてはいつまでも居座られてしまう。雑念を消すためには、記憶から抹消するという追加的な作業が必要となる。これが関係し、つながっているという常識的な捉え方の帰結である。

マインドフルネス的な解釈と常識的な解釈とは矛盾する。だがその矛盾はいずれかが誤りということではなく、矛盾し、両者がせめぎ合うからこそ、「現在から過去へ」という時間の流れはあるのではないだろうか。

ただし、ネガティブな記憶を無理やり抹消するという作業が求められない分、マインドフルネス的な道筋のほうが、精神的には望ましいものとなるように思える。

3 未来

ここまで過去に着目して論じてきたが、未来という時制もある。マインドフルネスにおいては、未来はどのように扱われているのだろうか。

先般の僕の文章では、未来を可能性と結びつけて論じていた。無限の可能性がある未来から、可能性が絞られて確定していく現在へ、という時間の流れとしての描写だ。
記憶の想起と過去を結びつけるのと同様に、可能性の想像(予測・予想)と未来を結びつけて扱うことができるだろう。

マインドフルネスにおいては、過去の記憶の想起とは、もともとの体験とは違う新たに現在に生じた雑念というお客様であり、心の中旅館の別のお部屋にお通しするものであった。それと同様に、未来の可能性とは、実際に訪れる未来ではなく、あくまで現在の心の中に浮かんだ想像という出来事であり、現在における雑念として処理されることになる。
つまり、未来とは可能性の想像というかたちで間接的にしかアクセスできないものなのである。これは過去についても記憶の想起というかたちで間接的にしかアクセスできなかったのと同型である。

一方で、過去については直接的なアクセスも可能であるという常識的な感覚があったが、未来については直接的なアクセスはできないと考える方のほうが多いのではないだろうか。なぜなら、一面では、直接的なアクセスができないということこそが未来の本質であろうからだ。
そのように考えると、現在を重視し、その他の時点での出来事は間接的なものとして扱うというマインドフルネス的なアプローチは、過去よりも未来に対してのほうが理解されやすいだろう。なぜなら過去においては直接的な過去という対抗馬があったが、未来においては直接的な未来というものが想定されにくいのだから。

なお、残念ながら理解されやすいことマインドフルネスを実践しやすいこととは別だろう。僕は瞑想をしていると、過去の出来事を思い出すよりも、これからの予定について考えてしまうことのほうが多い。これは、未来とは思考による間接的なアプローチしかできないものだからこそ、考えるに値することだという思いが染み付いてしまっているからなのかもしれない。

以上が、マインドフルネスにおける未来の扱いだ。

4 現在

最後に現在についても触れておこう。
ここまでも現在は、過去との関係としての現在と、未来との関係としての現在として登場していた。

過去との関係では、現在とは、過去の出来事を想起する現在である。2時間前のLINE通知を思い出しているのは今である、というかたちで現在は登場する。
また未来との関係では、現在とは、未来の出来事を想像する現在である。明日に雨が振りそうだと予測するのは今である、というかたちで現在は登場する。

二つの現在が登場するだけでも複雑なのだが、現在については更に問題が複雑化する。
2時間前のLINE通知であれば、現在と過去の間の差が大きく、現在と過去を容易に切り分けることができるが、1時間前、10分前、1分前、1秒前、0.1秒前・・・と両者を近づけていくと、ついには、現在と過去の見分けがつかなくなる。0.001秒前のLINE通知を思い出すというのは、現在の出来事を現在において思い出している、ということになるだろう。
つまり、思い出す現在とは別に、思い出される現在というものが出現する。

同様の操作は未来に対しても可能である。明日の降雨予想について、半日後、1時間後、10分後・・・というように未来と現在とを近づけていくと、ついには、未来と現在の見分けがつかなくなり、0.001秒後の降雨を予想する、という状況が生じる。これはつまり、現在において現在を想像(予想・予測)する、ということであり、想像する現在とは別に、想像される現在とが出現することとなる。

つまり、現在には、①無限小の過去を想起する現在、②無限少の過去として想起される現在、③無限小の未来を想像する現在、④無限小の未来として想像される現在という4つの現在があるのだ。

そして、この4つの区分を否定し、すべてを過去に流し去ろうとするのがマインドフルネス的な現在に対するアプローチである、ということになる。

あえて、このマインドフルネス的な視座、つまり流し去る(または認めて居場所をみつける)という作業を行う現在を第5の現在と呼ぶならば、現在は5つあり、第5の現在こそが真の現在であり、それ以外のすべての時制は雑念であるというのがマインドフルネスの主張となるだろう。

5 存在論と認識論

第5の現在はともかくとして、4つの現在については、想起・想像する現在と、想起・想像される現在という形で区分し、対比することができるだろう。

僕はこの対比を、存在論と認識論のずれとして扱うことができるのではないか、と考えている。現在を想起・想像するとは現在を認識することだと捉えるならば認識論とつながり、想起・想像される現在とは認識の客体としての存在論につながるのではないだろうか。

これは認識論中心の捉え方だとも言える。なぜなら、現在において過去を想起し、未来を想像するという心の動きという観点から現在・過去・未来という時制を捉え、その延長線上において、現在において現在を認識する、という心の動きとして捉えているからだ。そこではものごとの存在は、あくまで、認識を成立させるための、認識の客体として必要な限りで措定されているものとなる。

このように考えると、マインドフルネスとは、認識論優位の見地から、認識論と存在論について描写したものであるとも言えよう。※
過去とは想起であり、未来とは想像であり、現在とは認識であるからこそ、そのような心の動きを捨象することで解脱への道筋が開けるのだろう。

それでマインドフルネス好きの僕としては問題ないのだが、哲学者としての僕は疑問を投げかけたくなる。
では、すべてを捨て去ってしまったら、その認識の視座はどこに確保されるのか、と。
きっとそれが第5の現在なのだろう。第5の現在とは時制から解放された無時間的な場のようなものなのだろう。

しかし、このような描写では、不十分なように思える。僕が好きな入不二基義が現在進行形で論じているのは、まさにこのようなことなのではないか。彼は無内包の現実という議論から、力としての現実という方向に議論を進めているが、彼が行っていることと僕の疑問は深く関わっているような気がする。または彼の議論に触発されて、僕はこのようなことに疑問を感じているのかもしれない。

今後の哲学的な議論の深まりに合わせて、マインドフルネスに対する考え方も深めて行く必要があるように思う。
思索と実践が連動して深められていくというのはチャレンジングでとても面白い。

※ 書けなかったこととして、ジャーナリングの位置づけについての疑問もある。ジャーナリングとはマインドフルネスの手法で、紙に思いついたことを書き連ねていくというものなのだけど、これは明らかに、文字表現を優先するものであるという点で意味論に通じていると思う。この観点から、今回登場しなかった意味論についてマインドフルネス的に考察する必要があるように思う。