この文章は、「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた のうちの「1 距離ゼロ 感想・補助線」とほぼ同じです。そちらの方を読んでいただけると嬉しいです。https://dialogue.135.jp/2020/11/29/actu-re-ality0/

0 はじめに

僕が大ファンである入不二基義先生の新刊「現実性の問題」を読みました。

色々考えさせられたので、疑問・反論?なども含めた考察を書き始めたのだけど、いつ書き終わるかわかりません・・・

ということで、とりあえずの感想と、もしかしたらどなたかがこの本を読むにあたって参考になるかもしれないところを先行して掲載します。

後日、考察部分とあわせて書き直すかもしれませんのでご了承ください。

1 戸惑い

僕がこの本を読むうえでの最初の関門は、この本がなにをしようとしているのか把握することだった。この本が目指すものは、入不二は冒頭から、いろいろなやり方で事前に丁寧に示している。だけど、「現実性の問題」とは、僕自身が考えてきたことや、僕が触れてきたこれまでの哲学に対して、どのように位置づけられるものなのかがよくわからなかったのだ。

実は、このような戸惑いには覚えがある。前著「あるようにあり、なるようになる」で運命論について論じた際にも、僕は、運命論という問題設定に対して同様の戸惑いを感じた。

これらの感覚は「おわりに」で登場する入不二自身の目眩のようなアンセルムス体験と似ているように思う。アンセルムスの神を入不二の文脈に位置づけるならば、アンセルムスは神について論じながら、(無意識にかもしれないけれど)従来の神とは全く異なる神について論じていたとも解釈できる。入不二も現実という言葉を使いながら、全く異なるものについて論じているとも言える。僕の戸惑いとは、そのことにより生じる目眩のようなものなのかもしれない。

2 重層性

この本の魅力は、その重層性にあると思う。

それは、この本の装丁にも表れている。白から黒に移行し、それが更になんと銀色に輝くというかたちで。この装丁は、この本で重要な位置を占める否定の力を表しているように思う。白が非白としての黒を立ち上げ、更に、非(白vs黒)としての輝く灰色(つまり銀色)を立ち上げている。

その重層性はこの本全体を貫いている。「はじめに」では、小学生の入不二少年が登場し、離別と死別の違いの話として「現実」について考察している。

入不二は、「はじめに」から第1章に入らず、「おわりに」、「追記とあとがき」と読み進めることを推奨している。ここでは入不二青年が登場し、また、realitiyとactualitiyについての比較的独立した考察が行われる。

そのようにして議論がせり上がっていき、第1章では円環モデルが提示され、第2章からが、いわば本編となる。

これまでの入不二の本でも、冒頭の導入部で補助線としてのエッセイを提示するというやり方をとることは多かった。しかし、このように多重的に補助線を引いたうえで本編に入るという書き方はしていなかったように思う。

このような長い助走、つまり重層性がこの本の魅力であり、また、それを必要とするほど独自で新しいことを提示しているという点が、この本の価値だと思う。(入不二は新しさによる戸惑いを読者が感じることを想定し、それを緩和するために重層的な補助線を準備してくれたとも言える。)

更には、重層性は、この本の内容だけではなく、この本の細部にも表れていると思う。註記と索引だ。

この本の註記は本文の単なる補助ではない。註記が独自に議論を展開し、時には本文に再合流する。本文でこれほど註記に触れて議論を進めるという書き方は珍しいのではないだろうか。

索引も充実している。数えるとなんと32ページもある。僕はまだ索引をきちんと活用しきれてはいないが、少し使っただけで、その威力が垣間見えた。充実した索引は、それがひとつの補助線となりうる。例えば僕は、相対主義について論じる中でp.313に登場する「無力」を索引で引いてみた。カギカッコ付きで登場するにも関わらず、唐突で、その後も二度と使われない言葉だったから気になったのだ。索引によれば、無力という言葉はp.121で祈りについて考察するなかで登場していたことがわかる。本文での明言はないけれど、相対主義と祈りはどこかで通じている。索引を通じてそんなことがわかる。

このようにして、註記と索引は、この本の重層性を更に深めている。

加えて、この本は過去の入不二の著作の集大成としての重層性も有している。入不二は、この本を通じて、過去の著作で取り扱ってきた主題を再び取り上げ、現在の入不二の視点から、それらをひとつのキャンバスに描こうとしている。それぞれの本で独立的に行われていた主張が、パズルのように一つの絵に組み込まれていくのは、とても心地よいものであるとともに、何かが「台無し」になってしまうような感覚がどこか生じていた。これまで、入不二の本を読み進めてきた僕の読者体験が、上から重ね書きされ、別のものに変容してしまう感覚というのだろうか。なお、台無しになることは快感でもある。

当然、入不二は全く別な絵など書きはしない。入不二の議論は、何度も絵の輪郭をなぞるうちに、その絵自体を塗りつぶしてしまうのだ。入不二にはそのような過剰さがある。その過剰さが入不二の魅力だ。

入不二はマーク・ロスコの絵画に何度か言及している。僕は、抽象画はわからないけれど、きっと彼が目指しているのは、何度も塗り重ねる果てに現れるマーク・ロスコの単純な絵なのだろう。重層性の果てに現れる単純さと言ってもいい。

単純を目指すからこそ、彼は重層的な本を書いたのだ。

3 円環モデル

彼がこの本の補助線として提示したもののなかでも特に重要なのは円環モデルだろう。もしかしたら、円環モデルとは、単なる補助線ではなく、彼が目指す到達点なのかもしれない。つまり、第2章以降は、この円環モデルを何度もなぞるようにして、重層的に大きな円を描く作業だったということになる。

彼の真意はわからないけれど、僕はそう読んだし、そのように読むことで理解も進んだ。第2章以降を読む中でも、常に、この話は円環モデルのどこにあたるのだろうと注意を払うことで、頭が整理されるように思えた。

円環モデルに何度も立ち戻るために僕が編み出した工夫は、円環モデルを時計の文字盤に例えることだ。

p.42の図でいくと、第1歩が1時、更なるもう一歩が2時、排中律が3時、無限の可能性が4時、転換が6時、6時から12時が潜在性の領域というようになる。(ギャップは12時から0時に飛躍することだと表現できる。)

これら僕が書く文章は、円環モデルにとらわれつつ論じていくことになるので、何度も、この時計の比喩が登場すると思う。

円環モデルについては、もうひとつ、別の比喩も思いついた。

時計は時計でも、アナログ時計の文字盤ではなく、太陽の運行自体を比喩に用いるというやり方だ。

p.42の図でいくと、第1歩が日の出となり、更なるもう一歩、排中律あたりが午前中で、無限の可能性が午後に生じて、転換が日の入りとなり、日が暮れてからが潜在性の領域となる。

こちらの比喩は議論の細かい部分を指し示すのには向いていないけれど、潜在性の領域を夜に割り振ることで、特に潜在性というものの特徴を示すことに成功しているように思う。さらには、この比喩においては、太陽とは認識論や意味論となり、星が潜在性の領域においても降り注ぐ現実性の光と捉えることができるかもしれない。(月だと太陽の光の反射となってしまうので、同等の恒星である星を潜在性の領域の光としたほうがいいだろう。)

特にこの比喩で気に入っているのは、朝日と夕日の美しさを表現できるという点だ。考察の際に詳述するが、この本のピークは、時計の文字盤を用いるならば、6時と12時にある。そこでの美しさを日の出前の朝日と、日の入り直後の夕日として表現できるように思うのだ。

4 肯定主義

「現実性の問題」について理解するのに入不二は重層的な仕掛けを準備してくれているが、もうひとつ追加してよいと思う補助線が、肯定主義という用語だ。(索引によれば)肯定主義という用語は第9章になってから登場するが、この言葉に出会って、ああ、これは肯定主義についての本でもあるのか、と腑に落ちた。ここでの肯定主義とは「ある」という肯定性優位の原理を徹底していくというものだと言っていいと思うけれど、○○主義や○○原理という名前がつくと理解がしやすい。

この本のなかで、入不二の議論が大胆な一歩を踏み出し、それがどうして正当化されるのかわからなくなったとき、これは肯定性優位の原理、肯定主義を適用した結果かもしれない、と考えれば、入不二の議論に(同意はできなくても)ついていくことはできるかもしれない。同意できるかどうかは、少なくとも第9章まで読み進み、肯定主義も含めた入不二の議論の全体像を捉えてから判断しても遅くはない。

ただし気をつけなければならないのは、○○主義や○○原理と名前をつけた時点で、それは本当に指し示そうとしたものから外れ、補助線のひとつになってしまうという点だ。この転落はこの本のいたるところで生じているし、入不二もそれを転落として言及している。

その意味では、この本の記述全体が転落を見越した補助線であるとも言えるかもしれない。

5 圧倒性

この本は、過剰なほどに重層的に補助線を重ね書きすることによって、そのようにしてしか到達できない何か単純なもの(この本では円環に例えられるような何か)を表現しようとしているように感じられる。

この議論の厚みは、レスラーの厚い胸板のように、または、猛獣の筋肉のように読者を圧倒し、僕を「現実性の問題」のもとに組み伏せているのだ。

入不二に実際にそのような意図があるかどうかは別として、この本の議論においては、そのように考えることが理解の一助となる場面があるように思う。