1 距離ゼロ 感想・補助線
まずはこの本の感想から。多分、この章については、入不二の議論からの大きな逸脱はないと思うので多くの方に読んでほしい。
この本に書かれていることは全く新しくて、わくわくするものだった。きっと僕にとって、そして哲学界にとって、この本はとても重要なものになると思う。というかそうなってほしいと思う。もっとこの続きを話したいし、誰かに話してほしい。
そうなるように願って、僕なりの言葉で、この本の魅力を少しでも多くの方に伝えたい。
1-1 目眩・戸惑い
この本は魅力的だけど難しい。図も多用されているし、あえて表現を難しくしているようなところもないけれど、独特の難しさがあった。だから、決して、流れるように読み進められるものではなかった。
僕がこの本を読み進めるうえでの最初の関門は、この本がなにをしようとしているのか把握することだった。この本が目指すものは、冒頭から、いろいろなやり方で事前に丁寧に示されている。だけど、僕自身がこれまで考えてきたことや、僕が触れてきたこれまでの哲学に対する「現実性の問題」の位置づけが捉えられなかった。
実は、このような戸惑いには覚えがある。前著「あるようにあり、なるようになる」で運命論について論じた際にも、僕は、運命論という問題設定に対して同様の戸惑いを感じた。たいていの入不二の本には、このような感覚はつきもののように思う。
これらの感覚は「おわりに」で登場する入不二自身の目眩のようなアンセルムス体験と似ている。アンセルムスの神を入不二の文脈に位置づけるならば、アンセルムスは神について論じながら、(無意識にかもしれないけれど)従来の神とは全く異なる神について論じていたとも解釈できる。入不二も現実という言葉を使いながら、全く異なるものについて論じているとも言えるだろう。僕の戸惑いとは、そのことにより生じる目眩のようなものなのではないか。
1-2 重層性・単純
この本に書かれている個々の内容については後ほど考察するとして、まずはこの本全体としての魅力を紹介しておきたい。この本には重層性と表現できるような魅力がある。
その重層性は、まず、この本の装丁に表れている。白から黒に移行し、それが更になんと銀色に輝くというかたちで。この装丁は、この本で重要な位置を占める否定の力を表しているように思う。白が非白としての黒を立ち上げ、更に、非(白vs黒)としての輝く灰色(つまり銀色)を立ち上げている。
重層性はこの本全体を貫いている。「はじめに」では、小学生の入不二少年が登場し、離別と死別の違いの話として「現実」について考察している。
入不二は、「はじめに」からそのまま第1章に入らず、「おわりに」、「追記とあとがき」と読み進めることを推奨しているが、ここでは入不二青年が登場し、また、realitiyとactualitiyについての比較的独立した考察が行われる。
そのようにして議論がせり上がっていき、第1章では円環モデルが提示され、第2章からが、いわば本編となる。
これまでの入不二の本でも、冒頭の導入部で補助線としてのエッセイを提示するというやり方をとることは多かった。しかし、このように多重的に補助線を引いたうえで本編に入るという書き方はしていなかったように思う。
このような長い助走、つまり重層性がこの本の魅力であり、また、それを必要とするほど独自で新しいことを提示しているという点が、この本の価値だと思う。(入不二は新しさによる戸惑いを読者が感じることを想定し、それを緩和するために重層的な補助線を準備してくれたとも言える。)
更には、重層性は、この本の内容だけではなく、この本の細部にも註記と索引として表れている。
この本の註記は本文の単なる補助ではない。註記が独自に議論を展開し、時には本文に再合流する。これほど註記を本文に登場させつつ議論を進めるという書き方は珍しいのではないだろうか。
索引も充実している。数えるとなんと32ページもある。僕はまだ索引をきちんと活用しきれてはいないが、少し使っただけで、その威力が垣間見えた。充実した索引は、それがひとつの補助線となりうる。例えば、相対主義について論じる中でp.313に登場する「無力」を索引で引いてみた。カギカッコ付きで登場するにも関わらず、唐突で、その後も二度と使われない言葉だから気になったのだ。索引によれば、無力という言葉はp.121で祈りについて考察するなかで登場していたことがわかる。本文での明言はないけれど、相対主義と祈りはどこかで通じている。索引を通じてそんなことがわかる。
このようにして、註記と索引は、この本の重層性を更に深めている。
加えて、この本は過去の入不二の著作の集大成としての重層性も有している。入不二は、この本を通じて、過去の著作で取り扱ってきた主題を再び取り上げ、現在の入不二の視点から、それらをひとつのキャンバスに描こうとしている。
それぞれの本で独立的に行われていた主張が、パズルのように一つの絵に組み込まれていくのは、とても心地よいものではあるが、一方で、何かが「台無し」になってしまうような感覚がどこか生じていた。これまで、入不二の本を読み進めてきた僕の読者体験が、上から重ね書きされ、別のものに変容してしまう感覚というのだろうか。なお、台無しになることは快感でもある。
「台無し」と言っても、当然、入不二は既にあった絵を消して、その上から全く別な絵を書くようなことはしない。入不二の議論は、もともとあった絵(つまり過去の著作の議論)の輪郭を何度もなぞるうちに、その絵自体を塗りつぶしてしまうのだ。入不二にはそのような過剰さがある。その過剰さが入不二の魅力だ。
入不二はマーク・ロスコの絵画に何度か言及している。僕は、抽象画はわからないけれど、きっと彼が目指しているのは、何度も塗り重ねる果てに現れるマーク・ロスコの単純な絵なのだろう。重層性の果てに現れる単純さと言ってもいい。
単純を目指すからこそ、彼は重層的な本を書いたのだ。
1-3 時計・太陽
彼がこの本を読むうえでの補助線として提示したもののなかでも特に重要なのは円環モデルだろう。もしかしたら、円環モデルとは、単なる補助線ではなく、彼が目指す到達点なのかもしれない。つまり、第2章以降は、この円環モデルを何度もなぞるようにして、重層的に大きな円を描く作業だったということになる。
彼の真意はわからないけれど、僕はそう読んだし、そのように読むことで理解も進んだ。第2章以降を読むうえでも、この話は円環モデルのどこにあたるのだろうと常に注意を払うことで、頭が整理されるように思えた。
円環モデルに何度も立ち戻るために僕が編み出した工夫は、円環モデルを時計の文字盤に例えることだ。
(と書いたけれど、読み返すと、入不二自身が始発点をアナログ時計の12時と表現している箇所があった。(p.177))
p.42の図でいくと、第1歩が1時、更なるもう一歩が2時、排中律が3時、無限の可能性が4時、転換が6時、6時から12時が潜在性の領域というようになる。(ギャップは12時から0時に飛躍することだと表現できる。)
これから僕は、円環モデルにとらわれつつ論じていくことになるので、何度も、この時計の比喩が登場すると思う。
円環モデルについては、もうひとつ、別の比喩も思いついた。時計は時計でも、アナログ時計の文字盤ではなく、太陽の運行自体を比喩に用いるというやり方だ。p.42の図でいくと、第1歩が日の出となり、更なるもう一歩、排中律あたりが午前中で、無限の可能性が午後に生じて、転換が日の入りとなり、日が暮れてからが潜在性の領域となる。
こちらの比喩は議論の細かい部分を指し示すのには向いていないけれど、潜在性の領域を夜に割り振ることで、特に潜在性というものの特徴を示すことに成功しているように思う。さらには、この比喩においては、太陽とは言語つまり意味論となり、星が潜在性の領域においても降り注ぐ現実性の光と捉えることができるかもしれない。(月だと太陽の光の反射となってしまうので、同等の恒星である星を潜在性の領域の光としたほうがいいだろう。)
特にこの比喩で気に入っているのは、朝日と夕日の美しさを表現できるという点だ。考察の際に詳述するが、この本のピークは、時計の文字盤を用いるならば、6時と12時にある。そこでの美しさを日の出前の朝日と、日没直後の夕日として表現できるように思うのだ。
だから、今後は、円環モデルについて、何時という示し方だけでなく、日の出、昼、日没、夜という述べ方もすることになる。この4区分こそが円環モデルにおいては重要である、ということも述べることになるだろう。
1-4 肯定主義・補助線
「現実性の問題」について理解するために入不二は重層的な仕掛けを準備してくれているが、もうひとつ追加してよいだろう補助線が、肯定主義という用語だ。このような考え方は前半から顔をのぞかせるが(索引によれば)肯定主義という用語は第9章になってから登場し、そこで集中的に論じられる。そこで、この本は肯定主義についての本でもあるのか、と腑に落ちた。ここでの肯定主義とは「ある」という肯定性優位の原理を徹底していくというものだと言ってもよいだろうが、○○主義という名前がつくと理解がしやすい。
この本のなかで、入不二の議論が大胆な一歩を踏み出し、それがどうして正当化されるのかわからなくなったとき、これは肯定性優位の原理、肯定主義を適用した結果かもしれない、と考えれば、入不二の議論に(同意はできなくても)ついていくことはできるかもしれない。同意できるかどうかは、少なくとも第9章まで読み進み、肯定主義も含めた入不二の議論の全体像を捉えてから判断しても遅くはない。
ただし気をつけなければならないのは、○○主義と名前をつけた時点で、それは本当に指し示そうとしたものから外れ、補助線のひとつになってしまうという点だ。この転落はこの本のいたるところで生じているし、入不二もそれを転落として言及している。
その意味では、この本の記述全体が転落を見越した補助線であるとも言えるかもしれない。
1-5 圧倒・猛獣
この本は、過剰なほどに重層的に補助線を重ね書きすることによって、そのようにしてしか到達できない何か単純なもの(この本では円環に例えられるような何か)を表現しようとしているように感じられる。
この議論の厚みは、レスラーの厚い胸板のように、または、猛獣の筋肉のように読者を圧倒し、僕を「現実性の問題」のもとに組み伏せているのだ。
この本の議論においては、排中律、矛盾律といったものさえも単なる議論の駒のひとつとして扱われる。そのようなレベルでの議論を駆動するのは一般的な意味での論理(議論の妥当性を真偽という見地からジャッジするというような意味での論理)の力ではないことは明らかだろう。つまり、入不二は、いわゆる論理ではない何らかの力を用いて議論を進めていると考えざるを得ない。その力とは、ただひたすらに圧倒的なものであり、その力とは何かという分析すらも拒絶する孤高の力としか考えられない。あえて言えばそれは野生の猛獣の力であり、または、詩の力とも言い換えることができるように思う。
入不二に実際にそのような意図があるかどうかは別として、この本を読むうえでは、そのように捉えることが理解の一助となる場面があった。
1-6 明示・潜在
入不二の議論には一般的な意味での論理的な分析を拒絶する(超えている)側面があるが、入不二が述べることは決して不明瞭ではない。むしろ入不二がこの本で到達した地点は明らかであるとも言える。
このような矛盾的なことが言えるのは、従来の道筋では描けなかったはずのものを描き切ったということがこの本の成果(のひとつ)だからだ。
なお、入不二はこの本で初めて、新たな地点に到達したのではない。正確には、これまでも彼が既に到達していた地点から、さらに一歩、議論を進めたことがこの本の成果だと言ったほうがいいだろう。僕が強調したいのは、その前進が成果であると同時に、もうひとつの成果があるということだ。
入不二はこの本により、以前の著作も含めて彼が成し遂げたことをわかりやすく明示した。それがもうひとつのこの本の成果だ。
はっきり言って、入不二が成し遂げたことはこれまでわかりにくかった。例えば、永井の独在論は、その独自性がわかりやすい。一方で、入不二の語り方の新しさは世に認められつつも、その語り方を通じて何を新たに成し遂げたのかがわかりにくかったように思う。過去の著作において、相対主義、時間論、運命論といった分野で入不二がとても新しくてとても重要なことを言っているのは確かだけど、それはどのような新しさで重要性なのだろうか、という疑問がどこかつきまとっていたように思う。しかし、この本によって、そのような疑問を払拭し、彼が何を成し遂げたかを明確に示したのだ。
入不二が成し遂げたことを、円環モデルを用いて簡潔に表現するならば、円環モデルの左半分、つまり夜の領域を描き、円環モデルを円環として完成させたということだ。これこそが入不二哲学の成果だ。更には、夕日と朝日の美しさを描き、円環モデルに垂直に差し込む光(力)までも捉えている。このことは、従来の哲学から、少なくとも二歩先をいっているように思う。
(潜在性という、語りえぬものそのものを論じていたから、入不二の成果は捉えにくかったのではないだろうか。)
入不二が到達した地点をこのように端的に捉えることは、入不二の業績を矮小化している。だが一方で、このように読んでもいいとも思えてしまう。
この本は、そのような読み方さえも受け入れるような不思議な魅力を持っている。入不二の用語を流用するならば、この本とは主張する顕在的な存在ではなく、ただ読まれることを待っている、潜在的なマテリアルなのかもしれない。
これから僕はそれに甘えて、勝手な考察を展開していきたい。