0 はじめに

この文章では、僕にとって興味深かった2つの本を導入として用い、僕が考える生き方の指針について述べ、最終的には時間論と心身論(の入り口の話)につなげていきたい。なお書いた主な意図は、僕の生き方の指針を紹介するためである。

1 面白かった自己啓発書・ビジネス書

僕はあまり本を読まないのだけど、自己啓発書やビジネス書を何冊か読んだことがある。そこから全く新しい知見を得て、その人生訓を自分の人生や仕事に活かしたいというよりも、なにか哲学的問題に参考になるアイディアを見つけたい、世間で求められているものを知っておきたい、といった動機から読んでいる。

このジャンルで面白かったのは次の3冊だ。(仏教系、マインドフルネス・瞑想系、哲学者が書いた文章は除いています。)

①ビジョナリー・カンパニー2

②夜と霧

③7つの習慣

いずれも有名な本なので内容の紹介は省くけれど、①と②は新しい気付きがあったという点で僕にとって重要な本で、③は僕が考えていることに結構近くてうまくまとまっているという点で心に残ったものだ。

③については、いつか僕自身が自己啓発書を書くときに使いたいと思っているので、この文章では、①ビジョナリー・カンパニー2、②夜と霧という2つの本から気づいたことを取り上げたい。

2 ビジョナリー・カンパニー2

ビジョナリー・カンパニー2を読んで僕が感銘を受けたのは、企業には天命・ミッションのようなものがあり、そこにひたすら打ち込む企業こそが成功するという話だ。(このような述べ方はしていなかったけれど、あえて僕の理解で書くとこのような話だった。確かハリネズミやはずみ車に喩えていたと思う。)

僕はそれを個人に置き換えて解釈した。人には天命・ミッションのようなものがある。それこそが人生の意義であり、生まれてきた意味である。ただし、天命・ミッションとは探して見つけるものではない。ただそれをやり続けることで、振り返ってみるとそれが天命でありミッションであったと気づく類のものなのだ。

僕にとっての天命・ミッションは哲学をすることだ。これほど僕に合っていてやり続けることができているものは他にない。ビジョナリー・カンパニー2が言っていること(をより巷で使われている言葉に言い直すなら)、哲学とは僕が「できる」ことであり、僕が「やりたい」ことであり、やることが「求められている」ことだ。この3つが揃うなんてことはそうなかなかない。

(最後の「求められている」が怪しいけれど、僕自身は、僕の哲学には従来の哲学では述べられたことのない新たな発見が含まれていると確信しているので、そこに求められるべき価値があると信じている。)

だから僕は、僕自身が人生を生きるにあたっての指針に「天命」と書いている。僕は時々、そんなことを思い出しつつ生きている。

3 夜と霧

ビジョナリー・カンパニー2はビジネス書寄りすぎるので万人には勧めにくい。(例えば、僕がビジョナリー・カンパニー2に感銘を受けたのは、その主張の内容よりも、主張がデータで裏付けされているという点にあるのだが、そこを冗長だと考える人も多いだろう。)

もうひとつの夜と霧のほうは万人に勧めることができる。この本はとても深い。僕はそこから、これから述べるようなことを学んだが、人によって色々な読み方ができるだろうし、きっと読み返すたびに新しい発見があるだろう。

この本を読んだときの感想は既に書いている(https://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/)ので、ここでは、その一部だけをとりあげたい。

僕が心に残っているのは、あと数日後に収容所で死のうとする若い女性が人生に感謝し、マロニエの木と語らうエピソードだ。

このエピソードは、僕に、どんなときでも人は成長できるということを教えてくれる。絶滅収容所の中のような厳しい状況においても人は成長できる。それならば、きっと、いつでもどこでも人は成長できるはずだ。また、成長にそのような普遍性があるのは、人生において成長が必須のものであるからに違いない。だから僕は、僕自身が日々を生きるにあたっての指針に「成長」と書き加えた。

なお、成長は変化とも言いかえることができるだろう。僕は今までの自分に囚われず、日々新しくなってもいい。昨日までの自分が想像しなかったような僕になってもよい。なぜなら、それこそが人生の意義だからだ。だから成長とは変化であり、更には自由ともつながっている。

4 指針のリスト化

ここまでで僕の人生の指針には「天命」と「成長」という二つの言葉が書かれることとなった。

なんでもMECEなリスト化をしたくなる僕としては、他にも書き加えられるべきものがないか考え、思いつくままに書き出してみた。

まだ整理しきれていないけれど、当面のリストは次のようになる。

(既にどこかで書いていたらすみません。)

①成長

②天命

③上達:家事や趣味などに習熟して上達すること

④健全な心:うつ病になったりしないこと

⑤節制:酒に耽溺したり、極端な考えに囚われたりしないこと

⑥健全な体:肉体の健康と言ってもいい 体が資本というやつ

⑦こだわり:家族や趣味といったものへのこだわり(仏教なら執着か)

⑧記録:(この文章のように)書き記すこと

⑨身体的欲求:食欲、性欲など求めずにいられないもの

(なお、⑦と⑨については少し説明が必要かもしれない。いずれも、こだわりや身体的欲求を避けるべきという意味ではなく、積極的に求めるべきという意味である。僕は何にこだわるべきかについても既に列挙していて、こだわるべきものについては、それがたとえ煩悩や執着であっても人生において尊重していきたいと考えている。海外旅行をしたりライブではしゃいだりして煩悩や執着とともに生きていきたいと考えている。身体的欲求も同様であり、軽んじることなく、欲求とともに行きていきたいと考えている。)

以上のリストは思いついたことを列挙しただけで、整理しきれていないし、何か哲学的な含意がある訳でもない。ただ、僕自身にとっては、時々思い出して、自分が大事なものを見失っていないか確認するために有用なチェックリストにはなっている。ときどき見返して、リストに入っていないこと(仕事など)に囚われてしまっていたな、なんて反省することもある。

5 リストの整理

述べたとおり、このリストは単なる思いつきではあるが、それでは落ち着かないので、一応、とりあえず整理してみてはいる。ここからは当面の整理について述べていくことにしよう。

実はリストを9つにしたのは後付けである。当初は7項目だったが、9つにすれば、3×3のマトリクスにできる。3というのは説得力がある数字のようなので、3×3というのは更に説得力があるのではないか、また、そこから何かが見えてくるのではないか、ということで、③上達と⑧記録を付け加えている。

(1)時制による分類

まず、3というのは、時間の3時制、つまり未来・現在・過去に対応する。僕は時間論に興味があるので、人生訓を時制と紐付けることはいわば必然であるように思う。

対応関係は次のようにまとめることができる。

【未来】①成長、②天命、③上達

【現在】④健全な心、⑤節制、⑥健全な体

【過去】⑦こだわり、⑧記録、⑨身体的欲求

ア 未来について

未来のカテゴリーに含まれる「①成長」、「②天命」、「③上達」は、いずれも今後の人生に目が向けられていると言えるだろう。

まず「①成長」が未来と結びついていることは明らかだろう。なぜなら夜の霧のニレの木のエピソードは、過去の人生から解き放たれ、更に絶滅収容所にいるという現在からも解き放たれたところにこそ成長があるということを示しているからだ。

また、「②天命」とは、あくまで将来の道を定めるうえでの道標であり、既に行った現在や過去の行いを評価する視点としてのものではない。ビジョナリー・カンパニー2が描く優秀な経営者とは、過去の経営状況がミッションに沿っていたかどうかを評価するだけではなく、そこから、将来のビジョンを示すことができる人であるはずだ。天命とはそのように扱われるべきものである。

「③上達」についても、将来において、過去の自分を上回り、乗り越えるというところに意義がある。包丁をうまく砥げなかったとき、将来においてうまく砥ぎたいと思うからこそ、上達を目指して練習するはずだ。

イ 現在について

現在のカテゴリーに含まれる「④健全な心」、「⑤節制」、「⑥健全な体」は、いずれも現在の自分自身に目が向けられているように思う。

「④健全な心」も「⑥健全な体」も、この現時点での僕がきちんと機能するために必要なものである。今、うつ病になり判断能力が失われたり、体が動かずにやりたいことができなかったりしたら、現在の僕の人生に支障が生じるからだ。

なお、将来における健全な心や体も重要だと言う人がいるかもしれない。確かにそのとおりなのだが、残念ながらそれは望みすぎなのだ。夜と霧で明らかなように、人にはガス室送りにされる人生が待っているかもしれない。そこでは健全な心も体も望むことはできない。なぜなら死んで心も体も存在しないのだから。そのような不可能なものを求めて悩むことがないように僕はこのリスト化の作業を行っているとも言える。僕が望む健全な心と体とは、今ここでの心と体に限定すべきなのだ。

「⑤節制」は、もしかしたら僕に固有の課題なのかもしれない。僕は酒を飲みすぎたり、どうでもいいことをグルグル考えたりして、何かに耽溺してしまいがちなところがある。普通の人なら「健全な心と体」を標語にしておけばいいのかもしれないが、僕にとって「健全な心と体」を最も害するものは、この耽溺なので、あえてそれをネガティブリスト化し、節制を特出ししている。だから「健全な心と体」と同様に、節制も現在の問題である。

ウ 過去について

僕のリストのうち過去のカテゴリーに含まれる「⑦こだわり」、「⑧記録」、「⑨身体的欲求」は、いずれも過去からの経緯や過去を思い出すということに深い関わりがある。

「⑦こだわり」とは、これまでの僕の人生で重視してきたものごとのことだ。僕は何にこだわるべきかについてもリスト化しているが、全てを示すのは恥ずかしいので例示すると、「家族」や「趣味」といったものがある。これまで大事にしてきた家族は今後も大事にしていきたいし、若い頃から打ち込んできた趣味は今後もやっていきたい。成長や健康といったものばかりを追い求め、そんな当たり前を忘れてはいけない。過去を切り捨ててはいけない。そんな気持ちから、過去からのこだわりをリストに含めている。

「⑨身体的欲求」も同様であり、過去から一緒にやってきた戦友とも言えるこの身体が言うことは大事にしたい、という思いがある。身体の過去性を強調するのは、身体というものが、そもそも、食べられてしまった動物や、その食材を調理してくれた人といった過去の営みの結果として存在する、という思いがある。そのような他者との過去とのつながりがある身体の声を軽んじるべきでないということである。

「⑧記録」については、過去自体というより、想起という側面が強い。記録するということは、つまりは既に考えたことを記録に残すということだから過去とつながりがある。ちょうど今思いついたことであっても、思いついてから書くのであり、そこには時間的な前後関係があるはずだから厳密には過去である。

また、記録したものは未来において読まれるとも言える。つまり記録するということはその記録を過去のものとし、未来に譲り渡すということでもある。

以上のように、僕の人生の指針のリストはきれいに3つの時制に3つずつを割り振ることができる。(というか、そうなるようにリストに追加したのだけど。)

(2)心と体による分類

時制による分類を縦軸の分類とするならば、横軸による分類もできると考えている。それはいわば、心と体という視点による分類だ。哲学においては色々な二元論的な問題があるが、そのなかで最も有名なのはデカルトの心身二元論で有名な心身問題だろう。その問題には立ち入らないが、ものごとを心と体という二つの側面から捉えることは重要な視点であることは確かだと思う。

時制による分類を更に心身という視点で分類すると次のようになる。

【未来】心:①成長、中間:②天命、体:③上達

【現在】心:④健全な心、中間:⑤節制、体:⑥健全な体

【過去】心:⑦こだわり、中間:⑧記録、体:⑨身体的欲求

ア 心について

「①成長」、「④健全な心」、「⑦こだわり」については、いずれも心という側面が大きいのはわかりやすいのではないだろうか。

まず、夜と霧のニレの木と語る人に象徴される「①成長」が、身体のようなものと無縁であるのは明らかだろう。なぜなら、肉体は消滅しようとしているのだから。絶滅収容所における無慈悲な肉体の消滅とは全く無縁だからこそ、彼女の成長は尊い。

「④健全な心」はすでに心という文字が入っているので言うまでもないし、「⑦こだわり」とは家族や趣味への執着であり、心の中だけのものごとであることは明らかだろう。(心の中にしかなく実体がないからこそ、仏教はそれを煩悩と呼び、捨て去るべきと言っているのだろう。)

イ 体について

「③上達」、「⑥健全な体」、「⑨身体的欲求」についても、それらを身体的なものとして捉えることはわかりやすいだろう。

「③上達」とは、心に分類した「①(精神的)成長」に含まれないようなものを指している。つまり精神的な上達は成長に含まれるので、上達とはそれ以外のもの、つまり身体的な上達ということになる。包丁砥ぎを練習してうまくなるのと同様に、数学の問題集をやって数学の問題を解くのがうまくなったり、たくさん本をよんで思考するのがうまくなったりするのも身体的な上達に含まれる。(一方で、現に数学の問題の解き方をひらめいたり、新しい哲学的なアイディアを思いつたりするのは、どちらかというと精神的な成長に近いように思える。)

「⑥健全な体」と「⑨身体的欲求」については、いずれもすでに体という言葉が入っていることからも説明は要しないだろう。

ウ 中間について

「②天命」、「⑤節制」、「⑧記録」については、精神的な側面と、身体的な側面の両面を有するので、とりあえず中間と名付けた。

「②天命」は、何かを人生のミッションと心の中で考えるだけでなく、そのように決断して身体的に行動するという点が重要となるので両面性があり中間的であると言える。

「⑤節制」についても、ひとつの考えに囚われないというような精神的な節制と、タバコや酒を控えるという身体的な節制との両面がある。

「⑧記録」とは、思考したことを手で書くという、精神と身体をつなげるものだとも言える。

これらは、心と体の間にあるということから、いずれも中間に位置づけられることになる。

6 中間から調和へ

心と体の間にあるものをとりあえず中間とは名付けたけれど、どうも落ち着きが悪いと思っていた。

だが、今朝、5分くらいヨガをやっていて、ふと「調和」というキーワードを思いついた。前の日に色々考えてしまってなんだか心が落ち着かないなか、なんとか身体(または世界)とチューニングを合わせようとしていることに気づいたのだ。つまり、僕が今やっていること(つまりヨガ)って、心と体の調和をとる作業とも言えるのでは、と思ったのだ。

たしかに、前からヨガというのは心と体の間にあるものだとは思っていた。トレーニング的な側面では健全な体につながるし、瞑想的な側面では健全な心につながる。その両側面があるヨガは、僕が人生を生きるうえでちょうどいいとは思っていた。だが更に、ヨガとは心と体の調和をとろうとするという意味で、心と体の間にあるものなのだ。

僕は、「④健全な心」と「⑥健全な体」の間にあるものは「⑤節制」だと思っていた。だけど、それは耽溺しがちな僕への注意喚起のためにあえてリスト化していただけであり、より正確には「調和」なのだろう。

そのように考えると、「①(精神的)成長」と「③(身体的)上達」との中間にある「②天命」も「調和」と言い換えることができように思えてくる。

実は僕は、このリストのなかでも特に重要なものである「①成長」と「②天命」について、不整合さを感じていた。なぜなら、成長の結果、天命・ミッションを変更することがありえるからだ。成長のなかには変化が含意されているから、成長することで従来のミッションを見直すことがありうるのでなければならない。一方で、天命・ミッションという言葉のなかには、ちょっとやそっとのことではそれを投げ出し、変更を加えてはならない、ということが含まれていなければならない。成長と天命を尊重しようとすると矛盾が生じる。

それならば、成長を単なる変化ではないものとして捉え、天命を単なる墨守ではないものとして捉えることが、この問題の解決の道であるに違いない。

そこで登場するのが「調和」という言葉である。天命とは、単なる墨守ではなく、また単なる変化でもない。その両者の調和を図るようなものであるべきなのだ。天命とは、変化という意味が強い成長と、墨守という意味が強い上達との間にあり、その両者を調和させつつ生きていくという姿勢を指す言葉なのだ。(ビジョナリー・カンパニー2も、企業が従来の方針を墨守することを推奨しているのではなく、変化のなかで自分自身を見失わないことの重要性を強調しているようにも思う。)

また、「⑦こだわり」と「⑨身体的欲求」の中間にあるとされる「⑧記録」も「調和」 と関係が深い。こだわりや身体的欲求は相互に対立することがある。家族のために家事をするというこだわりと睡眠欲という身体的欲求とは対立するし、家族と趣味のどちらを優先するかというかたちでこだわり内部でも対立はあるし、(「ごはんにします?それとも、わ・た・し?」というかたちで)食欲と性欲も対立する。

これらの整合をとるためには、考え、優先順位をつけなければならない。そのときに活躍するのが思考であり、思考を精緻に行うためには書き留めて記録することが役立つ。このように調和と記録は深く結びつくことになる。

ここまで、中間にあたる、天命・節制・記録は、いずれも調和と関係が深いと論じてきた。多分、いずれの中間も、より正確には「調和」という言葉に置き換えられるべきなのだろう。ただ、僕自身の人生訓がより実践的なものとなるように、調和のうちの、天命・節制・記録という側面を強調しているに過ぎないのだろう。

なお、調和というと予定調和のような、出来レース的なものをイメージするかもしれないが、僕は、調和という言葉のなかに、調和せず対立したままである、ということも含まれていると考えている。天命とはなにかひとつのことを定めるだけが天命ではなく、天命を求めて試行錯誤すること自体が天命でありうるし、節制とは、節制できないことをなんとか節制するという意味が込められている。記録についても、考えがまとまらなかったということ自体を記録する結果になるかもしれない。そう考えると、調和よりは止揚と言ったほうがいいのかもしれない。変化と墨守の対立を止揚し、変化でもなく墨守でもない別の道筋を見出そうとする営みを「調和」と呼んでいたということである。

(なお、この止揚に対する更なる止揚もありうる。例えば、「変化としての成長」と「墨守としての上達」の対立を止揚することで調和を図ったとする。この場合、その調和に対しては、成長とは単なる変化ではなく、上達とは単なる墨守ではない、という反論がありうる。そのような反論を調整すべく更なる止揚が導入されることがありうる。)

7 再び時間論へ

ここまでの議論を通じて、僕は、次のような人生の指針を定めたことになる。

【未来】心:①成長、調和:②天命、体:③上達

【現在】心:④健全な心、調和:⑤節制、体:⑥健全な体

【過去】心:⑦こだわり、調和:⑧記録、体:⑨身体的欲求

このうち、身体の領域に割り振った「③上達」、「⑥健全な体」、「⑨身体的欲求」は動物的でプリミティブな人生を描写しているように思う。身体的欲求に従い、健全な体をもって、上達を目指す生き方というものを想像すれば、僕が言わんとすることが伝わるのではないだろうか。

一方で、心の領域に割り振った「①成長」、「④健全な心」、「⑦こだわり」に従った人生とは、とても思索的なものだろう。僕は瞑想する仙人のような人を思い浮かべる。これまでの人生でこだわってきたものを吟味し、心を研ぎ澄まし、心の成長を目指す生き方というのは、どこか浮世離れしている。

その両者の調和を目指し、試行錯誤しながら、その過程を記録し、道を踏み外さないように節制し、人生におけるミッション・天命を見出してなんとか生き抜いていくという姿は、とても実務的であり、ある意味人間的である。動物と仙人との間にある人間的な生き方という感じがする。

僕が動物的としたような身体的な側面を重視した生き方は、未来・現在・過去はひとつながりのものであるという時間観とつながっているように思う。世界は因果的で決定論的であり、獲物を食べれば腹が膨れるし、筋トレすれば筋肉がつくという時間観である。

一方で、僕が仙人的としたような精神的な側面を重視した生き方は、未来・現在・過去はそれぞれ別個の時点であるという時間観とつながっているように思う。時点と時点との間には自由意志が介在する余地があり、自由意志に基づき、人は決断し、変化をもたらすことができるという時間観である。

僕たちは、その中間で、因果論的で決定論的だけど、自由意志があることを当然とする、矛盾しているけれど常識的な世界のなかで試行錯誤しながらなんとか生きている。それが、仙人ではなく動物でもない僕たち人間の時間観なのではないだろうか。

僕が3×3のマトリクスのような人生の指針を定めたのは、その背景に、こんな時間観があるからなのかもしれない。

なお、この考察は、心と体の間の接触地点に人間の生き方を見出したところから、更に私と世界との間の接点に身体を見出す方向に議論を進めることもできると思う。だが、それは別の機会としたい。