少し前に感じていたこと

これは、日付が書いてありますね

ファイルを整理していたら、こんな文章を見つけた。
平成24年10月14日の日記だ。
僕は日記を書く習慣はないから、このとき、このことを書いておきたかったのだろう。
読むと、そのときの焦燥感のような、追い込まれたような気分を思い出す。
その後、僕は病気を経て、モードが切り替わり、あまり、このような気持ちにはならなくなった。
そうなってみると、このときの気持ちがかけがえないような気がしてくる。
だから、個人情報をなくしてアップしておく。

平成28年8月20日

・・・
午前中、娘が行っていた小学校での地域の祭りでの中学生で吹奏楽部に入っている娘の演奏を聴き、焼きそばなどを食べ、床屋に行ったあとで、要らない人形を明治神宮に持っていき、納める。その後、代々木公園を散歩し、渋谷のブックオフでマンガを買って帰る。盛りだくさんだった。
代々木公園の噴水の近くで佇む。民族楽器のリズムと、ビニールシートの上に座っている人の歓声。よくわからない、缶けりみたいな独自なスポーツに興じる集団。空は曇っていて、さっきまでは雨が降っていた。歩いている人々。あとでシャボン玉おじさんと判明するシャボン玉。
カート・ヴォネガットの小説を読みながら電車に乗っていたせいか、色々と考える。

この公園の人の群れは、サル山のサルや、僕の引き出しの中で飼っているアリと何が違うのだろう。
このサル山のサルの知性が存続して欲しい、という僕の願いは正当ではないのではないだろうか。というか、これが知性なのだろうか。このサルたちの何を僕は大切だと思っているのだろうか。

時間が経てば、このメランコリックな気持ちは消えるだろう。
だけど、このメランコリックな気持ちが一旦、生じたということは、僕の哲学に大きな影響があるのではないだろうか。
僕は、少なくとも、ある一瞬、人間が、知性が、営みが、どうでもいいものだと思った。少なくとも、何が大切なのか、よくわからなくなった。
もう少し、なにか、本当に大切なものには、何か、本当に大切なものがあるのではないかと思った。
この僕に、人間が、知性が、営みを守るような哲学ができるのだろうか。

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