千葉雅也さんの「勉強の哲学」に出てきたので、ピエール・バイヤールさんの「読んでいない本について堂々と語る方法」という本を読んだ。

ざっくり言うと、こんな本だ。
読書とは、読者がめいめいに自分なりの解釈をするというかたちにならざるを得ない。理想的な読書などありえない。
なぜなら、理想的な読書とは書き手と読み手が完全に一致するということだからだ。書き手自身ですら、描いたときから忘却は始まり、書き手自身から遠ざかってしまう。それなのに他者である読み手が理想的に本を読むなんてことはありえない。だから本を読むということに囚われてはいけない。
本の読み手の中には、それぞれの<内なる書物>を収蔵した<内なる図書館>がある。読書とは、この<内なる図書館>を豊かにするためにあるのだ。

という感じ。かなり僕の解釈でまとめている。だけど、それでいい、とこの本は言っているのだ。そして、この僕の紹介を読んだあなたは、それだけで、この本の読者であり、そして、この本について語る資格すらあるとすら言っている。なんらかのかたちで本と出会い、その出会いが少しでも自分の<内なる図書館>を豊かにしたならば、それが電車の中吊り広告でタイトルを見ただけであっても、それは読書なのだ。

<流>◯

このことを僕は、もっと一般的な対話の場面に引き寄せて理解した。

対話においては話し手と聞き手がいる。そして聞き手は話し手が話すことを理解するよう努めることが当然とされている。それならば理想的な対話とは、話し手が話したことを聞き手が完全に理解することだと言ってもいいだろう。

しかし、この本を拡大解釈するなら、そうではない。
聞き手にとっての対話とは、自分自身の<内なる図書館>を豊かにするためにある。話し手の発言を一言も漏らさず聞く必要などない。発言のなかに一言でも自分自身に滲みるような言葉を見つければ、それが、対話が聞き手の<内なる図書館>を豊かにするということだ。
いや、そうですらない。話し手の言葉は触媒に過ぎないと言ってもいいだろう。
話し手の言葉がBGMのように流れるなか、話し手の言葉と直接は全く関係がないことを思いつき、それが自分自身の<内なる図書館>を豊かにしたならば、それは、その対話の場が、その聞き手にとって意味あるものだったということだ。

対話において他者を理解する必要はない。他者など気にせず、内なる自分自身だけを気にしていればいい。そんな側面が確かに対話にはある。