今日で発生1年ということで、津久井やまゆり園事件について書き残しておく。

マスコミが植松聖氏の「障害者を殺してはなぜいけないのか。」という問いを安易に取り上げるのは危険だ。
マスコミは1年を機に色々な切り口でこの事件を取り上げるなかで、このような困難な問いが突き付けられた、というセンセーショナルな報道もしている。当然番組では、一方で、現に一生懸命生きている障害者や、その家族の真摯な心情を伝えることで、そこに一つの答えを提示している。
だけど、植松氏自身や、植松氏に影響を受けそうな人には、このような情に訴えるような答えは、多分届かない。彼らは、もっと論理的な答えを欲している。僕は物事を突き詰めて考えるほうで、どこか彼らに似ているからよくわかる。
今の状況は、答えがない問いだけが安易にばら撒かれ、余計な疑念だけを掘り起こしているように思える。

これまで、「障害者を殺してはなぜいけないのか。」という問いに対して、論理的に、万人が容易に受け入れられるような答えが提示されたことはないと思う。
この問いは、昔話題になった「人を殺してはなぜいけないのか。」という問いの劣化版だ。このような問いは、いわゆる哲学上の難問だ。簡単に答えは出ない。
僕が人を殺さないのは、それが論理的に正しいからではなく、その問いが発せられるその前に、なぜか人を殺したくないからだ。その「なぜか」がない人を説得できる言葉を僕は持っていない。
このような危険な問いには不用意に近づかないほうがいい。

それならば、このような問いにいったん捕らわれてしまった人に対して人は無力なのか、というと、そんなことはない。
人は、人の問いに付き合うことができる。
彼が、「殺してはなぜいけないのか。」と問うてくれたなら、その問いに寄り添い、一緒に考えることができる。それが対話の力だ。対話の力が発揮され、対話が続く限り、彼が人を殺すことはない。
うまくいけば、万人には受け要られれなくても、彼と僕だけは受け入れられる答えを見つけることができるかもしれない。
対話は決定的な誤りを先送りにし、そして正解を見つける助けにすらなる。
対話を続けるということ、それだけが、「殺してはなぜいけないのか。」という問いに対する答えなのではないだろうか。

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