ポリアモリーってやっぱり難しい

ポリアモリーってやっぱり難しい

何かの拍子でポリアモリーという言葉を知り、気になっていた。
僕にはポリアモリーな面があるのではないかという気がしていた。
ポリアモリーの反対はモノアモリーと言うらしいが、一夫一妻というキリスト教的な道徳を押し付けられるのは理不尽で窮屈だ。ポリアモリーはそんな締め付けからの自由が感じられる。
最近、LGBTの話もメジャーになってきているし、ポリアモリーも、その一環ではないか。性的嗜好の自由であり、更に既存の価値観からの自由でもある。そう思っていた。

(ここからは、ポリアモリーを「ポリ」。モノアモリーを「モノ」。と略します。)

だけど、また、何かの拍子でポリというものについて、少し深く考えてみると、どうも、それだけの話ではないようにも思えてきた。

僕にポリ的な面があるように思えるのは、多分、男で、結婚から何年も経っているという点が大きいだろう。はっきり言って浮気がしたいのだ。これをポリと言えるなら、多分、世の既婚男性のかなりの割合がポリだろう。
しかし、僕がここでポリが問題だと思ったのは、「自称ポリの人が複数の人に抱いているのは、恋愛感情ではなく、実は、性欲や好奇心なのではないか。」ということではない。
仮に、恋愛感情だとしても、そこに問題があるのではないだろうか。ということだ。

恋愛とは、二人の相互関係だ。だから恋愛の理想的な状況とはお互いが相手を同じように好きでいることだろう。これは、モノでもポリでも変わらないはずだ。
僕が奥さんを100%好きなら、奥さんにも僕を100%好きでいてほしい。もし僕が奥さんを50%好きで、愛人を50%好きなら、奥さんも僕のことを50%好きで、あとの50%は愛人を好きでもかまわない。これがポリだ。
ということになるはずだ。しかし、そうではない。これはモノ視点でポリを捉えているのだろう。
多分、ポリなら、こう言うのではないか。「僕は奥さんを100%好きだし、愛人のことも100%好きだよ。と。
好きに、50%や99%なんて、ありえない。好きか好きでないか、1か0しかない。」と。

この視点の違いは、多分、「好き」をどのように捉えるのか、という違いなのだろう。

恋愛とは、自分の色々を相手に費やすものだ。恋愛の始まりなら、相手のことを何日も思い続けたり、恋愛がうまくいってからは、デートに休日を費やしたり、高いプレゼントをしたり、結婚してからは相手のためにご飯を作ったり、稼いだお金を家に入れたり。恋愛とは、気持ちや、時間や、金や、体力や、そういったものを相手のために費やすものだ。そして、ついには、結婚して時間が経つと、趣味が似てきたり、仕草が似てきたり、考え方が相手に似てきたりして、自分の人格さえも、その一部を相手に捧げることになる。
これをモノ的視点としよう。この視点によれば、恋愛感情を数値化することは論理的には可能となる。どれだけの気持ち、時間、金、体力、人格を相手に費やしたか計測し、比較すれば、理屈上は、「僕は80ポイント好きだけど、君は75ポイントしか好きじゃないね。」なんてことが言えることになる。実際にはそんな精緻な数値化はできないけれど、可能な道筋は開いている。そして、薄々、この恋愛は対等じゃないな、なんて察することとなる。
だから、モノ的視点に立つならば、モノアモリーつまり一夫一妻を目指すことになる。愛人がいるのがバレれば、相思相愛でないことが数字の上でバレてしまう。奥さんからすれば、愛人にかけたお金や時間は、自分に対する「好き」の減点を意味する。だから浮気はよくない。また、一夫一妻を尊い特別なものとすることで、結婚により、お互いが相手を100%好きだと擬制することもできる。多分、結婚式の誓いの言葉はそういう意味なのだろう。

一方で、恋愛について、一瞬の「好き」の気持ちで捉えることもできる。
例え一夜限りの関係だと知っていたとしても、その瞬間の相手を求める気持ちは「好き」だ。前後の文脈など関係なく、いや、その文脈がないからこそ、より純粋に好きだと言うことすらできる。
その浮気が終わり、家に帰ってきて、奥さんに対して「好きだ」と言う言葉も嘘ではない。実際に好きなのだろうし、浮気相手とは違う良さを再確認して、より好きになっているかもしれない。
どちらも好きで、比べることなどできない。これを比べるのは、ケーキとステーキのどっちが好きか、とか、仮面ライダーとプリキュアのどっちが強いか、と聞くようなものだ。そもそも全く場面が違う。時と場合によりけり、と答えることしかできない。
これがポリ的視点なのだろう。
その瞬間には、好きか、好きでないかしかない。1か0しかない。そして、ある瞬間とある瞬間の気持ちを比較することに意味なんて無い。だから瞬間ごとに違う人を好きでいることすら論理的に全く問題ない。愛人のことを100%好きだった人が翌日に奥さんのことを100%好きでいることは全くおかしいことではない。その二つの気持ちを比べることに意味なんて無いのだ。

恋愛を全体的に客観的に捉えようとするモノ的視点と、恋愛を瞬間的に主観的に捉えようとするポリ的視点という違いが、ポリアモリー問題の根源にあるのではないか。
この恋愛観の違いを明らかにしたという点で、ポリアモリーという言葉が広く知られるようになった意味があると思う。
しかし、ポリアモリーとは、単なる恋愛観の違いの話ではないし、ましてやLGBTのような性的嗜好の違いではなかった。
これは、人生というものを、どのように捉え、どのように生きているか、という人生観の違いなのだ。人生を生まれてから死ぬまでのひとつながりの全体として客観的に捉える視点と、人生の瞬間ごとに主観的に捉える視点の違いのことだったのだ。
だから、ポリアモリーとは、人生観の違いという、より大きな問題が、恋愛観の違いという、より小さな問題として現れた時に現れる問題に過ぎない。

僕は、人生にせよ恋愛にせよ、計測可能なものとして客観的に捉えるなんてことはできればしたくない。生きていくうえではそうしなければならないことも多いし、多分、人間というものは、そうせざるを得ないものなのだろう。けれど、それに飲み込まれきってしまうことなく、瞬間の主観的な輝きを大事にしたい。僕は人生も恋愛もポリ的でいたい。

・・・

これが大きな結論なのだけど、残念ながら、続きがある。
ポリ的な人生観、恋愛観はいいけれど、とても現実的な話として、ポリ的な恋愛、つまり複数のパートナーを持つことは、本質的になかなかうまくいかないはずなのだ。

人間には、自分のことばかり気にして、相手のことを気にしないという本性がある。部下のヒアリングの際に、部下に同程度話せたと思われるためには、自分の話は2割に留め、相手に8割話させる気持ちでいなくてはならないという話もある。恋愛においても、自分の気持ちはよくわかっていても、相手の気持はなかなか把握しきれない。わかっていると思っていても見落としがある。だから自分が相手に費やしている時間や気持ちよりも、相手が自分に費やしている時間や気持ちを低く見積もる傾向にある。よって、恋愛は、人間の本性からして、自分と相手が対等に「好き」だ、とはなり得ない。対等で理想的な恋愛なんて絵に描いた餅でしかない。

いや、ポリ的な恋愛観によれば一瞬は理想的な恋愛に到達できる。ある瞬間、自分が相手を好きだと確信し、そして相手が自分を好きだと確信する瞬間はある。その瞬間、恋愛は理想的なものとなる。
しかし、それを継続しようとすれば、それはモノ的な視点に転落し、比較の話にならざるをえない。
そうすると、自分より相手を低く見積もろうとする人間の本性が頭を出すことになる。

これを、むりやり力技で理想的な恋愛として擬制するのが、一夫一妻であり、結婚だ。だからモノアモリーは主流なのだ。
その流れに逆らい、この大技を使えないポリ的な恋愛をうまくいかせるためには、色々な小技で代替せざるを得ない。その技の一つが、相互理解により、できるだけ、自分と相手との認識ギャップを埋める努力だろう。そういうことができてこそ、複数パートナーを維持することができる。うまくポリアモリーであるためには、人一倍、相手に対して労力をかけなければならない。
また、もう一つ、自分と相手の比較すらしないという道もある。相手の気持ちなんて関係なく、ただ自分の「好き」だけを大事にするという生き方だ。相思相愛という理想的な恋愛のかたちをあきらめると言ってもいいかもしれない。これが究極のポリ的視点なのだろう。僕にはなかなか難しいけど。
ポリアモリーというのは、魅力的だけど、現実問題として、なかなか茨の道だなあ、と思うのだ。

PDF:ポリアモリー

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