これは多分2013年くらいじゃないかな。
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「もしドラえもんがいたら。」
これは、もし悪魔と取引ができたら、とか、もし魔法の精が入ったランプを見つけたら、というような状況に比べ、はるかに困難な状況である。
悪魔との取引ならば、要は、魂という犠牲を払ってまで何を手に入れたいかを考えればよい。魂より大切なものがあれば取引をして手に入れればよいし、なければ取引をしなければよい。それだけの問題だ。
また、魔法のランプの場合は、回数制限があるので、自分にとっての願い事の優先順位をしっかり見極め、そのとおりにお願いをすればよい。それだけの問題だ。
そこには、一時的な欲望を律し、理性的な思考が出来るか、という問題はあるものの、本質的にはそれほど困難ではない。
それに比べ、もしドラえもんがいたら、というのは、はるかに困難な状況である。
これは、要は、無限に何でも願いが叶えられたら、ということだ。
厳密には、悪魔やランプの精の能力と、22世紀の科学では、どちらが上か、という問題はあるが、それぞれの物語における描かれ方を踏まえれば、いずれも、ほぼ万能だと考えてよいだろう。
幸運にものび太は頭が良くないので、ドラえもんの能力を活用しきれていないが、もし、活用し切り、無限に何でも願いを叶えてもらったなら、どのような状況に至るだろうか。
人が通常叶えてもらいたいだろう、ありそうな願いを列挙すれば、
不老不死。自己の能力の強化(見た目を良くする、超能力を身につけるなど)。物欲の充足。知識欲の充足。他者からの尊敬、他者のコントロール。世界の改変。過去の改変(過去の失敗の帳消しなど)。強度のある人生(冒険など)。
といったものが挙げられそうだ。
このような願いが全て叶った状況を考えてほしい。
私は、その状況が、トータルリコール(より正確には「百億の昼と千億の夜」のゼン・ゼンシティの住民)のように、自ら、これから見る夢を選び、永遠に夢の世界に入ることを選んだ人と何ら変わりが無いとしか思えない。そこにあるのは、F先生が描く少し不思議な物語ではなく、サイバーパンク的なグロテスクな世界である。
特に、強度のある人生を送りたいという願いは致命的だ。
この願いは、他の全ての願いと相反する。この願いを叶えるためには、他の願いが叶っていてはまずい。なぜなら、うまくいかないからこそ、冒険は楽しいからだ。万能の超能力を持ちつつ悪者と戦ってもつまらないし、相手の気持ちを自由にコントロールしつつ、恋愛ストーリーの主人公になることはできない。
ドラえもんの映画において、毎回、のび太たちが、大冒険を繰り広げるということは、この願いが皆に共有されているということを意味し、毎回、映画でドラえもんの四次元ポケットが故障するということは、この願いが他の願いと相反するということを意味しているのだろう。
そこまで考えたとき、私達はドラえもんに何をお願いするのだろうか。
私ならば、それでも、やはり、ドラえもんに際限の無いお願いを繰り返し、その挙句にサイバーパンク的なグロテスクな状況に足を踏み入れてしまうかもしれない。
自らの欲望をコントロールできる人などいるのだろうか。弱さを持たず、誘惑に耐えられるのは、出来杉君のような特別な人だけだろう。
だから、出来杉君は映画にはあまり登場しないのかもしれない。