これも2015年作かなあ。
あたり前を導いてくれる超自然的な力かあ。相変わらず同じようなことを考えてるんだなあ。
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別な本を借りるついでに、図書館で「ソクラテスの弁明・クリトン」を借りたら、意外と面白かったのでメモしておく。
この本を読むまで、私は、ソクラテスについて、「無知の知」という言葉くらいしか知らなかった。
なんとなく、懐疑主義的な不可知論のようなものかな、というくらいに思っていた。
色々なソフィスト達と対決し、彼らの主張のうちに隠されている前提、ドグマを晒しだし、突き崩す。全ての言葉はソクラテスの無知の知により否定される。ソクラテスが語った後には、ぺんぺん草も生えない。そんな感じの人だと思っていた。
しかし、どうもそうではないようだ。
確かに神の啓示で「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、例えばソクラテスの如く、自分の知恵は、実際何の価値もないものと悟った者である。」(p.24)という言葉もある。
一方で、ソクラテスは、神とか、人間の心の中にある徳、善といったものは無条件に信頼している。そこに正しさがあるとしている。
つまり、ソクラテスが疑っているのは、人間が、人間としての枠を超えて、何かを知っているかのように語るということなのである。
ソクラテスは、自分には、人間的知恵があると言っている。(p.19)だからこそ、超人間的知恵があるという人を厳しく試問するのだ。
あくまで、ソクラテスが問題視しているのは、「賢者」「知恵」という分野なのだ。だから、神の啓示の言葉も、あくまで、人間の範疇を超えた賢者を否定するものなのだろう。人間の範疇での営みを否定するものではない。
例えば、ソクラテスは、詩人には預言者や巫女のような自然的素質と神徠があり、美しいことは語るが、知恵はないとする。(p.22)
これは、詩人の言葉の美しさを否定したものではない。
あくまで、詩人が超人間的知恵があるかのように振る舞うことを、ソクラテスは断罪する。
詩人が、人間として、神から与えられた素質により、現に美しい言葉を紡ぐということは否定しない。
美しいものは美しい、という、あたり前の人間的な事実をソクラテスは否定しない。
また、「不正を行うことと、それが神であれ人であれ、およそ優れた者に従わないことが悪にして恥辱なことを私は知っている。」(p.36)という言葉もある。
常識的な、正・不正、優・劣といった差異まで、ソクラテスは否定していない。
ソクラテスは、国家というものも否定するどころか尊重している。
「われわれ(国家)は、お前を産みおとし、扶養し、教育し~あらゆる良きものを分け与えた」(p.82)という言葉もある。
ソクラテスは、野蛮な異国ではなく、当時最も洗練された都市国家であったアテネで生まれ、そして哲学者として生きることができたことに、根源的な感謝があったのだろう。
(私は、ここに、人間的な国家という組織が個人を存在させ、権利を保護しているという非自然権的な考え方を感じる。これは、現代人が忘れていたあたり前な感覚だと思う。)
ソクラテスは、美しいとされるものはあたり前に美しく、自らが属する共同体をあたり前に尊重し、徳、善、正義を求めることがあたり前である。
人間的な知恵で語れるのはそこまでで、それ以上のことを語るのは、どこかうさんくさい。
という、あたり前な感覚を持った人だったのだ。
その態度は、語り方にもにじみ出ている。人は不正に報いるに不正をもってすべきでなく、人が禍害を加えられたときに、禍害をもってこれに報いることは、正しくない、ということについて、それを当然の前提とせず、クリトンに確認し、同意を得てから論を進めている。(p.77)
つまり、正しさのようなものでさえ、人に当然に備わっているものとはせず、価値観を共有する人との間でだけ、論を進めるという、現実的な奥ゆかしさもあるのだ。
なぜ、ソクラテスは、最後に死を選ばざるを得なくなるほど、過激にソフィスト達と対決しながら、そのようなあたり前な感覚を維持できたのだろうか。
どうして、美しさ、国家、徳、正しさといったものまで勢いにまかせて、不可知として否定しなかったのだろうか。また、逆に、だれもが共有すべき前提としなかったのだろうか。
きっと、そこで登場するのが、超自然的(ダイモニオン)な声なのだろう。
この声があったからこそ、「あたり前」という、理屈からは導くことができない境目で踏みとどまることができたのだろう。
だけど、私にはこの声が聞こえない。だから、ソクラテスのように踏みとどまることができない。
ソクラテスの論法で興味深かったのは、死についてである。
死を恐れるのは、~自ら知らざることを知れりと信ずることなのである。(p.36)という言葉がある。
死について何も知らないのに「死が悪の最大なるものであることを確知しているかのように恐れる」(p.36)のはおかしい、という訳だ。
私もそう思う。しかし、この死についてのソクラテスの論法は、良き市民としてのあたり前な感覚から、少しはみ出しているように思える。
ソクラテスは重装歩兵だったそうだ。本来的に死は恐ろしいものであるからこそ、戦場でそれを乗り越えて戦う勇気が讃えられるのではないだろうか。
そのように考えると、私にとって、ソクラテスは荒削りすぎ、物足りない。
しかし、あたり前な感覚を保ちつつ、「熟考の結果最善と思われる主義以外には内心のどんな声にも従わないことにしている」(p.69)という態度は、どこか理想的で、うらやましい。