平成24年の春から夏にかけて書いた、完全オリジナルの初の長編です。
長編としては2作目ですね。
PDF:watashino
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1-1 はじめに
この文章において、私は、哲学というもの自体について、哲学とは「伝達」されるものである、という側面から捉え考察を行う。
そして、この私が書いている文章自体も含めた世の哲学とされるものが伝達されているということについて検討を行い、「伝達」自体を脅かしうる独我論のような懐疑主義的な考え方と対峙したい。そして、懐疑主義的な考え方をどこまで乗り越えることができ、乗り越えた先には何があるのか、というように検討を進めていきたい。
哲学自体を述べるということ自体が明らかに大風呂敷を広げてしまっているし、また、この文章を書いているということ自体について検討するという自己言及的な議論を進めていくことの困難もあるだろう。しかし、哲学とは「伝達」されるものであるという見地から議論を限定することにより、少なくとも私自身にとっては、何らかの書かれる意義が認められる文章とすることができるのではないかと考えている。

1-2 哲学の捉え方・私の哲学
それでは、まずは『哲学とは「伝達」されるものである』というアイディアを導入するため、哲学というものに対して抱いている私の疑問について語るところから、始めることとしたい。
私が哲学と言われるものに本気で触れるようになってから数年が経ち、自分なりに少しずつ哲学というものを消化しつつあると思っているが、どうしても消化できない疑問がある。
私は、哲学の歴史の大まかな流れを学んだとき、その歴史において、哲学上、Aという主張があり、それを否定するBという主張があるにも関わらず、いずれも淘汰されず、両方の主張が併存してきたということがとても不思議だった。例えば「神はいる。」という主張が一方であり、「神はいない。」という主張が一方であれば、結論はそのいずれかではないのか。あるいは、その両者を乗り越えて新たな問いが設定されるようなかたちで整理されるのではないか。哲学という同じ土俵で議論をしたからには、いずれかに軍配があがり、何らかの当面の決着がつくのではないか。という疑問だ。そして、その疑問は今でも拭えない。多分、私はどこかで、学問を学ぶとは、法学において通説、有力説等々を学ぶのと同じように、現時点での当面の結論と、その結論に至った議論の経緯を学ぶことだというイメージを刷り込まれてしまっているのだろう。
しかし今では、私にだって、実際はそうではないことはわかっている。もし、哲学に詳しい人に向かって今述べたようなことを言えば、何を勝手に思い込みで決め付けているのだ、哲学に対する大きな誤解だ、などと言われるだろうこともわかっている。哲学の大問題は、少なくとも簡単には答えは出ない。というか哲学者の数だけ答えがあると言った方がいいのかもしれない。そして、大事なことだが、哲学者にとっては、自らの営みが哲学と呼ばれるかどうかなど、どうでもよいのだろう。ただ、ひたすら自らの心がおもむくままに探求したものが、たまたま哲学と呼ばれているということなのだろう。(そういう意味では哲学者は、科学者よりも芸術家に似ているのかもしれない。)だから、そもそも哲学かどうかなど、どうでもいい問題なのだ。
それでもいいのかもしれない。というか、本来、そうあるべきなのかもしれない。そのような自由な営みである哲学というものを定義したりルールを設けたりして、何かを決め付けてしまうということは、哲学の力に何か制限を加えることになってしまうようにも思われる。
このように、私はわかってはいるが、戸惑い続けている。哲学は、私がこれまで触れてきた学問とは全くスタンスが違っている。私には、どうしても、哲学というのは何も体系付けられておらず、要は言いたい放題なのではないか、という戸惑いを捨て去ることができない。
それでは、哲学が哲学者ごとに異なる哲学として併存し、いわば言いたい放題とでも言えるような状況にあるのは何故なのだろう。
その理由は、簡単に言えば、哲学が語られる以前の、哲学者ごとに持っている思考の枠組みや方向性、問題意識のようなものが、哲学者ごとに全く異なるからではないかと思われる。
ここで、思考の枠組みや方向性と述べたものが何なのかを明確に示すことは避けることにする。なぜなら、「哲学により哲学以前のものについて定義する。」という、この文章で述べようとしていることとは別の哲学的な問題に入り込んでしまうからだ。
そこで、この文章では思考の枠組みや方向性と述べたものを、あいまいなかたちで、幅広く「哲学の捉え方」と名付けることにする。つまり、哲学者の間で「哲学の捉え方」が異なるから、同じ土俵での議論にならず、異なる哲学が併存しているということなのか、ということだ。
私は、この「哲学の捉え方」ということの意識が、これまでの哲学においては希薄だったように思える。よって、「哲学の捉え方」を意識するところから検討を始めることとしたい。
念のため言っておきたいが、私も、この「哲学の捉え方」というアイディアが哲学というもの自体の意味合いを変える、というような誇大妄想は抱いていない。なぜなら、「哲学の捉え方」を意識するということは、要は、哲学者ごとに異なる哲学が併存するということを認めるという結論を導くものであるが、普通の哲学者であれば、既に、異なる哲学が併存している状況を認めているからだ。つまり、私が「哲学の捉え方」を意識してたどりつくところに、普通であれば既にたどりついている。よって、「哲学の捉え方」を意識するかどうかは、他の哲学者が至った哲学の到達点に何も影響しない。
このことは、別の言い方として、私が「哲学の捉え方」に問題意識を持つということは、どこに問題意識を持つかという、哲学者ごとに異なるバリエーションの一つに過ぎない、とも言える。私はたまたま「哲学の捉え方」に問題意識を持つという「哲学の捉え方」をしたということだ。
つまり、「哲学の捉え方」に問題意識を持つということは、いわゆる哲学にとっては決して重要なことではないが、私にとっての哲学には重要なことなのだ。
このように「哲学の捉え方」に問題意識を持つという哲学の捉え方をすることを、私にとっての哲学の出発点としたい。そして、私にとっては、ここから書き始める哲学的な文章は、私の「哲学の捉え方」に基づいているという意味で、他のどの哲学とも違う、特別な哲学であるのだから、この哲学を「私の哲学」とカッコで括って用いることとしたい。
よって、これからは一般的な哲学における「哲学の捉え方」ではなく、「私の哲学」における、「私の哲学」の捉え方について述べていくことになる。