「私の哲学」 ~私が哲学的な文章を書き、あなたに伝達していることについて語る~ 3 作者、読者、哲学書

3-1 伝達の3つの側面
以上を踏まえ、これから哲学の「伝達」について考察を進めることとするが、「伝達」をそのまま論じるのではなく、「伝達」を「発信者、受信者、(伝達される)対象」の3つの側面に分けて論じることにする。本をイメージして言い換えるならば、「作者、読者、哲学書」の3つと言ってもよいだろう。つまりは、哲学が伝達されるのであれば、作者がいて、読者がいて、哲学書があるはずだ、ということだ。(なお、今後の議論においては、何かをイメージしたほうがわかりやすいと考え、本を例に出し「作者、読者、哲学書」という用語を用いるが、当然、音声でもいいし、インターネットでもいいし、テレパシーでもいい。)
なぜ、このような捉え方をするかと言えば、先ほど述べたような形式的な視点による。つまり、「伝達」を「作者、読者、哲学書」の側面から捉えるということは、誰でも外から観察できる形式的な視点だということだ。つまり、哲学が伝達されているように思われるならば、作者がいて、読者がいて、哲学書があると思われることは誰でも外から観察可能で明確なことであり、例外がないということだ。
ただ、注意して頂きたいが、私は、決して、「伝達」というものが「作者、読者、哲学書」の3つの側面から捉えられるべきだと断定しているという訳ではない。この3つの側面から論ずるということは私が現段階で思いついているアイディアであり、恣意的と言ってもいい。よって、この文章ではこの3つの側面をベースに議論を進めるが、もしかしたら、今後、実は「作者、読者」の2つの側面だけから論じることもできる、というような更に整理された見解にたどり着く可能性もある。
現段階で「伝達」を「作者、読者、哲学書」の3つの側面に分けたことの力点は、少なくとも「伝達」には、この3つの側面以外は含まれない、ということにある。これはどういう意味かというと、今後、おいおい「時間、空間」等といったものも導入していくことになるが、これは、あくまで「伝達」を「作者、読者、哲学書」と捉えることを経由して、透かし見るようにして「時間、空間」等が導かれるものであり、直接、「伝達」から「作者、読者、哲学書」を経由せずに「時間、空間」等が導かれるということではないということだ。

3-2 側面1 作者
「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」のうち、まず、「作者」について述べることにする。
実は、「作者、読者、哲学書」の3つのうちで、私が(少なくともこの文章のなかで)一番軽視しているのは「作者」だ。だから「作者とは何か」というのは、ここで中心となるテーマではないので簡単に述べることにするが、ひとつだけ留意点を述べる。この文章において、「作者」という用語は、ほぼ「私」という意味で用いるということだ。
何故、そのようになるかと言えば、私には「私」以外の者が哲学書の作者であるということが想定できないからだ。
この見解については、私以外の誰か、例えばデカルトが作者である場合もあるではないか、という反論もあるだろう。そのとおりだ。しかし、私が作者である状況と、デカルトが作者である状況では全く異なる。当たり前だが、私が作者の場合、私が作者の立場にいるが、一方で、デカルトが作者の場合、私は作者の立場にはなく読者の立場にあることになる。
そこで、私が読者の立場でデカルトの哲学書を読んでいる状況を想像してみる。デカルトの哲学書に、「我思う故に我あり」という文章があり、それを読んだとする。
この文章における「我」とは一見するとデカルトのように読めるが、この文章を私は「デカルト思う故にデカルトあり」とは読まないだろう。デカルトが存在するかどうかなど、私が存在するかどうかに比べればどうでもいい問題だ。読み方はあくまで「私思う故に私あり」であり、実は、この「我」とは私のことなのだ。
一つだけ例を挙げたが、このように、哲学書における「我」「私」とは、一見、デカルトのような有名な哲学者のようであるが、よく考えれば、その作者とは自分自身ということにならざるをえない。つまり、読者としての私が哲学書の作者としてのデカルトを深く考えようとすると、「私がデカルトだったら・・・」というように、私が作者である状況を想定し、作者に私を投影せざるを得ない。
この、作者というものを深く考えようとすると、そこに「私」を投影せざるを得ないということを「作者性」と呼びたい。
そして、この作者性については、読者である「あなた」にも適用され、あなたが作者というものについて考えようとした場合は、あなたは「作者」にあなた自身を投影し、「作者」=「あなた」と想定せざるを得ない、ということになるだろう。私が書いているこの文章でさえ、この文章の作者のことを考えた途端、作者は私ではなく「あなた」にならざるを得ないということだ。哲学と「あなた」との関係については、次に述べる「読者性」とも関係が深いと思われるので、そこで更に述べることとしたい。
(また、この問題意識については、永井均の独在論に全面的に影響を受けていると思われるので、詳細はそちらに譲ることとしたい。)

3-3 側面2 読者
次に「読者」について述べる。
読者について留意すべきことは、読者とは誰でもよいものではないということだ。読者は、作者と、世界観、文章の読解力、疑問といったものを共有している必要がある。簡単に言うと、読者とは、きちんと哲学書を読んでくれる読者である必要がある。
よって、世界観を共有するといっても、ビッグバン宇宙論を信じるとか、共産主義の正当性を信じるとかといった話ではない。例えば、哲学的な主張をするうえで、例示として、「白い犬がいるとする。・・・」というように、ある世界観を前提にした事例が示されたとする。そうした場合に、その事例が理解できるように、作者と読者では「白い犬がいる」ということを想像できるような世界観を共有していることが前提になるということだ。
文章の読解力についても同じようなことで、「白い犬がいるとする。・・・」と書かれていれば、読者は、ああ、あのことか、と文章として理解できるということだ。
疑問についても同様に、「白い犬がいるとする。・・・」の先に「白い犬は本当に犬なのだろうか、猫の見間違いということはないのだろうか。」と問われれば、読者は作者と同じように立ち止まって疑問を感じることができるということだ。
まとめて言い換えれば、「読者は、作者にとって望ましい読者としての能力、傾向を持っている。」ことが必要である、とも言えよう。これを「読者性」と呼ぶことにする。
もし、読者に、このような読者性が欠けていた場合、読者はきちんと哲学書を読んでくれないこととなり、つまりは「伝達」が正しく行われないこととなる。これでは読者とは言えないだろう。読者には読者性が不可欠であり、「伝達」のためには読者の「読者性」は必須である。
「読者性」という概念を導入したことで念のため強調しておきたいが、「読者」を「あなた」と自動的に読み替えてはならない。もし、あなたが作者と、世界観、文章の読解力、疑問といったものを共有しているのでなければ、あなたは、ここで言う「読者」ではない。もし、あなたが、「私がこの文章を読んだところ、作者の世界観は理解できない。」というような論拠を用いて哲学を否定するのであれば、否定されるのは、その哲学ではなく、あなたの「読者性」なのだ。
これが、哲学が何故言いたい放題なのかということに対する答えなのではないかと思う。冒頭に述べた、なぜ神はいるという主張と、神がいないという主張が哲学において長年併存してきたのか、という哲学に対する疑問の答えなのではないかと思う。つまり、作者である哲学者は、読者性を欠き、読者として適当でない者からの反論は無視するため、哲学者同士の議論がかみあわず、論点は棚上げになるということだ。これが哲学の長所なのか、短所なのかはわからないが、ただ、こういうものなのだと思う。

3-4 側面3 哲学書
最後に「哲学書」について述べる。
「哲学書」とは、先ほど述べたとおり、講義で話される音声や、インターネット上のファイルなども含み、特にその表現形式は問わない。よって、「哲学書」とはいわゆる「言語」にとても近い意味合いで用いているとも言える。あえて言えば、概念としての「言語」ではなく、あくまで本、音声といった実際に用いられた「言語」と言えばよいのだろうか。(なお、後ほど、思考自体も実体のあるものとして「哲学書」と呼ぶことになるので、「実際に用いられる」とは、思考されることも含めた幅広い意味で用いられているということにご留意いただきたい。)「哲学書」について、そのような意味での「言語」と考えても、少なくとも、この文章では大きな問題は生じない。
しかし、先ほど、「伝達」から「発信者、受信者、対象」以外の「時間、空間、言語」等が直接導入されるということではないと述べたとおり、いきなり「言語」という概念を導入することには飛躍がある。
ただし、その飛躍は全く理由のないものではない。そのことを説明するために、ルール違反とはなるが、逆に、現段階では導入する必要がない「言語」というものについて述べるところから始めてみたい。
私の「言語」観は、全面的に(野矢茂樹が解説する)ウィトゲンシュタインの影響を受けている。
そして、私は、野矢が述べていることを超えているかもしれないが、結論としては、ウィトゲンシュタインのいう「以下同様の規則」が「言語」つまり「哲学書」を構成していると考えている。
ここで、その意味について簡単に説明したい。
ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」において、言語を組み合わせることで、可能な事実の総体である「論理空間」が成立する、とした。その「論理空間」は、反復して同様の操作を行うことができるという意味での「以下同様の規則」により秩序付けられている。例えば、一旦、「2を足していく」ということを学べば、以下同様に「2を足していく」ことができるという「以下同様の規則」が働き、この規則により「2を足していく」ことが可能となる、ということだ。そして、この「以下同様の規則」は、日本語の文法等のあらゆる規則の成立に関わっているとされる。
私は、この「以下同様の規則」の力が最も単純な形で出てくるのが、「A=A」という同一律ではないかと思う。この数式の意味は、当然ながら、左辺と右辺に2回Aが出てくるが、これらは同じものだという意味だ。この数式は、2つのAを同じものだとみなす、という「以下同様の規則」の力がなければ成立しない。1回目のAは、言語として「A」で表現され、2回目のAも、「同様に」言語として「A」で表現されるからこそ、「A=A」となる。この「同様に」がなければ、1回目のAは「1回目のA」、2回目のAは「2回目のA」であり、等号で結ばれることはありえない。この、同じ名前で名指ししたものを同じものだと見なすという「同一律」を成立させるということが、私が注目したい「以下同様の規則」の力だ。
私は、この同一律により、言語は初めて、組み合わせるという操作が可能となると考えている。例えば、「本が机の上にある。」と「本が机の下にある。」という文があったとして、両方の文の「本」「机」が同一律により同じものを指すからこそ、「本が机の上にある。」と「本が机の下にある。」の両方の組み合わせが可能である、というような言い方ができるということだ。もし、「本」「机」に同一律が働かず別のものであれば、ただ単に「本が机の上にある。」であり、また、それとは全く別に、ただ単に「本が机の下にある。」である。そこに分節化して組み合わせるという操作が成立する余地はない。
このようにして、「以下同様の規則」が「論理空間」を成立させ、「言語」を成立させるのだと、私は考えている。これが、野矢の述べ方とは異なるが、野矢が解説するウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」から私が読み取った、「言語」と「以下同様の規則」の意味である。このようにして、私は「以下同様の規則」の力が「言語」を構成していると考えている。
以上、「言語」つまり「以下同様の規則」について簡単に述べたが、この「以下同様の規則」が先ほどの「読者性」の話、つまり読者とは作者のとって望ましい読者に限定されるという話とつながってくる。
先ほど「読者性」について、読者が、作者と、世界観、文章の読解力、疑問を共有し、作者にとって望ましい読者としての能力、傾向を持っているということだと述べた。これを「以下同様の規則」という概念を用いて言い換えるならば、「読者性」を有する読者、つまり作者にとって望ましい読者とは、作者がAと表現したものを、「同様に」Aとして受け取る読者のことだ、というように言い換えることができる。つまりは、読者に「読者性」を認めるということは、読者に「以下同様の規則」の力が及んでいることを認めるということなのである。
そして、先ほど述べたとおり「作者、読者、哲学書」とは、「伝達」の3つの側面であり、独立にあるのではなく互いに深く関わりあっている。つまり、私が「哲学書」と言えば、それは「読者性」を有する読者が読む「哲学書」のことである。それならば、「読者性」が備わっている読者、つまり「以下同様の規則」の力が浸透している読者が読む「哲学書」にも「以下同様の規則」の力が浸透していなければならないということだ。このようにして、「以下同様の規則」の力が浸透した「哲学書」と「以下同様の規則」により構成されているものである「言語」は、とても近い意味合いを帯びることとなる。(この文章では同じものとみなす。)
これが、「哲学書」に「言語」、「以下同様の規則」という視点を導入することの説明である。

3-5 3つに区分することの留意点:形式的であること
ここまで述べたところで、私は「作者、読者、哲学書」以外からは出発しない、としながら、「言語」のルートから「以下同様の規則」の力を勝手に導入している、という批判を受けることを危惧している。
一応は、そのような批判を受けることがないよう「読者」の持つ「読者性」という観点から「以下同様の規則」の力を導いたものであるが、述べたとおり、この「以下同様の規則」の力は「読者」に留まらず「哲学書(対象)」にも浸透しているものであり、「作者、読者、哲学書」の3側面という枠組みに収まりきらない面があることも確かである。
それでは、「以下同様の規則」について「作者、読者、哲学書」の3側面を経ずに、直接「伝達」から説明を行うことはできないのだろうか。
私は、それはできないと考えている。何故なら、私は、この文章を書くにあたっては、極力形式的に捉えていきたい、としたからだ。哲学を「伝達」という側面から形式的に捉え、更に、その「伝達」を「作者、読者、哲学書」という側面から形式的に捉えるところに、この「私の哲学」の意義がある。「伝達」から「以下同様の規則」を直接導入するということは、「伝達」の内容に直接切り込んでいくことになってしまう。
しかし、一方で、ここでの「以下同様の規則」の導入過程を見てきてお分かりのように、「作者、読者、哲学書」の3つの側面は密接不可分であり、単純に、各概念を細分化するようにして、「以下同様の規則」等の他の概念を説明していくものでないのも確かである。
あくまでも、「作者、読者、哲学書」の3側面とは、他の概念を「伝達」から導いていくうえでの舞台装置であり、「伝達」を「発信者、受信者、対象」と捉えることを透かし見るようにして、他の概念(「時間、空間」等)が導かれるというような述べ方をしていかざるを得ないということに留意する必要がある。
ここまでの議論を数式もどきの形で表現すると、「伝達」=「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」=「以下同様の規則+α」 とでもなるだろうか。
このαについては現段階では明らかでないが、可能な限り、この文章で徐々に明らかにしていきたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です