入不二先生の朝日カルチャーセンターで読んでいた本なので色々考えました。
とてもいい本です。

2013年8月31日作成の文章です。

PDF:転校生とブラックジャック 学生Cの意味

永井均の「転校生とブラックジャック」は2001年に出版され、2010年に文庫版も出ている哲学書だ。
 この本は、副題「独在性をめぐるセミナー」が示すとおり、先生Nと学生Aから学生Lまでの13人の学生でのセミナーの記録という体裁になっている。そして、登場人物の間での議論を通して、独在性という直接は語りにくいものの輪郭を徐々に浮かび上がらせていく。では、独在性とは何かというと、語りにくいだけに、まずはこの本を読んで頂くのが一番手っ取り早いのではないかと思う。
 と、本の紹介はこれくらいにして、これからは、この本を既に読み、独在性とは何か、というようなことも、ある程度共通認識を持った方を対象に、文章を書いていく。
 私が登場人物のなかで特に注目したいのは学生Cだ。
 学生Cは、いわゆる物理主義者的な役割を演じている。そして、第4章の学生Eのレポートにも「C君は、〈私〉は存在せず、ただ〈〈私〉〉だけが存在する、と言う。」とされていることからも明らかなように、この本の議論の中心となっている「私」というものについて、永井が問題としている独在的な〈私〉としての側面を受け入れず、人間ならば誰もが持つ自己意識というような意味合いである〈〈私〉〉として理解しようとしている。
 この本の中心的な概念である〈私〉の独在性を受け入れていないことからもわかるように、学生Cは、この本にレポートが掲載されることもない脇役で、独在性を強く主張する学生Eのいわば当て馬だ。
 なぜ、そんな学生Cに注目するのかというと、この本を用いた入不二基義先生の授業で、p.84(以下、ページは単行本による)「まったく同じことは、火星に行ったほうの側から地球に残ったほうを見てもいえる・・・」という学生Cの発言の一節についての説明を受けたからだ。
 と書いても、なんだかわからないので、少し説明すると、この言葉は、第5章にある。第5章は、パーフィットの遠隔輸送の思考実験を通して、遠隔輸送は成功するか、私が地球と火星に分裂したら、どちらが私か、というようなことが議論されている章だ。この思考実験は、3段階に分かれ、まず、普通に遠隔輸送したとして、その遠隔輸送は成功しているのかという第1段階の想定、そして、その遠隔輸送の際に地球にも人が残ってしまうという事件が起こったとしたら、つまり、私が地球と火星に分裂したらどうか、という第2段階の想定がされる。第2段階の想定についての議論のなかで、学生E達の、私が地球と火星に分裂したとして、分裂後の時点から見れば、地球に残ったほうが私だったら、火星に行った方は私ではない(だから、私の遠隔輸送は単にそっくりな他人を生み出すだけで失敗するかもしれない。)という主張に対する反論として発せられるのが、さきほどの学生Cの言葉だ。
 学生Cが言おうとしていることは、こういうことだ、と私は理解している。
 「地球に残った私にとっての過去である分裂前の時点から見れば、地球の私も火星の私もどちらも私だ。そして、そのことは、火星に残った私にとっての過去である分裂前の時点から見れば、地球の私も火星の私もどちらも私だ、とも言える。」
 この後段が、私が説明を受けた「まったく同じことは、火星に行ったほうの側から地球に残ったほうを見てもいえる・・・」の意味ということになる。
 この学生Cの主張を、入不二先生はメタ化と言っていた。
 メタ化という言葉で私が思い出したのがp.26の図だ。
 この図のうち、それぞれの登場人物にとっての世界N、世界B、世界Jは、神の視点である世界0とは一致しない。しかし、p.28、29の図のような視点の移動を通じて、世界0を理解することができる。この視点の移動がメタ化ということになるだろう。
 学生Cのメタ化は、このメタ化と同じものなのではないだろうか。
 いや違うかもしれない。かなり無理して学生Cに寄り添わない限りは、学生Cは、p.26の、それぞれの図の違いがわからない人だと解釈すべきかもしれない。p.26のあたりでは学生Cはほとんど登場しないので明らかではないが、この図の黒丸は、p.25の学生Jと先生の間の「(先生から見れば、という)視点が介入する余地そのものがない」「にゃ、にゃ、にゃーるほど。」というやり取りを経たものであり、つまりは、独在的な〈私〉というものが色濃く投影された黒丸だ。そして、学生Cは、そもそも、〈私〉と〈〈私〉〉の違いがない、という主張なのだから、p.26の図についても、その黒丸の意味を理解できず、そもそも、世界は神の視点である世界0としてのあり方しかしていない、と主張するだろう。
 一方、p.84での学生Cはどうだろうか。学生Cは、火星の私(つまり想像のなかでの学生C)からの視点と、地球の私(つまり想像のなかでの学生C)からの視点を並列する。
そして、それぞれの視点を見渡す視点に立ち、見渡すことができるのだから、両方とも同じだ、と主張する。これがメタ化だ。
 しかし、そこにも、それぞれの視点を見渡す視点という、何らかの視点は残る。それは、このセミナーにおける学生Cの視点だと言ってもいいだろう。
 そして、この視点に対する思考実験を更に行うことが可能だ。例えば、このセミナーにおける学生Cは既に遠隔輸送装置かなにかにより既に分裂を経験しており、学生Cが知らないどこかに学生Cがいるかもしれない、という想定ができる。そこで、学生Eあたりに「それでも、セミナーでの学生Cと、どこかにいるかもしれない分裂した学生Cとが、どちらも私だ、などと言えるのか。」と指摘されたら、学生Cはどのように応答するのだろうか。
 多分、これもメタ化により反論することになるだろう。つまり、「セミナーでの学生Cと、どこかにいるかもしれない分裂した学生Cとを見渡す視点に立てば、どちらも私だ。」という応答だ。
 そして、このメタ化による応答は、どこまでも可能だ。このメタ化を繰り返し、視点というものが意味を持たなくなった先に、学生Cは、p.26の図における神の視点としての世界0を見出すことになるだろう。このような流れを経て、学生Cにとって、世界0のみのシンプルな物理主義的な世界観は維持されたことになる。
 しかし、この学生Cは、以前の素朴に誰もが持つ自己意識として私を解釈していた当て馬としての学生Cではない。いわば、p.26の世界N、世界B、世界Jから、p.28、29の図のような視点移動を経て、世界0を理解するという、先生(や多分学生E)が行ったこととちょうど逆のことを行った、先生(や多分学生E)の鏡像とでも言うべき立場にあることになる。(ただし、独在性へのこだわりだけは維持されていないが。)
 だから学生Cは侮れない。いや、先生や学生Eよりもすごいかもしれない。なぜなら、学生Cは、こんなセミナーに出席しているからだ。(いや、冗談ではなく。)
 このセミナーは「独在性をめぐるセミナー」だ。独在性に全く興味がない学生Cがきちんと出席し、しかも真摯に議論まで行うというということは、現実にはあまりないことだろう。そして、その議論を経て、〈私〉の独在性というものへのこだわりを除いては先生や学生Eの鏡像ともいうべき立場に到達する、ということも、あまりないことだろう。
 そんな、特別な存在である学生Cを描き出すことができたということが、対話形式で書かれたこの本の魅力のひとつなのではないだろうか。
 私は、どちらかというと、学生Eが言うことのほうが共感できる独我論的な人間なので、実は、独在性に問題意識を持たない学生Cのことが、実感としてはあまり理解できない。そんな学生Cが、学生Eの鏡像的な立場に立つということが、あまり想像できない。
 私は、自戒を込めて思う。実は、〈私〉の独在性は、多弁な学生Eの言葉のなかよりも、学生Cによる真摯な議論の遂行のなかにあるのではないだろうか。それが、第7章にある「哲学的議論の要諦」の意味なのではないだろうか。