1 細分化
ということで、前半で、どうして客観性が大事なのかは伝わったと思うので、後半では客観的に人生を捉えるためにどうすればいいのかを述べていきたい。
人生を客観的に捉える手法として、細分化する、というやり方を提示したい。
人生というのはとても大きい問題だ。そして、大きいだけではなく、複雑でもある。そういう問題に対しては、細かく切って捉えやすくして対処するという手法が有効だ。ステーキだって大きいままでは食べられないから、ナイフで細かく切って食べる。
俺は、現に、この細分化という手法を用いて対処してきたが、使い勝手がいいので伝えるに値すると思う。そこで、実際に40代半ばの俺が、どのように人生というものを細分化して捉えているのか、書き出してみることにする。
2 対象の細分化
細分化にあたっては、まず、人生という大きな塊を、検討の対象となる問題ごとに分ける必要がある。
「人生をどのように生きるべきか。」という問いのままでは、そう簡単に答えは出ない。それよりは、例えば、「二人の友人のどちらとの友情を優先すべきか。」と細分化したほうが答えは出そうだ。また、更には、「友情」という漠然とした言葉のままとするよりは、「A君と放課後に遊ぶこととB君に会って借りた教科書を返すことではどちらを優先すべきか。」と細分化した方が更に容易に答えに結びつきそうだ。
ここまで細分化すれば、「A君とは前もって放課後に遊ぶ約束をしていたけど、B君は教科書がないと宿題ができないから、B君と会うほうを選ぼう。A君には謝ろう。」というような答えが容易に出せる。
これが、人生を対象ごとに細分化するということだ。
そして、細分化するうえでは、なるべく具体的に細分化することが重要だ。「友情」という言葉を「A君との友情とB君との友情」、「友人と親友の違い」などと分けていっても、答えに結びつかない。なぜなら、「友情」「親友」といった言葉が具体的ではないからだ。このケースでは、「友情」という言葉を「遊ぶこと」「借りた本を返すこと」という具体的な行動に分解し、細分化したことで答えに結びついている。
人生に迷ったら、なるべく具体的にこれまでの人生を振り返ってみるとよい。出会った友達、疎遠になった友達、経験してきた出来事、経験しなかった出来事、実際にとった行動、とらなかった選択肢、その判断をした時の自分自身の気持ち、判断した理由、そんなものをリストアップし、できるだけ具体的に細分化して思い出してみるといい。
そうすることで、これまでの人生というものを鮮やかに捉え直すことができる。具体的に細分化したかたちで人生を捉えることができれば、あとは地道に考えればいい。そうすれば、人生には答えを出せない問題なんて、そんなに無いと思う。
3 時間的細分化
なお、人生を検討の対象となる問題ごとに細分化し、答えを求めるにあたっては、更に補助的な細分化を行うことで、より詳細な把握、検討が可能になる。
俺は、二つの補助的な細分化の手法を使っている。その一つが、時間的細分化という手法だ。
人生という時間的広がりがある対象を捉えるのだから、時間的な側面も考慮するということは説明不要であり、時間軸で細分化するということも簡単にイメージできるだろう。概ね、そのとおりだ。
ただし、この時間的細分化の際には注意点がある。先ほどの対象の細分化のときと同じように、具体的に細分化するということだ。ただ漫然と、「中学1年」「中学2年」というように機械的に細分化するのではなく、具体的な観点から細分化したほうが、細分化が活きてくる。
例えば、仕事と趣味のどちらを優先しようか、という人生の問題があるとする。就職して間もなくの頃、初めて大きな仕事を任された時には仕事に燃え、趣味より仕事を優先していたのに、同期より昇進が遅れたことで挫折感を味わい、仕事より趣味を優先しようと決心した、そんな過去の経過があるとする。(この問題は、少なくとも俺が就職してから20年以上抱えてきた問題だけど、例はフィクションです。)
この問題を、就職1年目から就職20年目まで1年ごと機械的に輪切りにしても何も見えてこない。こういう場合、「初めて大きな仕事を任された時」「同期が先に昇進した時」といった具体的な時点に着目したほうが、時間的な側面を把握できるだろう。
そうすることで、より明確に問題を捉えることができる。仕事と趣味のどちらを優先しようか、という問題は、漠然と捉えただけでは、「20年来色々考えて揺れ動いて来たが、未だに答えが出ない問題だ。」というようにしか思えないかもしれない。しかし、時間的細分化を経ることにより、「就職当初、初めて大きな仕事を任された時には趣味より仕事を優先していたが、同期より昇進が遅れたため仕事より趣味を優先した。今後も引き続き、仕事より趣味を優先していいのだろうか。」というように、より明確に捉えることができる。
そして時点を明確に捉えることで、「就職当初」と「同期より昇進が遅れた時」と「現在」とでは状況として何が同じで、何が違うのだろうか。というような分析も可能となる。時間的に細分化して捉えることで、時点間で比較し、何が同じで、何が違うのだろうかと分析できるのだ。時点間での比較ができるということが、時間的細分化の強みだ。
なお、この細分化は、具体的で詳細であればあるほど、より適切に把握できる。だから、更に細かく、「2回目に大きな仕事を任された時」や「同期が先に昇進したことを知った翌日」というような時点も着目し、細分化することに意味はある。しかし、現実問題としては、どこかで細分化を打ち切らざるを得ない。
テクニック上は、この細分化の打ち切り方が大事なのだが、これは、言葉では伝えられないセンス、職人技になってしまうので、自分なりの技を身に付けるしかないだろう。
4 脱線1:現実を特別扱いしないこと
少々脱線するが、時間的細分化により時間的視点を導入するにあたっては、現在を特別視せず、過去の延長として連続的に捉えることも重要である。そうすることで「就職当初」「同期より昇進が遅れた時」「現在」というように、「現在」を過去の出来事に引き続く、一時点として捉えることができる。そう捉えるからこそ、「就職当初」と「現在」では何が同じで何が違うのか、というような分析が可能になる。
なぜ、このようなことを強調するかというと、人は現在を特別扱いしがちだからだ。
ありがちな例で言うと、「今日からダイエットしよう。」という決心がある。
過去、何度もダイエットに失敗してきたのに、今回はうまくいく、と無根拠に思ってしまう。そう思ってしまうのは、過去の決心については既に失敗したという結果が出ているが、現在の決心はまだ結果が出ていないからだ。まだ結果が決まっておらず、自分の力で未来を選択できる、そんな気持ちになるから現在は特別なのだろう。
しかし、よく考えると、過去と同じことを繰り返しては、また同じ結果になるだろうことは容易にわかる。だから過去と現在を同列に捉え、何が同じで、何が違うのかを分析する必要がある。「前回は一人でダイエットをして失敗したけど、今回は友達と一緒にダイエットをするから成功するだろう。」そんなふうに分析できる。
現在を過去から連続する一時点として捉え、過去の教訓を活かして対応する。これは歴史的観点を踏まえて現在を捉えていると言ってもよいだろう。歴史を学ぶ意義のひとつはここにある。
5 脱線2:毎日を大事に生きること
更に脱線するが、先ほど、時間的細分化は詳細であればあるほどいい、と言った。この姿勢を現在に適用し、現在を極力細分化して捉えるということが、毎日を大切に生きろとか、今日が人生最後の日だと思って生きろとか、そういう人生の格言が言おうとしていることなのだと思う。今日という日を細分化して捉え、昨日と何が同じで、昨日と何が違うのかを明確に意識し、今日一日何をするか具体的に考えて生きることで、今日を有意義に使える。
ただ、言うは易しで、実行には大きなパワーが要る。俺も、高校生くらいから、毎日とはいかなくても、この季節、この一年が人生において特別なものとなるよう、意識して生きてきた。サツキが生まれる頃までは、現に、そのように思って生きることができた。
しかし、なかなか、そう思い続けるのは難しい。一日が短く感じる、なんていうのは、そのパワーが年齢とともに失われるということだろう。多分、家族ができ、自分自身の人生だけに集中できなくなると、そのパワーを維持するのが難しくなるのではないだろうか。
それでも、俺は、日々が、この人生にとって意味あるものになるよう、少しでも強く心がけるようにしている。その思いが、人生をより良いものに変えると信じている。
だからサツキには、少なくとも子供ができるくらいまでは、頑張って一日を意識して生きて欲しい。
6 階層的細分化
補助的な細分化の手法は二つあると言ったが、もう一つが階層的細分化という手法だ。
俺は先ほど、細分化は具体的に行うべきだと言った。漠然と「A君との友情とB君との友情のどちらを優先しようか。」と悩むよりは、「A君と放課後に遊ぶ約束をしたけど、B君に借りた教科書を返さなければいけない。どちらを選ぼうか。」と具体的に考えるほうがよいと言った。
しかし、それでは「友情」のような観念的なものの居場所がなくなってしまう。そういうものを全く考えずに済むならそれに越したことはないが、それは不可能だろう。こういう観念的な言葉は、複雑な世界を要約して捉えるためには不可欠だ。全く観念的でなくなることなんてできない。例えば、「デザート」という言葉は、「ショートケーキ」「いちご大福」といった言葉よりは観念的な言葉だとも言える。「ショートケーキ」という言葉だって、「あのお店のショートケーキ」よりは観念的だ。要は、観念的かどうかは程度問題なのだ。
だから、「友情」のような観念的な言葉とも共存し、その居場所を確保してあげてはどうだろうか。
実際にやってみよう。
心に浮かぶ人生についての問題は、日々どのように生きるか、というような現実的で具体的なものから、生きることの究極的な目的は何か、というような観念的なものまで、多岐にわたる。これらの問題を分類し、具体的な問題は浅い階層に、観念的な問題は深い階層に分けて置いてあげよう。
例えば一番浅い層には、「今日は日曜日だけど、家族と出かけようか、それとも一人で趣味グッズの買い物に行こうか。」というような、目先の現実的な問題が置かれる。
そこより一段階深い層には、「当面、休日は、仕事の疲れを癒やして体調維持を図ることを優先しようか、趣味に没頭することを優先しようか、英語の勉強などをして将来に向けた準備をすることを優先しようか。」というような、やや観念化した問題があるだろう。
更に深い層には、「今後、定年までの間、仕事と趣味のどちらを優先しようか。」というような、観念的と言ってもいい、人生の方向性につながる問題がある。
そして、一番深いところには、「人生で一番何を優先しようか、人生の目的は何だろうか。」というような哲学そのものとでも言うべき、観念的問題がある。
このようにして、現実的で具体的な問題は浅いところ、観念的で哲学的な問題は深いところ、と、それぞれの問題に、それぞれの居場所を確保してあげることができる。これが階層的細分化だ。
このように整理することにより、ある種の人生の問題が考えやすくなる。
例えば、「今日は仕事で疲れているから、趣味のランニングはやめておこうかな。だけど、仕事より趣味を優先すると決めたのに、これじゃ仕事ばっかりの人生になっちゃう。はあ、なんで、昨日、仕事を頼まれた時、断らなかったんだろう。自己嫌悪だ。」なんてぐるぐると考えてしまったとする。(フィクションです。)
この問題は階層的細分化により、次のように整理することができるだろう。
浅い層:今日は疲れているから、ランニングはしない。
↓  :時々は仕事を頼まれたら断れない時もある。
深い層:人生において仕事より趣味を優先する。疲れている時は無理しない。
こんなふうに整理すれば、それぞれの問題は別の階層にあり、対立しないことがわかる。そう気付くことで、この問題について、「今後、時々は趣味のために仕事を断るということもしよう。そして、今後はなるべくランニングに行けるようにしよう。だけど、時々は仕事を優先するときがあっても仕方ない。」というような現実的で無難な答えを導くことができる。
もしかしたら、人生でぐるぐると悩んでいるときは、浅い層の問題と深い層の問題をごちゃまぜにして考えているから混乱してしまっているのかもしれない。そんなときは、階層を意識し、整理できるかもしれない。これが階層的細分化の効用だ。
なお、ここで忘れてはならないのは、階層的細分化は、観念的な言葉に深い階層に収まってもらい、おとなしくしてもらうためにあるということだ。
この例の場合、「今日はランニングをしない」という現実に則した判断から、「仕事より趣味を優先する」という観念的な大原則を引き剥がし、おとなしくしてもらうというところにポイントがある。
だから、深い階層に落ち着いた観念的な問題にはなるべく触れず、極力、浅い、現実的な階層で解決策を考えた方がいい。もし、深い階層の分析に手をつけなければならないとしても、再度、深い階層の問題を階層的に細分化し、少しでも浅い層から手をつけるなどして、なるべく観念的にならないように努めるべきだ。
7 合わせ技
なお、階層的細分化、時間的細分化という二つの細分化の合わせ技もできる。
これまで例として用いてきた仕事と趣味のどちらを優先するか、という例を用いて、二つの細分化を組み合せると、少なくとも9個くらいのパーツができそうだ。
表にしてみよう。
   時間
階層
 就職時点  同期昇進時点  現在
 今日の判断  A1:  B1:  C1:
 当面の判断  A2:  B2:  C2:
 人生全体(定年まで)の判断  A3:  B3:  C3:
こんなふうに、A1からC3までの9個のマスができる。
そして、それぞれの時点ごとに、どのような階層で問題を扱い、結論を出したのか、マスに入れてみる。
   時間
階層
 就職時点  同期昇進時点  現在
 今日の判断  A1:  B1:  C1:疲れているから休もう
 当面の判断  A2:仕事に燃えるぞ  B2:  C2:
 人生全体(定年まで)の判断  A3:  B3:趣味に生きよう  C3:
こんなふうに、いくつかのマスが埋まる。
ここで着目したいのは、全てのマスは埋まらず、空白が残るということだ。
簡単にこのマスを埋めてはいけない。例えば、就職した当時、仕事に燃えていた自分を思い起こしたとしても、それは本当に定年まで見据えた決断だっただろうか。また、本当に、日々の行動として、趣味より仕事を優先することを決断していただろうか。そう慎重に考えると、A2を埋めたとしても、類推して簡単にA1とA3まで埋められない。
この空欄だらけの表を見ることで、あることに気付く。これまで、仕事と趣味のどちらを優先するかの判断は揺れ動いてきたと思っていたが、この表を見ると、全く揺れ動いていない。そこには階層が異なる判断があるだけだ。就職した頃は当面の判断をし、同期が昇進したときは人生全体についての判断をし、現在は今日についての判断をしている。判断のレベルが違う。
合わせ技で細分化することにより、こんなことに気付くこともできる。
8 生きる力
客観的に人生を捉えるための具体的な手法の紹介は以上となる。
もう少し実践的なことも書いた方がいいかもしれないが、この文章の文字数もかなり多くなってきた。あまりだらだらと書くこともできない。
ここからは、客観的、具体的、というこの文章の基本方針と対比してきた観念的な言葉にまつわることを書き連ねる。
これまで俺は観念的な言葉を極力避けてきたが、それは、観念的な言葉に対して特別な思いがあるからだ。
俺は、観念的な言葉には魔力があると思う。「友情」「夢」「正しさ」どの言葉もかっこよくて魅力的だ。「悪」「絶望」「挫折」なんていう言葉にさえ、どこか魅惑的なところがある。そこには心をざわつかせる力がある。
この力の根源は、俺の見立てだと「人生があるということ」「生きるということ」そのものに由来している。
具体的な日々の生活を、「人生」とか「生きること」とかといった大きな枠組みで観念的に捉えるからこそ、そこに友情や挫折があるように思えるのだ。だけど、現実的で具体的な視点から見ると、そこには、「A君と一緒に買い物に行った。」とか「A大学を受験したけど落ちた。」しかない。(俺が哲学的に考えているのとは、ちょっと違うけれど、少しでもわかりやすいよう、こういう言い方をしてもいい線をいっていると思う。)
「人生があるということ」「生きるということ」ということの力を引き入れているからこそ、観念的な言葉には強い力がある。
この文章の基本姿勢を貫き、客観的、具体的であろうとするならば、これらの魅力的な言葉を拒否しなければならない。それは、「生きるということ」自体に由来するような強い力を拒否するということにつながる。
だから、観念的な言葉を拒否した場合、生き方の指針を失ってしまう。前向きに生きるか、後ろ向きに生きるか(極端には、自殺してしまうか)は、どちらでもよくなってしまう。観念的な言葉は、例えば、「挫折」という言葉でさえ、「挫折を恐れず前に進むべきだ。」とか「挫折による傷が癒えるまでは休息すべきだ。」というように生きる方向性を示してくれる。一方で、客観的、具体的、現実的な記述、例えば、歴史年表などからは、生きる方向性のようなものは何も読み取ることはできない。
しかし、本当にそうだろうか。確かに言葉としては、そうかもしれない。「友情」「夢」「正しさ」なんていうかっこいい言葉を使わずに、人に前向きに生きるよう語りかけることなんてできない。だが、事実としては、観念的な言葉なんてなくても、そもそも、説得なんてしなくても、たいていの人は前向きに日々を生きている。例えば、友情という言葉なんて使わなくても、人と人は関わりあいながら日々を過ごしている。
この事実は、言葉の手前にある根源的な自己肯定と言ってもいいだろう。ここには、言葉なんて経由せず、生きるということそのものから直接由来する強い力が充満している。
9 自己肯定感
ただし、このような自己肯定感は、自然に湧き出るのを受け身で待つべきものではない。極端な例では、心に大きな傷を受けた人や常に悲惨な境遇にいた人などの中には、自己肯定感を感じられず、前向きに生きられない人もいる。
だから、日々具体的に、自己肯定感を高めるよう取り組むべきだ。例えば、俺にとっては、大学受験に成功したこと、彼女ができたこと、スキー、ダイビングといった自分が得意な遊びができたこと、サークルの飲み会で女子とうまく話を盛り上げられたこと、といったようなことが、自己肯定感の向上につながったと思う。そういう機会が得られるような現実的な努力が結構大事だ。
また、自己肯定は、他者の肯定にもつながっていると思う。
この文章の前半で、高校時代に、「自分の世界」に並行して「外」の世界があり、そこで自分以外の人もその人なりの人生を送っていると気付いた、という話をした。その気付きは俺にはかなりショックな出来事で、その頃の感覚というのは今でも覚えている。
高校生だった俺は、ある日、通学途中に電車の向かいに座っている人達を見ていた。そのとき、ふと、この人達もその人なりに、俺と同じように人生を歩んでいるんだなあ、と、いじらしく、愛おしく感じたのだ。
俺が感じる他者の肯定感の根源には、この感覚がある。
振り返ってみると、この肯定感は、あくまで、「俺と同じように」がんばっているんだなあ、ということに由来している。これは、俺自身に自己肯定感があったからこそ他者に対しても肯定感を感じることができたということなのではないかと思う。
10 キャリア選択についての後悔
観念的な言葉についての話を続けるが、ハイティーン的には「夢」「将来」「可能性」なんていう言葉も気になるかもしれない。
先ほどの話でいくなら、結論としては、これらの観念的な言葉も拒否し、客観的、具体的に人生を捉えるべき、ということになる。
だけど、そう簡単には気にしないで済ませることはできないだろう。俺だってそうだった。
俺は、高校生、大学生当時「可能性」という言葉に囚われてしまっていた。時が経ち、可能性が狭まるということが耐えられなかった。だから、なるべく可能性が最大限になるように、ということだけを考えて自分のキャリアを選択してきた。
公務員になれば、色々なことができる、なんて思っていた部分もある。しかし、現実には、「色々なこと」、なんてものは転がっていない。それは、世の中には「ショートケーキ」や「いちご大福」は転がっているかもしれないけれど、「デザート」自体は転がっていないのと同じだ。公務員になったら、「色々なこと」ではなく「この文書を書く」「この計算をする」というような具体的な仕事をしなければならない。
俺は、「可能性」という現実には存在しないものを気にしすぎて、自分で仕事を選ぶことを放棄し、誰かに押し付けられた仕事をするということを選んでしまったのだろう。(と極端に書いたけど、実際には趣味との両立や公益性とかも考えて職業を選んでいるから、憐れまなくていいです。)
と、俺を例にしてみたが、同じような話はよくあるように思う。多分、「夢」「将来」「可能性」というような言葉には、キャリア選択を実際よりも重いものに見せ、選択するのを怖がらせたり、また一度行なった選択から軌道修正することを躊躇させたりする力があるのだと思う。
だから、キャリア選択は、できるだけ早めに行うべきだ。キャリア選択というのは、多くの人が躊躇することだから、早めに行なうこと自体が周囲に対するアドバンテージになる。
自分ができなかったことだから、躊躇するのはよくわかるが、「夢」「将来」「可能性」なんて観念的なものどこにも転がっておらず、現実にあるのは、日々の客観的、具体的な判断の積み重ねだけだと思えば、少しは怖くなくなるのではないだろうか。俺は、あの頃の俺にそう言ってあげたい。
11 この話の限界
この文章も終わりに近づいた。最後に、この文章の読む上での注意点を記載しておきたい。
この文章は、要は、人生というものを、なるべく現実的な観点から、具体的に細分化し、客観的に捉えようという話だ。こうすることで、神秘的な人生というものを、いつかは解けるクロスワードパズルのようなものに分解し、つまらないものに貶めているように感じるかもしれない。そんなふうに簡単に答えがわかってしまったら、人生はつまらない。
しかし、そうはならないので安心して欲しい。
なぜなら、第一に、この文章のやり方が完全にうまく機能したとしても、理屈上、人生の全ては捉えられないからだ。この文章では、あえて観念的な視点に陥らないように、哲学的な問題は避けてきた。避けてきたのだから、この哲学的、観念的な視点については理屈上、漏れざるをえない。それに、俺が気付かない漏れも他にあるだろう。だから、この文章は万能ではないので安心して欲しい。
また、第二に、この文章のとおりに、具体的、客観的に人生の問題を捉えようと心がけても、現実の人生では、そんな心構えを圧倒するような問題が生じるだろうからだ。ひどく心を傷つける出来事があったり、とても嬉しい出来事があったりしたら、具体的、客観的な分析なんてできる訳がない。そんなときは、もがきながら試行錯誤で対処するしかない。時には、ただ祈るしかないときもあるだろう。楽しい例としては、恋をしたら、こんな分析なんてできなくなる。人生にはそんな出来事も待っているだろうから、期待していて欲しい。
ということで、この文章で述べてきた話には限界がある。
それでも俺は、ここに書き記したようなことが役立つ場面がどこかにあり、サツキの人生が、そして今後の俺自身の人生が、少しでもマシなものになればいい、そう願っている。