哲学対話について考えてみた

2016年7月9日作

PDF:哲学対話について考えてみた

1 哲学と対話
1-1 はじめに
僕は、哲学対話といわれるものに興味があります。
なぜなら、哲学対話という四文字熟語は、哲学と対話という二つの二文字熟語に分けられるからです。
それでは、なぜ哲学と対話なのかといえば、まずは、僕は哲学が好きだから。だから哲学ということです。これは好みの問題なのでこれ以上説明できません。
そして、なぜ対話なのか、ですが、僕は、哲学的に言語に対する関心があり、ざっくり言うと、哲学的に、言語の成立と対話とは切っても切れない関係にあると思っているからです。だから哲学的に対話が重要ということになります。(この哲学的主張の詳細は、今回述べたいことから脱線するので省略しますが、この文章でも必要な範囲で触れることになると思います。)言ってみれば、僕は哲学から入り、対話に興味を持ったということになります。
という経緯はともかくとして、哲学と対話という僕の興味を引くものが二つも重なっているのだから、きっと哲学対話というものも興味深いに違いない。哲学対話というものに対して、僕はそんな思い入れがあるのです。

1-2 哲学
それでは、哲学対話について考えるために、まずは、哲学と対話に分解して考えてみましょう。
まず哲学についてですが、「哲学とは何か」を明確に定義することは困難です。自然科学に対して科学哲学があるように、哲学は全ての学問の根幹に関わっています。そして、宗教哲学という言葉すらあるように、哲学はとらえどころがないほどに広大な領域に及んでいます。そのような幅広さがあるからこそ、哲学とは何かを明確に定義することは難しいです。
一方で、僕は、「哲学でないものは何か」を定義することはとても簡単だと思っています。「哲学でないものとは何か?」と問われれば「哲学ではないものなどない。」という明確な答えが出せます。なぜなら、「哲学でないものとは何か?」という問い自体、言葉だからです。これは、言語哲学という言葉があるように、既に哲学の領域に足を踏み込んでいると言えるでしょう。
先ほど言ったように、僕は言語というものに関心があるのですが、言語という観点からすれば、言葉を発する存在である人間は哲学の領域から逃れることはできない。これは確かだと思うのです。
僕は、哲学というものについて、そのような、全てを包み、逃れることができないものとして理解しています。

1-3 対話度
次に対話についてですが、一般的なイメージとしては、対話が成立するためには、少なくともAさんとBさんの二人の人間がいて、二人の間に日本語であれ、英語であれ、テレビ会議であれ、LINEであれ、何らかの言語的なやり取りが成立している必要があるということになるでしょう。
そして、そのような言語的なやり取りのなかに、対話と、対話ではないものとがあるとされます。
対話は、相互理解とか、発展とかといったものとつなげて捉えられることが多いように思います。AさんとBさんがお互いに相手を思いやり、そして話をすることを通じて、何かに気付き、お互いの成長につながるようなやととりこそが対話だというような感じでしょうか。
一方、話し手であるAさんが相手を思いやらない攻撃的な態度をとったり、聞き手であるBさんが独りよがりで聞く耳を持たなかったり、またはAさんとBさんとの間の話の内容が日常的なレベルのものに留まったままになったりすると、それは議論とか、口げんかとか、雑談とか、別の名前で呼ばれることになります。
このようにして、対話と対話ではないものという区分があるとされます。

しかし、僕は、そのような一般的な理解に対して疑問があります。このような対話と対話ではないものとの線引きというのは、かなりあいまいで恣意的なのではないでしょうか。対話と呼ばれる場においても、一瞬、強い攻撃的な言葉が含まれることはあるし、茶飲み話のような話題が続くこともあります。または、議論とか口げんかでも、相手を理解しようと問いかけ、応答する場面はありえます。
そこにあるのは、対話か非対話かというような明確な境界線ではなく、対話的要素が多く含まれるやり取りと、あまり対話的要素が含まれない(が少しは含まれる)やり取りがある、というような緩やかなグラディエーションのように思います。
よって、僕は、対話というものについて、対話か非対話かの二分法ではなく、対話度というような言葉を導入し、対話度の高さ、低さという問題に読み替えて扱うべきと考えます。

1-4 対話的要素の混入
そのような読み替えをすることで特に強調したいのは、どんな言語的やりとりであれ、わずかには対話的要素が入っているということです。

いきなり、知っていることを前提に話をしてしまって申し訳ないですが、マシュー・リップマンは、哲学対話においては、批判的思考、創造的思考、ケア的思考が重要だとしています。
僕は、このような述べ方は、うまく対話というものを捉え、いい線をいっていると思います。相互理解とか、発展とかといった多くの人が持っている対話の特徴をうまく描写しているように思うのです。
一応、批判的思考、創造的思考、ケア的思考というものについて、僕なりの解釈でざっくり解説すると、僕は、批判的思考とは対話を論理的に組み立てるということであり、創造的思考とは対話から新しいものを生み出すということであり、ケア的思考とは対話が成立するよう相手に配慮するということと理解しています。
このような特徴は、相互理解とか、発展とかといった一般的な対話のイメージに重なり、実際、対話というものをうまく成立させるためには、このような心がけが特に大事なようにも思えます。

だけど、少し立ち止まって考えてみましょう。批判的思考、創造的思考、ケア的思考といったようなことは、あえて意識して心がけなければいけないものでしょうか。
先ほど言ったように、どんな言語的やりとりであれ、わずかには対話的要素が入っているのだとすると、マシュー・リップマンが言っているようなことは、一般的に対話と呼ばれるかどうかに関わらず、どんな言語的やりとりにおいても当然、少しは含まれているはずではないか。僕はそう思っています。全ての言語的やりとりが既に対話であるならば、あえて心がけなくても、全ての言葉は批判的思考、創造的思考、ケア的思考であり、対話なのではないでしょうか。(実は、そういう当たり前のことを言っているからこそマシュー・リップマンはいい線をいっていると思うのですが。)

具体例で考えてみましょう。例えば、チンピラが細い路地を歩いていて、すれ違いざまにサラリーマン風の男に肩がぶつかり、見知らぬ相手に「痛えじゃねえか!」と怒鳴った、というような対話から程遠いと思えるような場面を想像してみましょう。このような場面でさえ、批判的思考、創造的思考、ケア的思考がわずかにでも含まれています。
まず、第一に「痛えじゃねえか!」という言葉を発しているのは批判的思考です。「痛えじゃねえか!」とは明らかに「私は痛いです。」という意味をもった主張であり、更には、もしかしたら「その原因はあなたにあります。」という主張も含んだ極めて論理的な言葉です。これは批判的思考の賜物と言っていいのではないでしょうか。
また、「痛えじゃねえか!」という言葉を発することにより、肩がぶつかったという問題を提起し、その解決を図ろうとしています。これは現状を改善しようとする提案であり何かを生み出そうとする創造的思考であると言えるのではないでしょうか。
さらには、「痛えじゃねえか!」というのは日本語です。これは、相手を日本語がわかる存在として認識し、その相手が理解できるよう日本語で伝えたということで、相手に配慮したケア的思考だと言えるでしょう。確かに、もう少し配慮して欲しいところではありますが・・・
このように考えていくと、チンピラが方をぶつけた際の「痛えじゃねえか!」でさえ、対話に満ちた対話の典型例とは言えないにせよ、対話的要素が少しは含まれているのは確かでしょう。
では、「対話ではない」とはどういうことかといえば、それは、何も言葉を発さず、相手に殴りかかるような行為のことを言うのだと思います。つまり、言葉を用いる限りは、そこには必ず対話的要素があるはずなのです。

1-5 当面の結論
このように、哲学と対話というものについて考察してきて二つのことが明らかになってきました。
①言語を発する人間は、言語そのものさえ対象とするものである哲学から逃れられない。
②全ての言語的なやりとりには対話的要素が含まれる。
こう並べてみてお分かりと思いますが、哲学と対話は、いずれも言語的活動そのものといってもいいほどの幅広さがあるという点で共通しています。
かっこよく、まとめておきましょう。
「語りうるもの全てこそが、哲学であり、対話である。哲学でないものは語りえず、対話でないものは語りえない。」
このようにして、哲学と対話とは「語りうるもの」というかたちでほぼ重なりあったものと理解できることになります。あえて言えば、あくまで予感としてですが、哲学と対話は、言語を通じて、全一的な真実とでも言うべき何かにアクセスする特別な力を持っているという点で共通点があるような気がするのです。
これは、言語というものに興味がある僕にとっては、とても重要な、当面の結論です。
(この結論自体、言語に対する僕の興味に影響され、偏りがあるような気がするのですが・・・)

1-6 蛇足:自分との対話
哲学と対話が重なるという僕の主張に対する、もっともありうる反論は、「哲学は一人でできるけれど、対話は一人ではできない。だから哲学と対話は似ても似つかない。」というものだと思います。
これに対しては、僕は、自分との対話も対話である、ということを付け加えることで簡単に乗りきれると思っています。
というか、僕にとっては、自分との対話も対話であるということは詭弁でも後付けのアイディアでもなく、とても自然に理解できすぎて、ここに違和感を感じるということがよくわからないのです。
もし、自分自身との対話が対話ではないとするなら、対話とは誰かと話す際の便利なツールに過ぎなくなります。まあ、確かに対話というのはコミュニケーション技術というような文脈でも使われます。だけど、僕は、対話がそんなちっぽけなものなら全く興味がわかない。僕が語りたいのは、そういう狭義の対話ではなく、自分自身との対話も含めた広義の対話なのです。
僕にとっての広義の対話とは、自分自身の内面の思考も含む言語化できる全てです。そのように拡張された対話は哲学そのものとほぼ重なります。だから対話は興味深いのです。

2 哲学対話
2-1 問題提起
僕は、当面の結論として、「語りうるもの全てこそが、哲学であり、対話である。哲学でないものは語りえず、対話でないものは語りえない。」としました。
それならば、哲学と対話という二つの言葉を組み合わせた哲学対話についても同じことが言えるのではないでしょうか。なにせ、哲学と対話はほぼ重なるのだから、それらの言葉をつなげた哲学対話というものも、哲学や対話と同様に、ほぼ無限定に広がっているはずでしょう。「語りうるもの全てこそが、哲学対話であり、哲学対話でないものは語りえない。」というように。
そうだとするならば、更に、そこから、話をもう一歩進めることができるのではないでしょうか。
「何かを哲学対話ではないとして名指しして切り捨てることは誤りにつながる。語りうる全てを哲学対話として拾い上げ、哲学対話に取り込まなければならない。」と。
僕は、哲学対話とは語りうるもの全てであり、全一的な真実につながる力があるという予感があります。そして、全てであり、全一的な真実であるものから、何かを切り捨てることは真実から遠ざかることになります。それならば、真実に向かうためには、哲学対話とは、全てを拾い上げ、取り込むようなものであるべきではないでしょうか。

2-2 実践者として
このように問題提起したところで、一息ついて、高まってきた抽象度を少し落とし、哲学対話の実践者としての顔に戻りたいと思います。
僕は、この1年くらいで、いくつかの哲学対話の場に顔を出し、自分でも2回、哲学カフェを主催し、進行もしました。だから、哲学対話の実践者見習い、くらいには名乗っていいと勝手に思っています。
その僕が思うに、自分が主催したにせよ、参加者としての立場から見たにせよ、明らかに、うまくいった回と、うまくいかなかった回があります。また、進行役には、明らかにうまい進行役と、うまくない進行役がいます。また、参加者の態度においても、「人の話を聞く」というような望ましい態度と、「話をさえぎる」というような望ましくない態度があります。
つまりは、哲学対話には良い、悪いがあります。
だからこそ、僕は、より良い哲学対話ができればいいと思うし、より良い進行役になりたいし、より良い参加者でありたいと思うのです。

2-3 理念と実践のギャップ
だけど、このような当たり前の実践者としての感覚は、さきほどの「何かを哲学対話ではないとして切り捨てることは誤りにつながる。語りうる全てを哲学対話として拾い上げ、哲学対話に取り込まなければならない。」という理念と衝突するように見えます。

今回の哲学カフェは良い哲学対話じゃなかったなあ、と評価することは、何かを哲学対話から切り捨てているような気がします。今回の僕の進行はイマイチだったから次回はもっとがんばろう、というのは、とても前向きだけど、今回の進行をした僕を哲学対話から切り捨ててしまっているように思えます。そして、よくあると思うけれど、この参加者の発言は脱線しているから元に戻そうと判断することは、その参加者を哲学対話から切り捨てることにつながる気がします。
ここに僕は、理念と実践のギャップを感じるのです。
だからでしょうか、僕は、哲学対話を終えるたびに、恣意的に何かを切り捨ててしまったという反省めいた気持ちが湧きます。「語りうる全てを哲学対話として拾い上げ、哲学対話に取り込まなければならない。」というのは、現場を見ていない、地に足が付いていない実現不可能な理念のように思えますが、それでも、僕はどこか引っかかるのです。

2-4 色々なギャップ
この理念と実践のギャップは、いろいろな形で現れるように思えます。
僕は、哲学対話というのは万人を受け入れるものであってほしいと思っています。少なくとも意識的に門戸を閉じるようなことはなく、コミュ障的な人であっても安心して参加してほしいと思っています。
しかし一方で、僕自身が参加するときは、参加者としてうまく振る舞い、発言するかどうかは取捨選択し、興味深いと思ってもらえるような発言を発言するよう心がけています。話のオチをつけたり、多少のうそがあっても、話がわかりやすいよう要約たりして、楽しんで話を聞いてもらおうともします。
話が少しでも良い方向に転がるよう、興味深い話には深くうなずいて応援し、面白くない話が延々と続いた場合には、話を聞いているふりをしつつ少し前にあった話のことを思い出して次の発言を考えたりもします。
僕が進行役をつとめるときは、より良い進行ができるよう心がけたり、終わったあと反省したりします。
これは、哲学対話は誰でも参加できるよ、なんて門戸を開きつつも、入ってきた人を対話的か対話的でないか評価しているようなもので、なんだかだまし討ちのような気がするのです。
特に僕が嫌になるのが、他者に対してはなんでもいいと認めつつ、自分だけは対話的でありたいというアンバランスさです。
これは、良く言えば自分に対して厳しいということですが、悪く言えば自分だけが抜け駆けして対話的であろうとしているいやらしさを感じます。自分だけを変に特別視した感覚というのでしょうか。自意識過剰とはちょっと違いますが。
ということで、僕は対話というものにつきまとうギャップ問題に心を乱されているのです。

2-5 続けるということ
それでは、何かを切り捨てず、語りうる全てを拾い上げ、取り込んだような理想的な哲学対話などというものがあるのでしょうか。
僕はあると考えています。ただし、残念ながら、手が届かない遥か遠くに。
答えから言うと、理想的な哲学対話とは、対話を止めないで対話し続けるということです。
対話を続けている限り、何かを切り捨てることにはなりません。なぜなら、対話を続けていれば、いつかは、その何かも対話として拾い上げることができるかもしれないからです。対話を続け、そのような期待を持ち続ける限り、対話はどこまでも理想的な対話に近づき続けることができます。
しかし、対話を続けていると、当然、どんどん話は広がり、拾い上げられるべき何かも増えていきます。だから、対話をどこまで続けても全てを拾い上げることは不可能でしょう。
そのような意味で、僕は、永遠に対話を続けるという到達不可能な遥か彼方に対話の理想はあると思うのです。

3 現実と時間
3-1 言葉と現実
ただし、哲学対話については、不可能な理想だとして話を終わらせるのではなく、もう少し語ることがあるように思います。
その取っ掛かりは、さきほど、チンピラの「痛えじゃねえか!」であっても少しは対話的だった、としたことにあります。そんな言葉でも少しは対話が含まれているとした話です。
ここで考えてみましょう。少しは対話が含まれるということは、何か、対話ではないものの中に対話が含まれているということを意味します。対話度について水溶液の濃度のようなものをイメージするなら、例えるなら水と食塩が混ざり、食塩水になっているようなものです。対話が食塩なら、対話でない何かが水となります。ここには二つの物質があるのです。
ひとつ目の物質としての食塩、つまり対話については延々と考えてきました。それでは、もう一つの物質である水にあたるもの、つまり、「対話ではないもの」とはいったい何でしょうか。

その答えは、言葉にできない「現実」ということになるでしょう。
僕は対話というものと言語活動とを強く結びつけて考えています。とするなら、対話ではないものとは言語から離れたものであり、つまりは語りえない現実ということになります。
「現実」とは何を指すかといえば、チンピラの「痛えじゃねえか!」ならば、「痛えじゃねえか!」という言葉自体では表現できない、チンピラの風貌とか、目つきとか、口ぶりとか、路地の暗さとかといったものが現実となるでしょう。
(更には、きちんと考えきれていませんが、「私は痛いです。」という言葉と、意味的には全く同一なのに、あえて「痛えじゃねえか!」という別の言い回しをしたということも、言葉では掬い取れないという意味で現実にあたると思います。)
そのような現実に圧倒され、わずかにしか言語的な要素が含まれていないからこそ、チンピラの「痛えじゃねえか!」は、食塩水の濃度は低いように、対話度が低いということになるのです。
ここには、言語と現実の二項関係を見出すことができます。

3-2 哲学対話における現実の力
この「現実」について、いわゆる哲学対話を実践する場面で考えてみると、落ち着いた雰囲気のよいカフェで開催するか、陰鬱な会議室で開催するかといったような話に繋げることができます。このような現実は、哲学対話において交わされる言葉自体とは別に、哲学対話の重要な要素となります。
会場の雰囲気以外にも、参加者の表情が柔らかいとか、進行役が二日酔いじゃないとか、参加者のなかにかわいい女性がいて気合が入るとか、顔見知りの人が多くて安心するとか、そういったことも哲学対話の現実的な側面が持つ力として重要でしょう。
そのような現実というものの力のうち、特に哲学対話をしていて気付いたのが、現実が言葉自体に込める力の大きさです。同じ内容の話であっても、本か何かで伝聞のようなかたちで知るのと、当事者が思いをこめて話すのを直接聞くのとでは大きな違いがあるのです。
「余命宣告はしてほしいか。」というような話を思考実験のように、誰も経験していない人同士で話すのと、実際に大病をした人が自分の体験談として話すのとでは大きな違いがあります。具体例を挙げるなら、実際に余命宣告をされた知人が「余命宣告をされて、もうがんばらなくて良いと思い、ほっとした。」と言ったという話を思い出します。この言葉には、現実というものが持つ特別な力があるように思います。生身の人間が発する言葉が持つ現実の力とでもいうのでしょうか。そこには、言葉の内容自体とは別の次元の正しさがあるように思えるのです。
言葉の内容だけを対話として捉えるならば、先ほど結論付けたように、理想の対話を求め、永遠に語り続けなければなりません。
例えば、「余命宣告をされて、ほっとした。」と言った知人に対して、「通常は、余命宣告という嫌なことでほっとすることはないけれど、なぜほっとしたの?」なんていう話を続けることは可能であり、そのような対話を重ねることで真実に近づくとさえ言えます。
しかし、対話は現実の生身の人間がいる場において現に行われ、そして語り終えられます。
実際には、その余命宣告をされた知人の発言に対しては、多くの言葉は重ねられなかったそうです。(この知人とは妻の友人であり、僕は見舞いには行かず、妻から聞いた話です。)
このように、現実の対話は、現に語られ、語り終えられることで、有無を言わせない、ある種の凄みさえある正しさを獲得することになります。
哲学対話の場に話を戻すなら、この病院でのエピソードと同様に、現実の哲学対話においては、会場や参加者の態度や人間関係、そして話に込められた全人格といったところまでを含めたあらゆる現実の力が及んでいるのです。
(よく哲学対話界隈で使われる「哲学対話の場」という用語は、この現実の力を強調するものして使われているように思います。)

3-3 時間
最後に、蛇足ですが、この、「理念と実践」または「言葉と現実」という二項関係で捉えてきた哲学対話には、もう一つ別の二項関係を見出すことができるように思います。それは、「過去と未来」の二項関係です。
ここまで来ると、かなり哲学対話という側面から遠ざかり、僕のもうひとつの問題意識に近づいてきてしまいますが、自分自身のための備忘録として書き記しておきます。適当に読み飛ばしてください。(僕は、言語と、もうひとつ、時間というものに哲学的興味があるのです。)
考えてみると、同じ哲学対話という語は使っても、既に行われた過去の哲学対話と、これから行う未来の哲学対話では、捉え方が異なるように思われるのです。
僕は、未来の哲学対話、例えば明日自分が主催する予定の哲学対話について、良い進行にするにはどうしたら良いか、などと考えます。また、哲学対話の進行役をしているときも、これから、つまり数分先の未来において、どう話に介入し、または介入しなければ、良い方向に話が転がるだろうか、なんて考えます。
そこには確かに、良い哲学対話と悪い哲学対話という評価軸があります。だから、少しでも良い哲学対話に近づきたいと思い、色々と試みることになります。未来には、哲学対話に自分が関わるにあたって目標を定めるのに必要な、良いと悪いの評価があるのです。
一方で、既に開催された過去の哲学対話については、良いも悪いもありません。どんなにうまくいかなかったと感じた哲学対話であっても、よく考えてみれば、そこには哲学対話に参加したいと思い参加した人達が現にいて、そこで交わされた言葉たちがあったのです。または、そこで支払われたコーヒー代が会場のカフェの収入になったり、奥さんから「哲学カフェばっかり行って!」と怒られるなんて営みもあったりするのです。既に、現に、人の営みとして哲学対話はそこにあったのです。それを、悪い哲学対話として否定したり、良い哲学対話として何かと比べて持ち上げたりすることはできません。なぜなら、どんなに持ち上げても否定しても、ただただ、過去において哲学対話があったということは揺るがないのですから。
このような全く違う捉え方が、過去の哲学対話と未来の哲学対話にはできます。

お気付きかもしれませんが、これは、「何かを哲学対話ではないとして切り捨てることは誤りにつながる。しかしより良い哲学対話を実践するためには悪い哲学対話を切り捨てざるを得ない。」という問題についての僕なりの現時点での答えです。
過去においては何かを切り捨てるのは誤りだけど、未来においては何かを切り捨てることは誤りではないのです。過去と未来をしっかり分けていなかったから、僕は混乱してしまっていたのです。

3-4 最後に
哲学対話についての話が、過去と未来といういわば時間論にまで行き着いたところで、そろそろ、この考察を終えることにしたいと思います。
最後に、ここまでの考察を踏まえ、どのような姿勢で哲学対話をしていけばいいのかを提案して終わりにします。
なぜ、そんな提案をするのかといえば、この文章は、哲学対話というものについてグルグルと考えこんでしまい、道を見失ってしまった僕に対する処方箋だからです。
この文章を書くことが、僕にとってのリハビリ活動になるというのでしょうか。

ただ、この文章は、僕にとってだけでなく、哲学対話というものを重要と考えている誰かにも、何かしら訴えるものがあるのではないか、という希望も持っています。
なぜなら、この文章全体が、哲学対話が持つ力を最大限に引き出そうとする試みとも言えるからです。哲学対話が好きな方ならば、哲学対話というものを最大限評価しようとする文章を読んで、悪い気はしないのではないでしょうか。

ということで、最後になりますが、今後の哲学対話をしていくにあたっての姿勢についてです。
この文章を通じ、哲学対話には「理念と実践」、「言語と現実」、「過去と未来」と、いくつかの二項関係があることを見出すことができました。
この二項関係とは、対立関係と捉えることもできます。例えば、哲学対話の理念としてはどこまでも言語を継ぎ、語り続けるべきだが、哲学対話の実践における現実としては、どこかで語り終えなければならない、というように。あちらを立てればこちらが立たず、というような関係性を見出すことができます。
そう考えると、哲学対話とは、切り立った崖の尾根のようなものという気もします。右には理念の谷、左には実践の谷があり、その間の僅かな道を進まなければ、どちらかに落ちてしまう、という綱渡りをしているようなイメージです。
しかし、この二項関係は単純な対立関係ではありません。
哲学対話においては、先ほどの余命宣告の例のように、現実や実践に圧倒されるべき場面があり、また、逆に、この文章の前半のように、ひたすら抽象的な理念、言語を追い求めるべき場面もあります。そこにあるのは、静的な綱渡りのような生易しいものではなく、動的な二項関係に巻き込まれた一寸先は闇とでも言うべき状況です。
そこで求められるのは、一歩先がどのような状況かわからなくても、それでも一歩を踏み出さなければならないという勇気または無知ゆえの無謀さなのではないか、という気がします。
ここまで書いていて、ふとタロットカードの愚者の絵柄を思い出しました。愚者は、踊るように崖に向かって一歩を踏み出そうとする姿として描かれています。
僕は、その愚者のように、ダンスのステップを踏むように、哲学対話をしていきたいと思うのです。

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