PDF:「みんなで考えよう」合評会に行ってきました

「みんなで考えよう」とは、哲学プラクティス連絡会という集まりで発行することになった冊子で、これが第一号です。

(では、哲学プラクティス連絡会とは何かというと、哲学カフェや哲学対話は、哲学プラクティスとも言われるのですが、そういった哲学プラクティスを実践している人たちが色々連絡をとりあう場です。学会ではなくて、一応、普通のサラリーマンな僕でも当日の参加費を払えば、もう仲間だぜ、というゆるい感じが気に入っています。)

この本は、哲学対話の実践者が寄稿した文章17本で構成されていて、僕の文章も入っています。(実は、ここがこの文章の主題です!)
だから、書かれた文章は、広く捉えるなら、実際に哲学対話をやっている方による、実践を踏まえたその考察と言えますが、それぞれの文章の中身は、実践の記録にウェイトを置いたものから、実践には言及されず考察がほとんどというものまで、色々となっています。
(僕の文章は後者のつもりです。そうは見えないかもしれないけど・・・)

この合評会は筆者のうちの何名かとこの本を作っていただいた編集の方も参加して、とても実りあるものでした。本を作ってくれた方、こういう集まりを企画してくれた方に感謝です。

それぞれの文章については無料でネットにPDFが上がっているので読んでくださいということで、合評会で思ったことをメモしておきます。

まず、いちばん重要なのが、合評会は、「がっぴょうかい」と読みます。「ごうひょうかい」ではありません。僕は初めて知りました。注意!

あと、合評会とは、基本的に、その作品について批評し合う会のようです。僕はてっきり、この冊子全般のコンセプトを話したり、この冊子を題材に、哲学対話の実践者が哲学対話について考察するという営み自体について話す場だと勝手に思っていました。そうしたら、短い時間とは言え、自分の作品自体について批評されるとは、とんだ羞恥プレイでした。
(まあ嬉しかったですが・・・次回はパスしたい気も・・・)

と、前置きが長くなりましたが、僕が合評会「がっぴょうかい」で考えたことをメモ。

合評会の場で、この筆者Aは、哲学対話の外からの視点で書いているのかな、哲学対話にどっぷり浸かった中からの視点で書いているのかな、それとも片足だけ踏み込んだところで書いているのかな、という問題が出されました。
その場では、どちらかというと、実践の記録的な側面が大きい文章は当然として、多くの文章が、哲学対話の中からの視点で書かれていて、例外的にいくつかの文章が、哲学対話の外からの視点が強いよね、という感じの話だったように思います。

だけど、あとで考えてみると、実は、そこには大きな違いはなくて、全ての文章が、片足は哲学対話の外で、もう片足は哲学対話の中なのではないかなあ、と思いました。
なぜなら、まず、何かしら哲学対話について知らないと文章は書けない訳だから、片足は中に踏み込まなければならない。
一方で、完全に哲学対話に浸かりきってしまったら、哲学対話について書くことはできないから、片足は外に置かれなければならない。だって、全く哲学対話に浸かりきり、その外が見えなければ、哲学対話について客観的に捉えて、言葉にすることなどできないでしょうから。
その証拠に、合評会でも、堀越さんの文章は、そこに漂う冷静でクールな分析が評価されていた。これは、単に実践の記録にとどまらず、その実践を外部から捉え直していたことで、要は片足を外に置いていたことを意味すると思います。
また、しばたさんの文章も、単なる政治的主張ではなく、そこにパスカルを比喩的に登場していることが評価されていたことも同じです。
(しばたさんの文章がなぜ同じかというのは文字数が要りそうなので、合評会で出た話を僕なりの理解で要約しておきます。
『哲学対話の実践を文章にするやり方は、客観的に書くというやり方以外に、まさに哲学対話をするように主観的に書くというやり方があって、しばたさんの政治的主張部分については、まさに哲学対話を主観的に内から実践的に書いているものとして評価できる。そして、そこにパスカルを比喩的に登場させたことは、その実践的記述を客観化し、外部から捉え直したものとして評価することができる。よってしばたさんの文章も、内側からの実践の記録であり、かつ、外部から捉え直されたものである。』)

では、どの文章も片足は哲学対話の外で片足は内側なのだとしたら、内と外を区分する視点はあまり役に立たないのかというと、そうではないと思います。
大事なのは、どちらから一歩踏み出したのかであり、哲学対話の外から一歩踏み込んだのか、哲学対話の中から一歩踏み出したのか、という違いはとても大きいのではないか。
飛躍して、一気に僕の考えに引き寄せるなら、哲学対話の外とは、要は、伝統的なアカデミックな哲学です。そして、哲学対話の中とは、生(なま)の人々による生きる営みの実践です。このどちらに出自があるかで、哲学対話について考察する文章にも大きな違いが出てくるように思うのです。
そして、この双方向の流れがぶつかる場だからこそ、この哲学対話界隈は面白いのだと僕は思います。暖流と寒流がぶつかる海域が良い漁場となるように。
(さらには、僕は自分自身を哲学対話の外に出自がある少数派だと思うから、この抵抗感がなおさら心地よいのです。)

話は変わりますが、ここまでの話とちょっと重なって興味深いと思ったのが、芹沢さんの哲学ツーリズムの実践として東日本大震災の被災地に行った話です。
この文章に『「旅マエ、旅ナカ、旅アト」をそれぞれどうデザインしたらいいかということが肝になる』とあるように、この旅は、しっかりと事前準備され、しっかりと目的意識をもって実行され、そして事後も丁寧に結果として残そうと努力されています。
この旅は、いわば、被災地に行くという目的地が重要となっていると言ってもいいでしょう。
一方で、これまで、僕個人が旅に求めてきたものを思い返すと、この生活の場からの離脱のようなものだったような気がします。日本は息苦しいから海外のリゾート地でのんびりするというような。まあ、海さえあれば目的地はどこでもいい。
芹沢さんの旅は目的地が重要だけど、僕の旅は出発地(から離れること)が重要という違いがそこにはあるように思います。
(芹沢さんの旅も、観光客という言葉がキーワードとなっているように目的地に到着しきらない遊離感みたいなのが重要だし、僕の旅だって、目的地がどこでもいいという訳ではない、ということはあるけれど。)

このベクトルの違いは、さきほどの哲学対話の外からの一歩と、哲学対話の内からの一歩という踏み出し方の動きの違いとの話と重なるように思うのです。
傍目から見たら、旅をしているという点では僕も芹沢さんも同じだし、哲学対話の内と外に一歩ずつ置いているという姿勢も変わらない。だけど、そこにある「動き」が違う。離れようとしているのか、向かおうとしているのか。
哲学対話から外に一歩踏み出そうとするとき、それは哲学対話から離れようとしているのでしょうか。それとも、どこかに向かおうとしているのでしょうか。(そのどこかとは何か、という問いへの僕の当面の答えはアカデミックな哲学ですが。それはそれとして。)

そんなふうに「動き」に着目してみると、哲学対話も旅ももっと面白くなりそうだなあ、と思いました。

という感想でした。