「旅人の憩い」を読んで

「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」というSFアンソロジーを読んだ。
とても心に残る題名だと思うのだけど、正月のスリランカ旅行で読んだから、という意味でも思い出深い。
そのなかに「旅人の憩い」という短編がある。
長く続く戦争の最前線にいた兵士が任務を解かれ、戦場から遠く離れた街に移り住むという話だ。
どこがSFなのかというと、戦争の最前線から離れれば離れるほど、時間の進み方が遅くなるという世界なのだ。最前線の1秒が、遠く離れれた街での1年になるというようなかたちで。
読んだときには面白いアイディアだな、くらいにしか思わなかったのだけど、最近、時々思い返す。

思い返せば思い返すほど、このSF的ギミックは、最前線の緊迫感というものをうまく表している。
そこには濃密な生がある。飛び交う短い単語での号令。一瞬の判断が命取りになる。何十年もかけて育まれた命が一瞬で失われる。戦場での一瞬の凄惨な光景が長年のトラウマとなり、そして一瞬の武功がその後の半生にわたる栄光となる。娑婆では決して味わえない絶望と興奮。
このようなものたちが濃縮された最前線を、なんとうまく表現しているのだろう。

そして、この最前線特有の時間の歪みのようなものは、この僕の日常にもあるのではないか、と僕は思いついた。
僕にとっての最前線とは、文章を書くことだ。
文章を書くという営みは、とても時間や労力がかかる。
この文章のような軽い文章でさえ僕は色々と費やしている。今朝、珍しく早く目が覚め、この文章の骨格となるアイディアを思いついたので、パソコンを立ち上げ、朝5時台に文章を書いている。ここまで30分くらいかかっている。より読みやすい表現はないか思いを巡らせ、正確な表現を考え、時々読み直し、文字を消し、書き直したりもしている。僕の才能、僕の労力、僕の時間といったものを濃縮するように生み出しているのが、この僕の文章だ。
更には、もっと哲学的な文章であればなおさらだ。数時間かけて書いた文章が、どうも整合しないのですべてボツになることもある。一行で表される主張を思いつくまでに数日かかることもある。僕の哲学的な文章は、僕のある時期の人生のかなりの部分を捧げたものだと言ってもよい。

正直言って、この僕の戦争は僕の日常を大いに侵食している。
文章を書くなんてことをしなければ、もっと色々なことができるだろう。
もっと稼いで海外旅行に行ってプールサイドでのんびりしたり、料理ができるようになって家族に手料理を振る舞ったり、部屋を片付けて奥さんに褒められたり、ネコを撫でたり。そこには、もっと人間的で好ましい世界が広がっているように思える。まるで戦場から遠く離れた街のように。

では、「文章を書く」という僕の最前線は、何の最前線なのか。
それは、人間の知の最前線なのだろう。
人間の知に新たなものを付け加え、人間の知の領土を拡大するためには、色々なものを費やさなければならないのだ。
僕には、知の最前線を闘い、新たな地平を開くような営みをしているという自負がある。

しかし、それがどうしたというのか。
ネタバレになるので詳しくは書かないが、この「旅人の憩い」では、この戦争そのものの無意味さが暗示されている。
僕の知の戦争も、多分、僕の人生という側面からは全く不必要なことなのだろう。
今の僕の考えは、人生においては、「何をするか」ではなく、「どのようにするか」のほうが重要だ、という方向に傾いている。「文章を書く」ということに囚われた人生というのは決してよいものではない、という予感がある。人は、もっと自由に生きるべきではないか。

それでも僕は、戦場から離れられないことを悟った帰還兵のように、時々、こうして最前線に戻ってしまう。
それは戦場でしか得られない栄光と興奮を得たいから、だけなのだろうか。

(この文章を書くのに1時間15分かかった。このアイディアが形になるまで、ぼうっと夢想していた時間や、こういうことを考えられるようになるまでの知的トレーニングの時間も考慮したら、どれだけの時間がかかったのだろう。その時間が、あなたがこの文章を読む数分間に凝縮されている。これが、僕が感じている時間の歪みだ。)

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