自然科学の言葉を用いた詩

これから僕は、自然科学を全く科学的ではないかたちで用いて、言葉を紡いでいく。
これは、自然科学の言葉を用いた詩だと言ってもよいだろう。

なお、僕は、詩があまり好きではない。
たいていの詩は、焦点がぼやけ、何を伝えようとしているのかよくわからないからだ。
残念ながら、この特徴は、この詩も有している。

詩が、なぜこのような特徴を有しているのかと言えば、詩というものは、明確に何かを伝えようとするものではないからなのだろう。
ただし、それは、伝える意思の欠如ではなく、伝えようとする事柄についての詩人自身の知識の欠如による。
詩人は伝えたい。しかし、伝えたい何を明確に捉えられていないのだ。
そのような意味で詩とは、思考の途中経過としての暫定的な記録である。
将来の自分自身に対してのメモであり、描こうとしている作品のためのデッサンであり、思考の方向を定めるための観測気球のようなものだと言ってもよい。

また、だから詩は、とても不明瞭なかたちで真理という目的地に到達しているとは言える。
少なくとも到達しているような気にさせるし、真理に到達していないことがわかるということ自体が真理へ道のひとつなのだとすれば、そういうことも込みで、真理に到達している。

だけど、僕は、そして全ての哲学者は、それでは満足できない。だから精緻な思考により到達地点までの道のりを、より高い解像度で描こうとする。
それが哲学だ。
しかし、時々は、哲学から離れ、詩というかたちで全体像を荒々しく掴み取ることも必要だろう。
そして、本来は自分自身のためのメモに過ぎないものを、こうして公開することで、何か役立つこともあるかもしれない。

・・・

多元宇宙論によれば、世界全体は11の次元でできているという。
そして、この世界は11次元の世界に漂う、2次元だか3次元だかの膜であるそうだ。

ここで、「世界全体」と「この世界」という表現をしたが、「世界」については、まさに「この世界」と、この世界が所属する、より上位の「世界全体」という二通りの使い方ができる。
それを理解するためには、哲学的には、デイヴィッド・ルイスの可能世界論をイメージすればよいだろう。
可能世界論によれば、この現実世界とは別に数多くの可能世界があるとされる。
この世界は、安倍晋三が総理大臣であることが現実である世界だが、それとは別に、枝野幸男が総理大臣であることが現実である可能世界がありえる。
可能世界論とは、そのような可能世界は単なる想像上のものではなく、可能世界として存在する、という考え方だ。
この現実世界とは別に、枝野幸男が総理大臣である世界や、アメリカがコロンビアと呼ばれている世界や、ネコよりブタがメジャーなペットになっている可能世界が存在する。
大世界(この意味での世界を大世界と呼ぶことにとする)には、この現実世界と無数の可能世界が存在するのだ。

しかし、重要な点だが、無数とは言っても、可能世界の数は、無限ではなく有限の数にとどまる。
可能世界の分岐は、物事があるところで生じる。目の前にコップがあるならば、そこに代わりにペンがある世界や、コップもペンもない可能世界が立ち上がる。
しかし、何も着眼点がないところに分岐は生じない。
コップについて、人が認識できないほど微小な距離、例えば1ミクロンずれた場所に置かれていると想定することに意味を持たせることはできない。
また、ありうる可能性についても限定される。
コップの代わりに例えばそこに優しさがあるというように異なるカテゴリーの事柄が置かれていることはありえない。
このように考えると、想定できる可能世界は非常に多数に及ぶが、その想定には限界があり、人間の思考がその限界にたどり着けるかどうかは別として、有限の数に留まることは確かだ。

大世界には、この現実世界も含めて、極めて多数だが有限の数の可能世界が存在する。
これを、多元宇宙論における並行世界と考えてもよいだろう。
可能世界論における可能世界は、物理的には11次元の宇宙(この宇宙は大世界と読み替えることができる)における別の膜としての並行世界として存在するということだ。

これを、インフレーション宇宙論と重ねることもできる。
インフレーション宇宙論とは、この宇宙はビッグバンから始まったとされるが、それと同じことが、この宇宙のそこかしこで、1プランク長の微小な点を起点に発生しているとする考え方だ。
この宇宙は、この宇宙から生まれる子宇宙にとっては、ビッグバンが生じる前の親宇宙であるということだ。
これは、この僕をとりまく現実世界の一点一点、その全てが、それぞれ、宇宙を潜在的に宿しているということだと言ってもよい。

この宇宙を宿す潜在性を可能世界とつなげることができる。
この世界においては、インフレーション宇宙としての可能世界の生成がひっきりなしに行われている。
コップが置かれるとき、コップが置かれない可能世界が生成され、安倍晋三が総理大臣に選ばれるとき、枝野幸男が総理大臣に選ばれる世界が生成されるというように。
これは、比喩ではなく、実際に可能世界、つまり別の宇宙を生んでいるのだ。

これを、人の営みに重ねるならば、全ての営まれたことの総体がこの現実世界となり、営まれなかったことは全て別様の可能世界として生成される、と言ってよい。
僕の独我論的な世界把握に重ねるならば、全ての認識の総体がこの現実世界となり、別様の認識の可能性が可能世界となる、とさえ言うことができる。
または、僕が自分の人生について語ったことがこの現実世界となり、語られなかったことが可能世界となる、でもよい。
どのような述べ方でもよいが、僕の現実の人生は、可能世界としての宇宙の生成に取り囲まれている。

そういう意味で、この現実世界は、11次元の宇宙、つまり大世界において、僕の選択というかたちで切り取られた膜のようなものだ。
そして、その周囲には、無数の可能世界としての膜が漂っている。
現実世界の近くには、より可能性が高い可能世界が、遠くには、より可能性が低い可能世界が、というかたちで。

ただし、この膜は、いわゆる膜のようなかたちはしていないだろう。
僕は、それは歌のようなものだと思う。
(確か、この膜を音楽に例える本があったが、そうではなく、僕はあくまで歌に例える。)
歌は呼吸が生み出す。身体の根源的な動作としての呼吸が、僕の生を生み出し、この現実世界を生み出しているのではないか。

息を吸うとき、僕は潜在を見通す。そして、息を吐くとき、僕は、そのなかからたったひとつの潜在を選択し、顕在化させる。
深く呼吸をすればするほど、僕はより広い潜在のなかからひとつの潜在を選び、そしてその潜在をより深く顕在化させることができる。
それが、瞑想やヨガということなのではないか。

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