自然科学の問題

僕には「対話の哲学」と名付けようとしている一連の哲学的アイディアがある。
これにより、かなりの哲学的問題について、考察を深めることができると考えている。
その問題とは例えば次のようなものだ。

・世界のあり方のような存在論的な問題
・時間や言語のような形而上学的な問題
・私や身体のような実存的な問題
・善や人生の目的のような倫理的な問題
・美のありかのような美的な問題

ざっと見てわかるように、僕のアイディアがカバーする領域の広さはなかなかのものではないかと自画自賛している。僕のアイディアが正しいかどうかは別にして。

当然、僕の考察はすべての領域をカバーしてはいない。
例えば、政治哲学や応用倫理学のような分野について今の僕が述べることは特にない。だけど、それは単に僕の興味が乏しいからであり、多分、僕の「対話の哲学」の延長線上で捉えることは可能だろうと考えている。

唯一、捉えたいのに今の僕の考察では捉えられないものがある。「自然科学」だ。

それがどういうことか伝えるために必要な範囲で僕の「対話の哲学」について描写しておこう。その内容についてもっと知りたい方は、僕の別の文章を読んでほしい。

僕の対話の哲学は、いわば、私と他者や世界との間の対話というかたちで、私と他者と世界を統合しようとしている。
その統合のプロセスの始点はあくまで「私」にある。対話の哲学の長所のひとつは、始点が私にありながらも、独我論に陥らず、豊かな存在として他者や世界を描くことに成功しているところにあると考えている。
(以上は、僕の哲学を、あくまでもこの文章で必要な限りで切り取ったものであり、不十分な要約です。実際は、この手前やその先があり、それこそが重要と考えています。)
ここでのポイントは、僕の哲学的アイディアは、「私」を始点として世界を把握しようとしているというところにある。
このことと「自然哲学」とは極めて相性が悪いのだ。
「私」を始点とする捉え方では、どうしても世界が「自然科学」的にできている、ということの説明がつかない。これは僕にとっては大問題だ。

なお、ここで「科学」ではなく「自然科学」としているのには理由がある。
なぜなら、論理学に代表されるような演繹的な科学的思考は僕の対話の哲学で捉えることが可能だからだ。対話を継続し思考を深めるということと、論理的で演繹的な思考とは不可分とすら言える。僕がここで問題としたいのは、実験で検証するなどし、現実世界を観察することで世界のあり方を把握しようとする帰納的な科学、つまり「自然科学」である。

僕の問題意識を明らかにするため、まずは「世界が自然科学的にできている」ということの不思議さを例え話で説明しておこう。

僕が赤ちゃんのように無知だとする。
僕が無邪気に消しゴムを握っていた手を放すと、消しゴムは下に落ちる。
僕は面白くなって手あたり次第に色々なものを手にとり、放す。すると鉛筆やスプーンやコップやネコは次々に下に落ちる。どれも下に落ちるので僕は喜ぶ。
そして、とうとう僕は、物は下に落ちるという法則を見出し、いつかは重力という自然科学上の知識を手に入れるだろう。途中を大きく端折っているが、これが自然科学的な知識を得るプロセスの素描だ。
実験を通し、世界の振る舞いについての知識を得る。世界はなぜか自然科学的な法則性に基づき僕に対して反応を返す。

しかし、ここまでは自然科学の不思議は特に生じていない。
では、無知な僕が重力という知識を得た後の話を続けてみよう。
無邪気に色々な物を落として喜んでいた僕は、そのうち、ヘリウムガスが充填された風船を手にとる。そして今までのように手を離す。
すると、風船は下に落ちず、上に昇っていく。
僕は、それに驚き、その理由を研究する。そのうち、空気より軽いヘリウムガスという別の自然科学上の知識を手に入れることになるだろう。

ここに自然科学の不思議がある。
僕が風船を手に取るまで、ヘリウムガスについての知識は僕の中に全くなかった。
僕の中にないことが、風船が上に昇るというかたちで、僕に突き付けられ、それに僕は驚く。
だが、その驚きは、実はヘリウムガスという気体があって・・・というかたちで、うまく自然科学的に帳尻が合ってしまう。

思い出してみよう。僕の「対話の哲学」は「私」を起点としていた。しかし、このヘリウムガスは「私」とは全く別のところで、自然科学的な整合性を持って存在している。僕がヘリウムガスの性質を発見する前から、ヘリウムガスはヘリウムガスとしての性質を持ち、「私」からは全く独立したかたちで自然科学的に整合したあり方で存在していた。そして、更に僕が研究を深めるなら、ヘリウムガスの原子構造などといったところまで含め、どこまでも自然科学的に帳尻が合うかたちに世界は発見されるはずだ。
世界は、「私」とは関係なく、どこまでも自然科学上の法則に基づいている。
僕の驚きは、常に自然科学に先回りされている。
このようなことがどうして起こるのだろうか。これが、僕の自然科学に対する疑問だ。

世界は自然科学的にできているのだからそんなことは当たり前だといわれるだろう。
そのとおりなのだが、それを認めることで実は別の大問題を抱えることとなる。

僕の「対話の哲学」は、多分、この自然科学の問題を除いては、ほぼ全ての問題を統一的な考え方で統合して答えることができる。そこまで大風呂敷を広げるかどうかは別として、かなりの領域をカバーしていることは確かだ。
しかし、「世界は自然科学的にできている」という考え方は、その広範な領域に届くことはできない。そこに問題がある。

いや、この述べ方だと、僕の「対話の哲学」が正しいということが、「世界は自然科学的にできている」という考え方ではカバーできない領域があることの理由になってしまうから訂正したほうがいいかもしれない。
僕の「対話の哲学」が見当違いだったとしても、「世界は自然科学的にできている」というアイディアからでは説明できないことがあることは確かなのだ。

どんなに少なく見積もっても、「世界は自然科学的にできている」という考え方では「私」については説明することはできない。「私」の問題とは、別の言葉を用いるならば、意識や、魂や、クオリアと言われるもので表現される問題群だ。これに対しては、科学的に説明できる、という意見もあるだろうから、更に撤退し矮小化して捉えたとしても、そのような語を用いて論じられているもののうちの、ある問題について、自然科学は答えることができない。
例えば、「この生々しく現前するトマトの赤さのクオリアを、自然科学的にどのように説明するのか。脳のニューロンの活動に随伴しているというのか。」というような問題だ。
(僕は、自然科学の哲学的問題は、このような表現で捉えてしまったら面白くないと考えているが、多くの人が納得してもらえそうな例として、この問題を提示している。)

ここには、自然科学とは別に「私」という問題群が存在する。
この「私」を説明するためには、「世界は自然科学的にできている」ということを前提とした自然科学的な説明とは別に、もうひとつ、「私」を始点とする説明が必要となる。
つまり、この世界を漏れなく説明するためには、自然科学的な説明のほかに、もうひとつ、「私」という見地からの説明が必要になるということだ。

二つの理論が並立してもいいではないか、と思うかもしれない。しかし、それは大問題だ。
僕はここで、世界を漏れなく説明したい、という話をしている。
しかし、二つの理論が並立したままでは、二つの理論が並立することについての説明が欠けている。これは世界を説明し尽くしていないということだ。
これを説明し、世界を説明し尽くすためには、二つの理論が並立することを根拠付ける理論が必要となる。しかし、二つの理論は全く独立しているから、それは無理な相談だ。

「どうしてこんなことになってしまうのだろう。」
長くなってしまったが、これが、この文章で僕が提示したかった僕にとっての疑問だ。
この疑問については色々な言葉で言い換えることができるだろう。
僕は、たまたま、これまで「私」からのルートでの世界の説明を目指してきたから、それでは捉えきることができない自然科学に不思議さを感じる。
だから「世界が自然科学的にできている」というのは、どういうことなのだろう、という疑問として、僕はこの疑問を表現する。

多分、多くの人はこれを、「私」に対して感じる不思議さとして表現するのだろう。
現代の常識的な考え方からすれば、世界はほとんど自然科学的に説明し尽くすことができる。
現代人一人ひとりは天才科学者ではないから、自然科学の全知識は持っていない。だけど、これまで自然科学者が発見した知識は、訂正したりされたりしながら自然科学全体の体系にきちんと位置づけられている。そして、それは今後も続くだろう。そのようなものとしての自然科学的な知識は、まだ発見されていない知識も含め、自立した唯一の体系として世界を覆い尽くしている。そんなイメージを多くの現代人は持っているのではないか。
だけど、僕の見立てでは、それでは唯一説明し尽くせないのが、意識や、魂や、クオリアといった「私」にまつわる問題なのだ。

そういったものも自然科学的な道筋で全てを説明し尽くせると考える人もいるけれど、それは問題を理解できておらず直視できていないだけだと、僕は思う。
そこにはかなりの確信があるから、そのような人たちの考えを誤りだと非難し、論争することは可能だ。だけど、僕は彼らの気持ちもわかるから、そのような無理強いはしたくない。
彼らが「私」の問題を受け入れられないように、僕も「自然科学」の問題をまだ正視できない。僕はこれまで、「対話の哲学」という方向で考えてきて、全てを「私」を始点として捉えることで説明し尽くせそうだった。せっかく、そこまでたどり着いたのに、どうもそこに自然科学という問題がありそうだという落胆は、多分、自然科学者がクオリアに対して感じている思いに近い。
彼らは多数派だから、問題を無視するという力技を使えるが、僕は少数派だから問題から目を背けることができないという違いがあるだけだ。

だが、僕は少し希望も持っている。
僕の「私」の道筋と自然科学者の「自然科学」の道筋は、ちょうど鏡像のような関係になっている。僕が右手を上げるとき、自然科学者は左手を上げるというように。これは、全く無関係ということではなく、真逆という関係があるということなのではないか。
そのような道筋から、両者を統合するようなかたちで、考察をひとつ深めることができるのではないか。
そして、それは、「私」と「自然科学」の対話というかたちをとるのではないか。
それは、今の僕が考えている「対話の哲学」とは全く異なるものになるかもしれないが、「対話の哲学2.0」(ちょっと古いネーミング)とでも言えるものになるのではないか。
今の「対話の哲学」は踏み台となり、全て破棄されてしまうかもしれないが、この考察は無意味なものではないのではないか。
そんな予感がある。

まずは、破棄されるものとしての「対話の哲学1.0」を仕上げてみよう。まずはそこからだ。
なんにせよ続きがあるというのは、とてもわくわくする。

(最後にしつこく注記ですが、僕の「対話の哲学」について、ここでは「私」を起点にしているとしましたが、厳密にはそうではありません。「私」としたほうが、永井哲学などともつながりイメージがしやすいので、そうしました。だけど、そこにある違いこそが、僕の「対話の哲学」というアイディアの生命線だと思っています。)

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