東京メタ哲学カフェで 『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』の話をしました ~「J-哲学対話」の提案~

1 はじめに

東京メタ哲学カフェという、哲学カフェの進行役をしている人などが集まって哲学カフェについて話す場がある。そこで、僕が進行役を務める会があり、土屋陽介さんの本『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』を取り上げた。

この本の魅力は、やわらかい文章のなかに漂う哲学的厳しさの匂いにあると思う。

僕は永井均さんの信者(正確には永井さんよりは入不二基義さんのファンですが)なので、永井さんの弟子である土屋さんの文章のなかに漂っているのは永井的な匂いだと思っている。

進行役として、会の冒頭でひととおり本の説明をするにあたって、そのあたりについても説明した。永井さんの『転校生とブラックジャック』から「哲学的議論のための要諦」の文章なども使って。

2 永井とリップマン 哲学対話の厳しさ

そのせいか、参加者からは、土屋さんの本が描く対話像はちょっと厳しすぎるのではないか、という意見が多かった。例えば、哲学対話とは常に真理を求めるものだろうか、というような意見だ。

少々意外だったのは、そこに厳しさを感じる原因は、マシュー・リップマン的な批判的思考の重視と、ハワイのp4c的なケア的思考の重視の違いにあるではないか、という意見があったことだ。つまり、土屋さんはリップマン的だから哲学対話の厳しさを強調している、ということになる。

永井信者の僕から見ると、土屋さんの厳しさとは、明らかに永井さんの哲学的厳しさと同質のもので、リップマンの教育上の批判的思考の重視とは全く次元が違うもののように思える。

僕の見解をはっきり言うならば、永井は哲学だけど、リップマンは哲学ではない。それほどの違いがそこにはある。

その違いは、誰が探求の共同体への参加資格を有するかを問うことで明らかになる。リップマンならば誰でも参加できると答えるだろう。一方で、永井ならば参加できる人は限られると答えるはずだ。(さらには、参加できる人などほとんどいない、と答えるかもしれない。)

僕は、部外者で単なる哲学好きだから、永井の意見に全面的に賛同する。だけど、哲学者であり学校関係者でもある土屋さんは、そこで迷うのではないか。土屋さんは、悪く言えば、その間で揺らいでいるように思うし、良く言えば、その両者を架橋しようとしている。
つまり、誰もが、永井のような哲学をやることが可能となる世界を目指している。(実際やるかどうかは別として)

それは、確かに大事なことのように思うが、とても困難な事業だろう。だが、言葉や論理だけでは不可能だとしても、土屋さんの人格を総動員すれば、一歩、その方向に進むことは可能かもしれない、とも思う。

その理想的な到達点を表現する言葉はまだない。(あれば到達できてしまう。)それならば、その理想郷をなんとかそれっぽく描写するために、あえて永井的な視点とリップマン的な視点とを同一視し、両者の間に横たわる断絶をあえて圧縮し、同じものとして理解することには意義があるのかもしれない。(それは永井的には、〈私〉と《私》の同一視の問題に近いかもしれない。)

3 脱線と話の流れ

なんていうことは、会では「全く発言せず」に、話を続けた。すると、ほかにも興味深い話がいくつも出た。

まず、哲学対話とは一義的に真理を求めるものなのか、という話題のなかで、対話のなかで脱線した発言はどこまで許されるのか、という話になった。

哲学カフェの進行役として脱線があった場合の対応策としては、脱線したままがっつり話すとか、流れにまかせるとか、頃合いを見て元のテーマに戻すとか、少なくとも今何の話をしているかは明確化するとか、いろいろと出た。

それはそれで聞きたかったことなのだけど、もうひとつ、本当にそれは脱線しているのか、という問題の話が興味深かった。

傍目からは脱線しているように見える発言をしたように見えても、発言をした本人にとっては、その発言は脱線していないはずだ。その人にとっては、その発言は、話の流れの本流、ど真ん中にあるはずだ。だからこそ発言したのだろう。

話の流れをどう捉えるかは参加者によって異なり、認識にずれがあるから他の人からは発言が脱線しているように聞こえてしまう。

それでは、話の流れとは何だろう。

参加者からは、論理的なものなのではないか、という意見があった。

論理的にしっかりとしたかたちで進むことこそが理想的な対話のようにも思える。例えば、理想的な対話は「Aである」「それはなぜか」「Bだからである」「いや、Cだからではないか」「なぜか」「BだとするとDの問題が生じるが、Cならばその問題は生じないからだ」というようなかたちで行われる。このように論理の流れに乗ることこそが、話の流れに乗ることではないか、という意見だ。

だが、哲学カフェでは、そのようなかたちでは議論は進まない。ある参加者が言っていたが、哲学カフェはまるでカラオケ大会のようだ。みんなが交互に楽しそうに歌い、交互にそれを聞いている。そこには一本の流れなどない。だから哲学カフェでの脱線は、「ある程度なら」ウェルカムだ。哲学カフェには確かにそういう側面がある。

4 カラオケ大会

ここからは会で発言しなかったことだが、カラオケ大会にも、よいカラオケ大会と悪いカラオケ大会があるのではないか。

よいカラオケ大会として思いつくのは、僕がファンである入不二基義と森岡正博の共著『運命論を哲学する』だ。

この本は、二人の哲学者の哲学の応答、再応答という構成をとっている。この本の中で、二人の主張は、絡み合い、離れ、また接近し、離れる、とダンスのように進んでいく。二つの哲学が互いを触発し、互いに触発されあいつつ、深まっていく。

ここで重要なのは、両者の議論が全く重なることはないという点だ。ある瞬間、両者が合意し、同じ景色をみているように見えても、それは仮のものであり、いずれは別の道を進んでいくことになる。だからと言って二人の議論がかみ合っていないかというとそんなことはなく、互いに影響を与え合い、二人は自らの哲学を研ぎ澄ませていく。

これこそが、よいカラオケ大会の代表例と言ってよいのではないか。このような、それぞれ自分の歌を歌いながらも、互いを高めあうようなカラオケ大会もある。

悪いカラオケ大会との違いは、聞き手のスタンスにあるだろう。よいカラオケ大会は、ほかの人の歌をきちんと聞いて、合いの手も入れるが、悪いカラオケ大会では次に歌う自分の曲を選ぶのに夢中でひとの歌など聞いていない。

また、歌い手側にも、聞くに値する歌を歌うかどうか、という違いがあるだろう。上手であれば当然聞きたいし、自分の興味に沿った歌なら上手でなくても聞いてみようと思うし、下手で興味と多少ずれていても本気の歌なら聞いてあげようと思う。だから、よいカラオケ大会では、選曲を気にしたりもする。あの人は松田聖子を歌っていたから、僕も少年隊にしこうかな、というように。悪いカラオケ大会では、めいめいバラバラなジャンルの歌を歌っている。誰も知らないインディーズバンドの間奏が長めの曲を歌ったりもする。

同じことが、哲学カフェでの発言でも言えるのではないか。

そうだとするならば、議論の流れのよしあしというのは、少なくとも論理の側面からのみ捉えられるような単純なものではないように思える。

5 哲学対話と会話の違い 新しさ

また、土屋さんの本では、哲学対話と会話の違いについて論じられているので、その話にもなった。「土屋さんは真理を求めるのが哲学対話としているけれど、違うのではないか。」「違うとしたら哲学対話とは何を求めるものなのだろう。」というように。

興味深かったのは、色々話した末に、哲学対話とは「新しい気付き」を求めるものだ、という(当面の)結論に至ったということだ。つまり「哲学対話とは、新しい気付きが得られるようにデザインされた場である。その点でデザインされていない会話とは異なる。」という見解にたどり着いたのだ。(僕なりのまとめです。)

なかなかいい結論だと思う。少なくとも「新しい気付き」というのは哲学対話の重要なキーワードだろう。そのときの話にも出たが、河野哲也さんの本『人は語り続けるとき、考えていない』でも「新しさ」が強調されている。

通常の会話でも、たまたま新しい気付きが得られることはあるが、哲学対話というのは、ただ新しい気付きを得ることだけを貪欲に求める場なのではないか。その目的のために特化するかたちでデザインされた場なのではないか。

そして、「新しさ」は、「本気さ」とも関わっている。参加者からの本気の発言だからこそ、その新しさが浮かび上がる。どんなに珍奇で新しい話であっても、言葉遊びのような軽薄な思考実験のようなものでは心に響かない。哲学史的には手垢がついたようなアイディアであっても、それが誰かの心からの言葉であれば、それは新しさをもって立ち現れる。だから哲学対話では、「新しさ」と「本気さ」が重要だ。

(思考実験を否定的に扱いましたが、哲学では思考実験が重要となることがあります。それは、哲学者の本気を伝えるために思考実験が使われているからなのだと思います。)

この「新しさ」の重要性は、土屋さんの本のクライマックスとも言える、透明化・不透明化の話とも結びつく。

概念を鮮明化し、どんどんわかっていく過程としての透明化と、それに逆行するような、どんどんわからなくなっていく過程としての不透明化の話だ。

参加者からは、この不透明化という言葉が適切ではないのではないか、という話が出た。「そもそも」を問うことは、盲点のように見落としていた点に気付くとも捉えることもできるから、それも、わかっていく過程のひとつとしていいのではないか、という見解だ。いずれもわかっていく、であり、わかり方には二通りあるということになる。

確かにそれでもいいような気がするが、やはり、わからなくなっていく過程と考えたほうが、含蓄があるような気がする。そのほうが、参加者から出てきた「未熟」という言葉も活きる。

不透明化とは、自分が未熟であることに気付くということではないか、というようなかたちで「未熟」という言葉は登場した。「未熟」という言葉に力点を置くなら、不透明化とは、いわば、若返り、子供に退行するようなプロセスとも言える。

この、「未熟」になることと、「新しさに気付く」こととは直結するのではないか。

哲学対話とは、新しい気付きが得られるようにデザインされた場であるならば、それは参加者が未熟になる場であると言い換えることもできるように思える。

このアイディアは、多分、河野さんの意見にかなり近いところにあるように思う。哲学対話を、透明化と不透明化の往復運動のように捉える土屋さんと、不透明化を重視する河野さんという力点の置き方の違いなのかもしれない。

6 ケア的思考

また、今回、他の参加者と話していて、僕にはケア的思考が欠落していることに気付かされた。

僕にとって、ケア的思考とは、哲学対話の場では、発言者が、上下関係とか、生活上の利害といったものから解放され、そのせいで発言者が傷つけられることはない、という程度の意味で解していた。土屋さんの本からは、多分、土屋さんもそのように考えているように読める。

だけど、今回の参加者の多くにとってはそうではなかったようだ。哲学対話を実践する人たちの多くは、簡単に言えば、「哲学対話の場においては、発言者は、ほかの参加者が傷つかないよう、配慮して発言すべきだ。」と考えている。これこそが、ケア的思考であり、そして、その配慮の有無が哲学と哲学対話の大きな違いだと考えている。僕が考えていたのは話し手に対するケアで、他の参加者が考えていたのは聞き手に対するケアだったのだ。

この観点は、今回の会で話に出た、「大人の哲学対話と子供の哲学対話の違いは何か。」という問題や、「哲学対話は共同体を構築するのに役立つのではないか。」といった話題にもつながる。いずれの問題も、ケア、他者への配慮、ひいては教育という問題が色濃く関係している。

ところで、土屋さんは、本の中で、哲学対話において行われていることを「議論」と表現している。哲学対話とは哲学と同じように、真理を求める議論であるという意味を込めているのだろう。

しかし、参加者からは、「議論」という言葉への違和感があるという意見があった。哲学対話で行われている「対話」とは「議論」とは異なる、もっと優しい営みなのだ、という意見だ。だから、膨大な知の蓄積を武器に、相手へのケアなどは考えずに議論を戦わせる哲学と、素手で、優しく相手を思いやりつつ楽しむ哲学カフェとは大きく異なる、ということになる。

別の参加者が、哲学と哲学カフェの違いを寿司とカルフォルニアロールの違いとも言っていた。うまいことを言うなあ、と思った。確かにそうだ。

だけど、その人は、哲学と哲学カフェの違いを強調する意味で、この比喩を用いていたけれど、僕の理解は違う。どちらも米と海苔を使っているじゃないか。やはり、哲学と哲学カフェはつながっているのではないか。寿司とカルフォルニアロールという言葉からはその、つながりも強調できるのではないか。

哲学と哲学カフェは、大きく違っているけれど、やはりつながっているのだ、と僕は思いたい。

そうだとするならば、ケア的思考に込められた二つの意味、つまり、安心して発言できるという話し手へのケアと、ほかの参加者を傷つけないよう配慮して発言するという聞き手へのケアともつながっているのではないか、と僕は思う。

話し手が心から安心して発言できる場が確保されていれば、それ以上の配慮は必要ないのではないか。そのような場では、自動的に、話し手の発言により聞き手を傷つけるようなことなど起こらないのではないだろうか。

7 さいごに J-哲学対話

この会では、他にも色々と面白い話が出たけれど、僕にとって特に興味深かった点についてだけ、それも、考えていたけれど話に出さなかったことや、そのあとに考えたことも含め、雑多にメモしてみた。

今回は、とても楽しくて、色々考えさせられた。それは、土屋さんの本と参加者の皆さんがいい感じで、そして、僕自身もいい感じだったからだと思う。最後に全員に感想を聞いたところ、それぞれ、重要と感じた点は違ったようだけど、皆さんにとって、いいカラオケ大会だったならいいなあ、と思う。少なくとも僕は楽しく歌わせていただきました。

ここまで書いたことを読み返すと、今回出た問題の根底には、冒頭に書いた、リップマンと永井の違いの問題があるように思える。

誰もが一緒に哲学を育むことができると考えるリップマンと、限られた参加資格を有するひとだけが、ともに哲学を育むことができると考える永井の違いだ。

永井的な道筋を重視することで、これらの問題は一挙に解決できそうな予感がある。

突然だけど、ここで出てきた日本人の哲学者、永井さん、入不二さん、森岡さんは、いずれも現代哲学ラボという哲学対話とも関係が深い活動に関わっている。(最近活動がないけど、活動再開を熱望します!)紹介した『運命論を哲学する』という本は、現代哲学ラボでの活動がもとになったものだ。

この本の前書きで、森岡さんは、彼らの哲学をJ-哲学と名付けている。僕の理解では、彼らの共通点は、自らの哲学的驚きに基づき、自らの言葉で、自らの哲学を構築しようとしているという点にある。このような本物の哲学が、今、同時多発的に、この日本で、日本語で行われているという稀有な状況にあるのだ。これが、J-哲学とあえて名付けたことの意味だろう。

そして、このJ-哲学は、アカデミックな論文ではなく、自らの言葉で構築されているという点で、哲学対話という活動に非常に親和性が高いように思える。そして、実際に、哲学対話と結びつこうとしている。

僕は、J-哲学と結びついた哲学対話をJ-哲学対話と名付けたい。J-哲学対話は、ソーテやリップマンやハワイのp4cといったものとは別の、もうひとつの哲学対話の潮流として位置づけることができるのではないだろうか。あえて言うならば、J-哲学対話こそが(そのネーミングがいいかどうかは別にして)、本物の哲学と直結した本物の哲学対話ではないだろうか。

意識的か無意識的かわからないけれど、それをやろうとしているのが、土屋さんの本のように思える。

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