思考の限界と家庭と旅

哲学は思考の幅を広げてくれる。もしかしたら思考の幅を広げること自体が哲学なのかもしれない。「氷を熱すると水になる。」「友達が多いことはいいことだ。」「目の前に見えるこのスマホは確かに存在する。」そんな当たり前を疑うところから哲学は始まる。当たり前という枠を取り払い、「友達なんていなくていいかもしれない。」「そもそも『いいこと』ってなんだろう。」なんて考えを広げていくのはとても哲学的な議論のあり方だろう。

ここで注意しなくてはならないのは、思考を進めるためには、思考を成立させるための枠組みが必要になるということだ。どんなに思考の幅を広げても、それは変わらない。特に重要な枠組みは3つあるように思う。①科学的な枠組み、②倫理学的な枠組み、そして③認識論的な枠組みだ。

①科学的な枠組みとは、自然科学的な手法が有効であることを前提とするということだ。当然、どのような手法が自然科学的に正当なものかどうかは議論の余地がある。「科学において実験は必須なのか。」とか、「どの程度の反証可能性が必要なのか。」というような問題だ。そうだとしても、そのような議論を経て、その手法が自然科学的に正当なものであることが明らかになれば、それは有効な手法であるのは明らかだ。この枠組みには、科学者だけでなく、ほとんどの現代人が従っていると言っていいだろう。

②倫理学的な枠組みとは、この世界は他者で満ちているということを前提とするということだ。もし、この世界に人間が自分ひとりしかいなかったら、倫理学は始まらない。人間以外の生物についての倫理学や、もしかしたら無機物についての倫理学のようなものもあるかもしれないが、そうだとしても、そのような別の存在を他者として認めることが前提となる。

以上の二つの枠組みは極めて常識的なものであり、それらをあえて枠組みとして扱う特段の必要性などないと思う方もいるかもしれない。だが哲学においては例えば、デカルトの方法的懐疑のようなかたちで容易にその枠組みは乗り越えられる。自然科学が有効に成立しているのは夢の中だけなのかもしれない。夢から覚めれば、そこはリンゴが木から落ちずに虚空に吸い込まれるように飛んでいく世界かもしれない。またはこの他者に満ちた世界は悪霊が騙して見せている幻で、実は、この私は人類の最後の生き残りなのかもしれない。

デカルトの懐疑はとても強力で、多くの思考の枠組みを破壊してしまう。しかし、デカルトの懐疑を遂行するうえでは③認識論的な枠組みを前提としていることを指摘しておきたい。夢の懐疑では、実はあれは夢だったと気づくことを前提としている。また悪霊の懐疑でも、実はあれは悪霊に騙されていたと気づくことを前提としている。デカルトによれば、認識誤りを認識で正すことができる。デカルトの問題とは、どこまでも認識についてのものなのだ。そこには、認識は間違うこともあれば、認識は正しいものであることもあるという前提がある。これがデカルトに代表される③認識論的な枠組みだ。

以上、思考には①科学的な枠組み、②倫理学的な枠組み、③認識論的な枠組みといったものがある。(ほかに重要なものとしては、クワインのホーリズムやウィトゲンシュタインの言語ゲーム論につながるような④意味論的な枠組みなどもあるが、本題とずれるので省略する。)

以前の僕は、哲学においては、このような枠組みを乗り越えれば乗り越えるほど哲学的に前進することになると思っていた。だから僕は、認識論や意味論の限界ぎりぎりのところを論じる形而上学以外の哲学に意義を見いだせなかった。倫理学なんて、無根拠に色々なことを前提としすぎていて、無駄な議論だと思っていた。(今もそう思ってしまう傾向はあるけど・・・)

だけど、哲学カフェに参加していて気づいた。誰もがデカルトの懐疑をやりたい訳じゃないんだ、と。「友達が多いことはいいことか。」を論じているときに、そもそも、悪霊に騙されて友達がいると思い込んでいるのかもしれない、と指摘しても、ほとんどの参加者は喜ばない。参加者たちはそのような話をしたい訳ではないのだ。(もうひとつの喜ばない理由は、手垢のついたつまらない展開だから、というものだが、脱線になるので省略する。ただ、トロッコ問題を持ち出すような展開を思い起こせばおおよそは伝わると思う。)

多くの人は、思考に限界を設け、その枠組のなかで、箱庭のような土俵の上で、議論をしていくことが好きなのだ。僕は、もともとの性向から、そのようなことに疎くて気づかなかったけれど、哲学の世界とは、そのようなものなのだ。だから冒頭で「もしかしたら思考の幅を広げること自体が哲学なのかもしれない」としたのは誤りなのだろう。

哲学の魅力は少なくとも二つある。ひとつは、思考の限界を乗り越え、その先に進む魅力であり、もうひとつは定められた限界の中で精緻に議論していく魅力だ。

では、後者の魅力、限界のなかで議論することの魅力とはなんだろうか。多くの人はわかっていて僕だけがわかっていないのかもしれないけれど、この問題について考えてみよう。

ポイントは、その限界は限界として意識されていないというところにあるのだと思う。当然、倫理学者はデカルトの方法的懐疑くらい知っているし、哲学カフェに来ている人だって、「昨日会った友人や目の前のスマホが存在すると思っているのは夢の中だけの話かもしれない。」と言えば、言わんとすることは容易に理解するだろう。だけど、彼らは、そこに論じるに値するような切実な問題を感じないのだ。そんなどうでもいい話ではなく、もっと倫理的な問題について話したいのだ。そこに限界があることはわかるけれど、意識をそこに向けるのではなく、もっと別のところに向けたいのだ。そこにあるのは思考の限界とは別のもの、例えば倫理的な問題に対する愛着だと言っていいだろう。

そう考えるならば、思考の限界とは牢獄や檻のようなものではないのかもしれない。檻ならば、それを破壊して脱出すれば自由になることができる。僕にとっては思考の限界とはそのようなものだった。だけど実は、思考の限界とは家のようなものなのかもしれない。(家庭にも色々あるので良い比喩ではないかもしれないが)帰ってくると安心する、愛する我が家というイメージだ。倫理学者にデカルトの懐疑について論じさせることは、無理やり快適な我が家から嵐の中に連れ出すようなものなのだ。それは誰も望まない不幸な出来事でしかない。

それならば、思考の限界とは慈しむべきものなのだ。僕は哲学カフェを通じて、そのようにして生きていく人たちのことも少しは理解できるようになった。そのようにして生きることができるのは、とても幸せなことだと思う。なぜならば、思考の限界からはどこまでも逃れることはできず、思考の限界を乗り越えようとすることは、終わりのない旅のようなものだからだ。そこには安住の地はない。

だけど、楽しい旅行から帰ってきたときには、ああ帰ってきちゃった、と思うこともある。DVがあるような家庭であればなおさらだ。僕は僕自身の性向から、家の外に喜びを見出す旅人のように、思考の限界の先に進むような哲学をしていきたい。そして、そのような哲学ができる哲学カフェの場を今後もつくっていきたい。僕と同じように家の外に出ざるを得ない人たちには必要なことだと思うから。

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